少女は朝を見る

 隣に座るらい君は、一年前と変わらない笑顔を浮かべている。でも、それは成長してないからじゃない。

 彼は、成長したんだ。


 大好きなはずのシュークリームも、お気に入りのオレンジジュースも、正直味を感じない。半年前までのお気に入りが口に合わなくなってることに、私も変わってるんだなと嫌でも実感する。

 ただ、それでも。彼が隣にいることが、彼の熱を感じることが幸せだと思えるようになっている私がいた。これは一年前から変わらなくて、この半年で、ううん。帰って来てからの数日で成長できた証拠だった。


「ねえ、らい君」

「ん? どうした?」

「えっと、美味しいね」

「おう。これ、まだ好きなのか?」

「どうだろ、ちょっと分かんない。あんまり味が分かんなくて」

「どうせ寝不足だろ。しっかり寝ろよ」

「……何それ、失礼ね」


 遠慮のないそんな言葉が、屈託のない笑顔が心を揺らす。


「それに、最近食べてないのも見れば分かるぞ。俺は病み上がりで甘いもんきついし、食うか?」

「シュークリームの食べかけを? どうせならもっとましなもの頂戴よ。それに、出したのお母さんだし」

「今はこれくらいしかないだろ。安心しろ、朝見あみがいないうちに美味しい店沢山見つけたから。今度連れてくよ」

「……そういうことじゃ、ないんだけど」

「そうか? で、食ってくれないか? どっちにしろ食べられそうにないんだ」

「貰うわよ。今更断っても、絶対に」

「おう、ありがとな」


 一口だけかじったシュークリームをお皿に戻し、らい君はこちらに押し出してくる。手持ち部沙汰になった手でジュースのコップを掴んで口に付ける。そんな動作を眺めてから、視線を手元に落とす。

 食べかけの、シュークリーム。


「ん? ぼーっとしてどうかしたか?」

「え? ううん、なんでもない。そう言えば、昔のらい君は甘いものなんてまったく食べなかったな、って思って」

「ああ、そうだったかもな。朝見あみたちに付き合わされて多少は食べられるようにさせられたけど」

「人のせいみたいに言うのは止めてよね。いいじゃない、甘いスイーツは人生の嗜好品なんだから」

「人それぞれだと思うけどな」


 他人事のように言って笑うらい君の横顔は、忘れもしない思い出の一部を切り取ったように、鮮明に映っていた。薄暗かった視界にフィルターをかけてたのは、私自身だったのかもしれない。


 あの日、あの時。あの子を失ったあの時から、私たちの日常は崩れて行った。みんながみんな、あの子との約束を守ることに奔走して、互いの絆を確かめることすら疎かにした。

 そうして広がって行った波紋と溝は微かに残っていた張力を失い、いつしか渦を成して沈んでいった。私たちの、絆と共に。


 刻一刻と減って行く水位を保ちたくて、私は悪あがきした。彼に求め、彼を求めてしまった。そんな私の気持ちに気付いた彼は抑揚を失った声で言ってきた。


『なあ、朝見あみ。俺たち、付き合わないか?』


 私は縋るように、首を振った。

 そこから崩れ始めた、何もかも。私はあの子になろうとした。私があの子の代わりになれば、彼が私を愛してくれれば、また、あの楽しかった時間に戻れるんじゃないかって、そう思った。

 でも、無理だった。私じゃあの子の代わりは務まらない。彼は、あの子じゃないと愛せない。そしてきっと、そんな彼の前じゃ、私は笑えなかった。そんな私のことを、彼が好きになれるはずはなかった。


 でも、彼を傷つけたくなかった。彼一人だけなら、彼とあの子との約束は守れるはずだから。私は私の約束を、自分の力で果たすんだ。そう決めてしまった私の無鉄砲さは、自分でも知るところだ。

 

『探さないでください。自分は自分で探します』


 そんな、良く分からない置手紙を残したことを鮮明に覚えている。今思うと恥ずかしいし、何してるんだって感じだったけど。

 夜逃げする人の気持ちを体感しながら走りだした道のりは険しく、過酷だった。それでもこの半年間、ちゃっかり生き延びてきた。住む場所なんてないから転々として、何度かお金を稼ごうとしたけど出来なくて、優しい人達に助けられて半年間を過ごしてきた。


 最後の数週間は、きっと忘れられない時間だった。名前も分からない地方で行き倒れていた私は老夫婦に救われた。ボロボロだった衣服を新調してくれたり、ご飯を恵んでくれたり、暖かい布団で寝かせてくれたり。

 そんな老夫婦は本当の子どものように私に尽くしてくれた。娘と思っていたのか孫と思っていたのかは分からないけど、本当に優しくしてくれた。


 だから、その光景を見た時は本当に驚いた。

 ここに帰ってくるその三日前の朝。老夫婦は、二人とも幸せそうな表情を浮かべて布団の上で亡くなっていた。もともと体の自由が利くような二人じゃないのは知ってたけれど、突然のこと過ぎて何が何だか分からなくなった。

 老夫婦のことを病院に連絡してからすぐ、私は逃げるようにその場を去った。そして先走る心の後を追うように、三日かけて帰って来た。


 失いたくないと、そう思ったから。


「ねえ、らい君」

「ん? どうした?」

「ありがと」

「シュークリームのことか? 礼ならさっきも聞いたぞ」

「ううん、それでも――」


 ううん、違うよ。待っててくれてありがとう、失わないでくれてありがとう、ってこと。

 私はまだ、らい君との時間を失ってなんてないんだってことに気付けたから。


「――ありがとう、らい君」

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