第37話
「手を伸ばしてくれ。掴まれそうか?」
腐った木の床に気を付けながら、オーウェンが身を乗り出す。ルティは精一杯こちらに手を伸ばしてきた。
「もう少しだ、頑張れ」
指先がぐっと触れるが、それ以上は届かない。ルティは抜け落ちた床材を集めてくると、それを積み重ねた上に乗って再度手を伸ばした。
今度はきちんと、手を握ることができる。そのまま引き上げようとしたところで、オーウェンのはめていた手袋が泥水を吸っていたせいか、すぽんと抜けて外れた。
手を握っていたルティは、オーウェンの手袋を掴んだまま目を見開く。
「えっ!? えええっ!?」
ぼちゃんという音とともに、ルティは落下していった。オーウェンはすぐさま床下を覗き込む。
「コルボール伯爵令嬢、大丈夫か!?」
「いたたた……大丈夫です……」
返事はあるものの、いつもよりも声は小さい。おまけに「元伯爵令嬢です」と言い返してくるはずの気力も無いようだ。
手袋がなければ、人に触れることはできない。オーウェンは内心非常に焦りを感じていた。
「……あの、オーウェン様」
声をかけられてハッとしながら覗き込むと、ルティがこちらを見上げてきていた。
「誰か呼んで来てください。梯子かなにかを持ってきてもらえれば、自力で上がります」
弱々しい笑顔が見えて、オーウェンは頭が冷えてきた。
よく見ればルティは泥だらけの上、あちこち擦りむいている様子だ。雨に濡れて身体も冷え切っているのか、顔色もすこぶる悪い。
二度も落下したのだから、怪我をしていないわけがない。騎士ならまだしも、彼女は普通の女の子だ。
「今すぐ助ける」
「でも、手袋がなければオーウェン様は私に触れません」
引っ張りあげるのにちょうどいいものはないかと見回したが、あいにく布類はない。
それに、あったとしてもおそらく劣化しているだろう。掴んで引き上げようものなら、破けて再度彼女を地面に落としかねない。
なにも持ってきていなかった自分を呪ったが、いまさら遅い。
「入ってはいけないと言われていたので、こうなってしまったのは自業自得なんです。だから、私のことは……」
「違う。君はわたしのためを想って、この場所に入ったのだろう?」
訊ねるとルティがこちらを見上げてきた。なにも返事がないということは、つまり肯定と捉えて間違いない。
行方を見つけたのなら小言を言おうと決めていたのに、遭遇した瞬間、彼女はオーウェンの心配をした。
それに、こんな泥だらけになってもなお、オーウェンの痛みに気を遣っている彼女の姿は心を揺さぶられずにはいられない。
「雨の日に咲く花を見つけたくてウロウロしていました。それを摘んだら戻るはずだったのに、こんなことになってしまって……」
ごめんなさいとしょんぼりしながら彼女は謝ってくる。オーウェンは手袋をしていない拳を握りしめてから、それを階下に向かって伸ばした。
「……掴まってくれ、コルボール伯爵令嬢」
見上げてくるルティの表情は困惑に満ちている。
「早く」
それでもルティはためらっているようだ。オーウェンは口を開いた。
「早くしないと、ボーノを取り上げるぞ」
「そ、それはダメですっ!」
ルティは再度床板を重ねるとその上に乗る。今度こそ上手くいく予感がしていた。だが、ルティがオーウェンに手を伸ばしたところで、積んだ床板のバランスが崩れて足場が崩壊した。
「きゃっ……」
とっさに掴んだ彼女の手は冷たい。放すものかと渾身の力で引き上げてすぐさま彼女の身体を抱え込んだ。
オーウェンはルティを抱いたまま扉の外に出ると、地面に座り込む。
「……こんなに冷たくなるまで我慢していたなんて」
ルティを抱きしめる腕にぎゅっと力を入れると、彼女の身体がこわばる。
「近づくなとあれほど言ったのに」
謝ろうとして身体を放そうとする彼女を、オーウェンは無理やり腕の中に押しとどめるようにした。
ルティは居心地が悪いのかもぞもぞと動いて離れようとする。それをオーウェンは許さなかった。
「危険だと言ったはずだ。聞いているのか、コルボール伯爵令嬢」
「ごめんなさい。あの、きちんと謝りたいので放してくださ――」
「嫌だ」
強く抱きしめるとルティは苦しそうにしながらも動くのをやめた。しばらくそうしていると、ルティが恐る恐るオーウェンを見上げてきた。
「もしかして、先ほど私に触れてしまったから、動けないほど手のひらが痛いのでは……?」
オーウェンは彼女を抱きしめる腕の力を緩める。そして、ルティの汚れた頬に直に触れた。
それに驚いたのは彼女のほうで、みるみるブルーベリー色の瞳を見開いていく。
「痛くないんだよ。まったく」
ルティはぽかんとした顔のまま固まっている。オーウェンはその表情を見るなりふっと笑ってしまった。
「なんだ、その顔は」
「だって……」
濡れたルティの髪の毛を耳にかけ、再度彼女の頬に触れる。
表面は冷たくなっていたが、その下に脈打つ生命力と温かさを手のひらで感じ取っていた。
「聞いてくれ、コルボール伯爵令嬢。わたしは今までずっと、わたしに対して悪意や下心を持っている相手のほうが悪いと考えていた」
彼女を覗き込みながらオーウェンは言葉を続けた。
「つまり、手のひらが痛むのは相手のせいだと決めつけていたんだ。けれど……痛むのは自分のせいでもあると気付いた」
「そんなことは」
「全部とは言い切れないが、わたし自身が、相手がわたしを嫌いになるようにさせていた気がする」
――そう。
だからこそ根も葉もない噂を立てられた。それはもちろんやっかみもあっただろうが、自分が招いたものでもあるとオーウェンはこの短期間で理解した。
きちんと人と向き合ってこなかった自分にも非がある。
痛みから逃げて相手を遠ざけて嫌悪しているだけでは、根本的な解決にはならなかったのだ。
自分がきちんと人や自分と向き合っていれば、ここまでこじれることはなかったのかもしれない。
「君がわたしと向き合ってくれなかったら、わたしはずっと嫌なやつだっただろう。だから、君にはとても感謝している」
なぜかルティはぽろぽろと涙をこぼしていた。指先でそれらをぬぐっても、彼女の目から涙は溢れて止まらない。
「……君に触れたいと思った。痛くてもいいから人に触れたいと、生まれて初めて思ったんだ」
「そんなことを思ってもらえるなんて。ありがとうございます」
「それはこちらの台詞だ、コルボール伯爵令嬢」
ルティはそこでやっと泣き笑いになってオーウェンを見つめた。
「元・伯爵令嬢ですよ、オーウェン様」
思わずオーウェンが笑ったところで、じっと機会を待っていただろうボーノが『ぷんぷん』と鳴いた。
「ボーノ!」
ルティが気づいて両手を広げる。ボーノは『ぷぷぷぷーん!』と尻尾を千切れんばかりに振ってルティの胸に飛び込んできた。
ひとしきりボーノはルティに甘えたあと、オーウェンの手にも頬をこすりつけてくる。
ボーノとルティに触れながら、オーウェンはその温かさになんとも言えない気持ちになり、二人を強く抱きしめたのだった。
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