初めての彼女の幸せ

 日記を読み続けて、もう二時間経ってしまった。まるで昔ハマっていた本かのような懐かしさと、外国のドキュメンタリーを見ているかのような新鮮さが相まってそれを読むのが楽しくさえ思えてしまった。

 いや、楽しんでいるというよりは先が気になる興味と好奇心、そして、読まなければならないと思えるような義務感に、私は衝動的にページをめくり続けていた。


 中学二年生の夏、学園祭が終わりバンドの活動が本格的になり始め、段々と私たちとらい君との距離が開いていく度に、その日記に書かれている内容は私の知らないものになって行っていた。


「七月二十九日、らい君とデートに水族館へと行った。らい君は物知りで、魚の名前を良く教えてくれた。ただ、私はあんまり魚に興味が無かったし、らい君は優しく教えてくれたけれど私は付いて行けなくてほとんど聞き流してしまった。私も一緒に楽しみたかったけど、思わず私に合わせて、なんて言ってしまった。らい君は気まずそうに眉を顰めたけど、笑みを絶やさず頷いてくれた。帰り際、らい君は私の為にとキーホルダーを見てくれたけど、隣で同じものを買っているカップルがいて、要らないと言ってしまった。誰かと同じなんて嫌だって思うけど、ただ、そのせいでらい君を困らせてしまったこと。それと、らい君との思い出を手元に置いておけなかったことに凄く後悔してしまっている。らい君は最後まで優しくしてくれた。もう一度別のお土産を買ってくれようとしてくれたし、家まで送ってくれた。でもまだ少し私のことを分かってくれていない。お土産のセンスは私に合わないし、私の話に合わせてくれない。それに、まだ自然と手を繋いではくれない。車道側を歩いてくれる、周囲を見て危険があれば教えてくれるし、水族館のルートだって事前に調べてくれていた。だけど、まだまだぎこちない。手を繋ぐときに遠慮がちだし、なかなか視線を合わせてくれない。照れたりするのも、もちろん可愛くて好きなんだけど。まだ私を好きになってくれていない。もっと好きになって貰わないと。もっと、もっと好きに――……嫌になっちゃうわね」


 ちょうど最後のページだったので日記を閉じ、新しい日記に手を伸ばそうとして、止める。

 代わりに新品の日記を手に取って開き、袖口に仕舞っておいたシャーペンを取り出して今日のことを記録する。先ずは日付、の前に年を書いておく。あの子に倣って。年、日付、曜日、書き出しは、今日は学園祭の一日目。


 久しぶりに、ステージに上がった。


 今日はもう、何年振りかにステージに立った。完ぺきな演技だったと思う、声援も凄かった。正直自分でも上手くいってたと思う。

 たった理由は、少し突発的な物だった。


 書いていって、なるほど、意外と書き進むものだなと思った。夜見よみは書きすぎだと思っていたのだけれど、案外私も一日分の日記でノート一ページが埋まってしまいそうだった。

 書き終えて、ノートを閉じる。達成感をため息に乗せて吐き出し、シャーペンを袖に仕舞う。最近、ペンを使う度に袖に仕舞う癖がついてしまった。時計も付けてみたくなった、携帯ハサミも買いたくなった。


 帰って来てから少しずつ、私は自分を見つけて行った。


 書いた日記の内容を思い出して、夜見よみと似ているなと思ってしまった。あの子も、私も、自分の思うことを主観的に書いている。と、客観的に述べてみる。


 立ち上がり、取り出した日記を段ボールに仕舞おうとして、まだ読んでいない一冊を手に取った。 

 脇に持ち、他の散らかったのを片付けて私が書き始めた新しい一冊も持ち上げ、自室に向かった。


 扉をくぐり、袖口のペンを机に置いてベッドの横になる。机の上に私の日記を置いて、もう一冊を開き、仰向きになって見上げる。


 パラパラとめくって、少し分厚い部分があってそこを開く。


 イルカ型のキーホルダーが落ちて来た。見覚えのある柄、重さ。頬にぶつかったその感触は……近くの水族館で売っているストラップだった。手に取って見上げる。傷一つ付いていなかった。


 そっと、日記に間に挟んで、日記を机の上に置いた。


 照明を落として、疲れた目を閉じて右手を被せた。額の上に冷たい甲の感覚と、少しの重さが伝わってくる。


「あの子も、苦労してたのね。……当然と言えば当然か。あの子は誰よりも、自分の苦しさを知っている」


 ああ、気付いてあげればよかったかもしれない。いや、気付かせてくれなかったのか。あの子は、本当に隠し事が上手いみたいだ。そんなことに、今更気付かされた。


 ああもう駄目だ。

 帰ってきたあの日、もう泣かないって決めたんだ。もう泣かない、泣かないって、そう……決めたはずだ。


「どうして、ねえ、どうしてなの、夜見よみ……だって、ずっと嬉しそうにしてたじゃん。楽しそうに、幸せそうにしてたじゃん……なのに、なんで」


 そういえば保水液を使うのを忘れてた。


 がさついた頬に水が伝った。

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