第30話:心の準備
言える言葉の見つからないまま、最初の小鉢と飲み物が運ばれた。すぐさま「かんぱーい」で明さんはビールのジョッキを掲げる。あたしもりんごジュースのグラスを捧げ、ぶつける。
ごっごっと喉の鳴る音。あさり入りのおひたしみたいな小鉢を、バクッとひと口。明さんの食べっぷりは気持ちがいい。
「まあ、そうよね」
「え?」
まだモグモグしながら彼女は言う。何をにか、うんうんと頷いて。
「どう、って漠然としすぎ。逆に私も、これなら確実って選択肢は出せなくて。希望を承った上で善処します、なんだけどさ」
あたしもおずおずと、縦に首を動かす。
「あ、でも。逆にって言うなら、そんなに最悪の状況なんですか? 結果を見たら、なぁんだっていうようなこととか」
「可能性はあるよ。最悪も、なぁんだも。だから最悪を引いた時の準備っていうか、心積もりというか。そういうのを聞いとこうと思って」
でなければ蓋を開けられない、か。たしかにと思うし、明さんらしい。
「例えばだけど。七年分の退職金って言うなら、もう想定してる。穂花ちゃん以外の人は、みんなそうしようかなって。勤めてくれた月数に一万円を掛け算で」
「一年なら十二万円?」
「ご明算」
そんな物は欲しくない。が、条件を提示されれば自分を当て嵌めてみたくはなる。
単純に十二かける七として、八十四万円。
「いやいやいやいや! そんなの貰えないです!」
「こっちの恥ずかしすぎる都合だから、迷惑料よ。大人が謝るのに、ごめんなさいだけじゃ済まないの。貰ってくれるほうが、こっちもありがたいってもんよ」
「そんなの」
そんな理屈はおかしい。咄嗟に出た声を途中で呑みこむ。
「そんなのは、あるかもしれないですけど。私は希望を聞いてもらえるっていうなら、貰いたくないです。受け取るって言ったら、本当に終わりみたいで」
うん。あたしがどうしたいかと言えば、お店を終わらせないで、だ。
りんごジュースをひと口。噛んで飲む間をかけても、答えは変わらない。
「終わるよ」
おもむろに注文のタブレットを取りつつ、明さんは言った。呟くのでも断言でもなく、そういうメニューがあるみたいに。
「ああ、言葉足らずだった。終わる時には終わるよ、何でもね。その時、より良い終わりにする努力をしてなかったら後悔する。ウチの店なら、努力しなきゃいけないのは蔵人と私」
冷たい説明書きだ。そんな註釈の付く食べ物を、冬の垣間見える季節に食べたくはない。
ぎゅっと唇を結んで拒んだ。
「でも、そんなに愛着を持ってくれるのは嬉しい。だったら穂花ちゃんに、店を引き継ぐって案もあるね。そうだねえ、家賃だけ払ってもらったら、あとはお任せってとこで」
「できるわけないじゃないですか」
できるできないよりも、あたしが好きなのは今のカフェだ。明さんと、まあ店長と、顔を合わせなくなった馴染みの同僚達の居る。
「そう? ウチの仕事で穂花ちゃんにできないことって、あるっけ」
何もかもだ、できることのほうが少ない。
言い返そうとして、ちょうど引き戸が開いた。お代わりのジョッキやわさび漬け、だし巻きなどなどがテーブルに載る。
あたしはこの店員さんと同じ。飲み物は作るけど、料理はしない。
ほら。と勝ち誇ってみるものの、そうでもないかと思い直す。
「調理係の子、経験者ばかりじゃないよ。穂花ちゃんセンスいいし、ちょっと練習したらできるよ。接客は言うまでもないよね」
「お、お金の管理とか。新しいメニューとか」
「お世話になってる税理士さん、紹介する。私だって、相談なら幾らでも」
どんどん堀が埋まっていく。うっかり、あたしが引き継ぐしかないんだなぁなんて考え始めた。
違う、経営者になりたいなんて言ってない。
あのカフェが無くなるのは嫌で、避けられないとしても遺産を分けるみたいな会話が苦しい。
「すみません明さん。その話はちょっと置いといて、私のこと言ってもいいですか?」
「ええっ? もちろんもちろん、聞かないわけないでしょ」
店員さんが居なくなり、戸を閉めた個室は静かだ。壁の向こうから楽しげな声が聴こえるけれど、そういうBGMという感じで。
「私、辞めさせてもらってもいいですか」
「辞めるって、ウチのパートを?」
明さんの顔に、影が差す。ずっとニコニコしているのは変わらないが、どことなく。
「そうです。最近、私のせいで雰囲気悪くなることも多いし。お店が無くなるの、見たくないし」
かなり盛った言いわけだ。夜のシフトの人達は、少なくとも表だった態度に出さない。何かと空気の端々に嗅ぎつけたあたしが、勝手にへこんでいるだけ。
正直なところで頭に浮かんでいるのは、あの二人連れ。トビとカモの顔だった。
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