第36話:散歩の誘い

〈明日、散歩に付き合って。午後四時、店に迎えに行くからね〉


 出島さんと別れた後の帰り道。ニャインの画面を見て首を捻る。

 明日というと、おそらく今日。あたしはシフトが入っていて、午後四時はその開始時刻。


 いきなり散歩というのも意味が分からないけど、他ならぬ明さんなら構わない。

 問題は日付け、あるいは時間を誤っているのではと思う。もちろん返信して問えばいいが、今は午前五時過ぎ。着信音で起こすのは悪い。


「うーん」


 唸る声さえ、辺りの静かな路地に跳ねて聞こえる。

 しかし、返信することにした。帰宅したあたしは、間違いなく寝る。その間に明さんの意図した時間を過ぎれば、待ちぼうけさせてしまう。


「今日の午後四時もシフトなんですけど、書き間違いとかですか? っと」


 ぼんやりした頭では文面がまとまらず、声に出す。三度読み返し、朝早くの返信ですみませんと加えて送った。


 さて、棲家であるところのライオンパレスに着いた。また返事があるまで起きていられるだろうか。それとも目覚ましをセットして、二時間くらい眠るのがいいか。

 などと考えている間に、ぽひゅっと着信の音が聞こえた。


〈間違ってないよ。シフトのことはこっちでやるから、心配しないで〉


 こっちでやるって、明さんが?

 いやいや普通にパートの誰かを呼ぶってことだ。オーナー夫妻の一方が言うのだから仕方がないけれど、その人には申しわけない。

 コンビニのお菓子でも用意するとして、もっと気になることが一つ。


「あたし、何かした――?」


 そこまでして呼び出すとは何ごとだ。最も可能性の高い、唯一の候補に知らぬふりを決め込み、別の理由を探す。


 が、何も無かった。

 あたしが一番の被害者、などと明さんは言った。だから呼ぶのだと思うが、場違いなことこの上ない。

 自宅の玄関を入り、シャワーをしてベッドに転がっても、うまく寝られなくなった。ウトウトと眠りの縁まで行っては、奥底から湧いた不安に揺り起こされる。


 きっと明さんは一睡もしていない。そんな気持ちを抱えた人と、あたしが?

 鬼の形相をしたあの人と、同じく向かい合う誰か。もしかすると、小さくなった店長も。

 それぞれの顔が、勝手に頭へ浮かぶ。三、四時間ほども夢うつつで、終いには吐き気がし始めた。今日は眠るのを諦めることにした。


 * * *


 午後三時半。用意を済ませたものの、出かける決心がつかない。

 黒いフェイクレザーのハーフパンツに、アイボリーの大きめニット。黒いタイツも合わせて、あたしの中では精一杯の姉コーデなのだが。


 まさか制服を着ていくわけにもいかないし、出島さんを見習ってスーツでも借りてこようか。残念ながらすぐの心当たりはない。


 さらに五分くらいが過ぎ、約束に間に合わなくなる。重い重いため息を姿見のあたしへ預け、玄関を出た。

 間もなく、三人で並べる歩道。この先を折れればラブホ通りがある。これからの予定に、たぶん関わっている場所。

 いつも俯いて視界に入れないところを、今日は嫌々ながらも顔を上げて向かう。


「あれ……?」

「やほ」


 ラブホ通りと交わる角に、明さんが居た。電信柱にもたれ、いじっていたスマホごと手を振る。


「お店で、じゃなかったでしたっけ」


 変更の連絡を見落とした? 急いでスマホを取り出すが、通知は無かった。念の為にニャインを起動させても結果は同じ。


「目的地はここだから。穂花ちゃんに二度手間させるのも悪いでしょ」

「はあ」


 明さんの指が、ラブホ通りへ向く。この近くの居酒屋さんとかではないらしい。


「えっ。ここが目的地って、ほ、ほ、ホテルに?」

「そうそう」


 口ごもったあたしを、明さんは笑う。「ぷぷっ」と、わざとらしくだけど楽しそうに。


 踏み込むってことだよね?

 店長と誰かがナニをしているやら、想像もつかない場所へ。


「あ、明さん? あたし、居ていいんですか」

「ええ? 居てくれないと、むしろ困るよ」


 袖をつかんで引っ張ったが、止まるはずもなかった。ランランと鼻歌の聞こえそうな感じで腕を振り、明さんは一つのビルの入り口にまっすぐ歩いた。

 看板には、ホテル ダックとある。


 出島さん。

 心の中で助けを求めた。超能力は使えないし、今ごろ彼は大阪行きの途中だ。

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