初めてのカラオケ

 受付を済ませた俺たちは借りた部屋へと移動する。なおも続く沈黙に耐えかねて、俺はマイク片手に玲奈さんの方を向く。


「何か、歌いたい曲はある? よかったら先に歌ってよ」


 ここを訪れるのは初めてだがカラオケに行ったことはある。タブレットを手に取ってなんとなく分かる操作を行ってページを進めて行く。

 曲検索、と言う画面を表示させながら玲奈さんに言うと玲奈さんは俯けていた顔を少し上げる。そしてあからさまに元気なさそうに答える。


「え……あっ、ごめんな……っ! う、歌います。どうやって曲を選ぶんですか?」


 明らかに怯えていて、どこか不安そうな佇まい。不自然に震える体と力の入り切っていないマイクを受け取る手。上擦った声もそうだけど、緊張とかそんな域を軽く超えるくらいに心細そうにしていた。

 聞かれた通りに淡々とタブレットの操作方法をレクチャーしながらまとまり切らない脳内を一旦整理する。


 酷く落ち込んでしまった玲奈さんは俺と会話することさえ拒んでいるように思う。そうなった原因は……色々考えられる。今思い返してみれば俺は彼氏として以前に知人として関わり方がなってなかったような気もする。

 落ち込んだ人を元気づけるのなんて彼氏として手を繋ぐ以外にもいくらでもあったはずだ。それなのに玲奈さんの彼氏であろうとするが故に思考を停滞させ、更には玲奈さんの言葉を理由に実行を拒んだ。正直、最低だ。


 でも、それが分かってもこれからどうすればいいかが分かるわけではない。元気づけようとするべきか、それを出来ていなかったことを謝るべきか。はたまた、もう関わらないべきなのか。


 ……違う。俺が彼氏である以上は彼氏として行動するべきなんだ。彼氏であることから逃れようとするな。

 

 カレカノの常識。

 付き合っている以上は互いに恋人としてパートナーを支え、幸せにすること。


 俺はこの責任から、逃れられてはいけないのだ。


「えっと、何が良いかな……」


 タブレットを眺めながら小さく呟いた玲奈さんの空いた手に俺は右手を重ねる。


「ふぇっ!? ら、頼斗君!?」

「ここなら誰も見てないし、玲奈さんもあんまり恥ずかしくないかなと思って。出来るだけ早く慣れてもらったほうが、玲奈さんのためにもなると思うし」

「で、でででも!」

「嫌なら、そう言ってくれていい。無理強いしたいわけじゃないんだ。ただ、玲奈さんのためになるかな、と思ったから」


 安心させるように優しく握った手から動揺が伝わってくる。握り返そうとしている指が不自然に触れたり、離れたりする。瞳が渦を巻くくらいに目を回し、一気に頬を高揚させて口を小さく閉じたり開いたりしている。

 あたふたしながらも手を振り払ったりはせず、目を逸らすこともしない。ただ本当に恥ずかしそうに息を詰まらせていた。


「えっと、どうかな?」

「……その、私っ……今日はまだ始まったばっかりなのに、失敗ばっかりで……き、嫌われちゃったかなって!」


 これは、彼女の中で渦巻いていた本音なんだろう。そして恥ずかしさを乗り越えて絞り出した勇気の印なんだと思う。こんなことを直接言うなんて誰にでもできることじゃない。

 

 俺からの反応がどういったものか分からず怒られたり、責められたりすると思ったのか言い終えてすぐに瞳を閉じて僅かに手を握り返した玲奈さんの頭に開いた左手を向ける。


「えっ……?」


 ぽんっ、と撫でるように置いた手を髪のセットを崩さないように優しく動かす。


「そんなわけないよ。俺のために、って頑張ってくれてたんでしょ? 嫌えるわけないし、怒れるわけない。それに俺、嬉しそうに笑う玲奈さんの笑顔が好きなんだ。見ていてこっちまで元気になるし、思わず笑いたくなるような可愛らしい笑顔が」

「ふぇえっ!? か、可愛いって、急にそんなこと言われても!」


 沸騰したかのように頬を赤くして恥ずかしさからか身を引いた玲奈さん。左手は振り落とされてしまったけれどこんなことじゃ諦められない。


「誰が何と言おうと、玲奈さん自身がどう思っていようと、俺は玲奈さんの笑顔に救われた。そして、優しさに救われたんだ。あの日、もし玲奈さんが見つけてくれなかったら、助けてくれなかったら俺、もっと酷い状態になっててもおかしくなかった」


 あの暗い雨の日、目の前が真っ暗になって足元さえも見えなくなっていたあの日。夜にさえ見放されたあの時に手を差し伸べてくれたのは玲奈さんだった。この感謝をまだ、ちゃんと伝えていなかった。


「俺が今こうして誰かと手を繋げるのも、誰かに思いを告げることが出来るのも、全部玲奈さんのおかげだ。誰かに笑いかける力があるのも、誰かを元気づけたいと思えるのも、本音を伝える勇気が湧いてくるのも、玲奈さんにお手本を見せてもらったから」


 考える必要なんてなかった。

 いざ一度口を開いてしまえば玲奈さんにかける言葉は湯水のように湧いてくる。俺はただ硬い蛇口を開けることを恐れていたのだ。捻った先で水の枯れるのを想像してしまったから。

 でも、自分で想像したよりもずっと多くの暖かくて優しい水が溢れて来た。


 酷く寒そうに震え、乾いてしまった笑顔を取り戻すのには十分すぎるくらいの言葉が驚くほど簡単に。


「嫌いになれるわけがない。だから、俺がもっと玲奈さんを好きになれるように協力して欲しい。……好きだよ、玲奈さん」


 輝きを失っていた玲瓏が、真っすぐな光に照らされた。

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