07 いいような、悪いような

 それでね、と給仕娘は盆を抱えた。

「結局そのあと、トルーディさんもラウセアさんもこなくって。ザックは深夜まで、神殿に放置。何かあったのかもしれないから自分は戻るって言って、彼もそれっきり。私も早くに詰め所に行ってみるつもりだったけど、寝坊しちゃって」

 神殿から直接〈麻袋〉亭にくるしかなかったのだ、とチャルナは締めた。

「それは……驚いたね」

 ユファス・ムールは当事者のザックが口にしたのと同じ言葉を発した。

「うん、すごく」

 チャルナも同様にする。

「でもそれなら、神殿にいた方が安全じゃないか?」

 理由はどうあれ狙われているのであれば、出歩かない方がいい。ユファスはもっともなことを言った。

「明るい内なら大丈夫だと思って」

 当事者はどうにも呑気なことを言う。

「それにしてもほんと、ユファスのおかげで助かっちゃった」

「僕?」

 料理人の青年は瞬きをした。

「ザックだろ?」

「もちろんザックもだけど。ユファスが昨日、送ってもらったらって言わなかったら、私はひとりで帰ったもの」

「それは、まあ、偶然というやつかな」

 そうでなければ、チャルナの運が強かったというところではないだろうか。悪漢に狙われたとなれば強運とも言い立てられないが、最悪の事態は免れた。

「でも、どうしてユファスは昨日、あんなこと言ったの?」

「それは……」

 シンガ青年と思しき人物ともうひとりの若者の視線が妙に気にかかったから――という理由は、あまり理由になっていない気がした。

 もっともユファスが案じたのは、焚きつけられた若者が少女を無理矢理にするとか、そういったことだ。シンガが奥手でチャルナに声をかけられないだけならばいきなり襲うようなこともないだろうが、本当のところはどういう人間であるのか、彼にはさっぱり手がかりがない。

 昨日、ユファスが気をつけて見ていたところでは、あのふたりが意図してチャルナに声をかけたりする様子は少しもなかった。ただ、ことあるごとに彼女を見ていた。ほかの給仕に話したりはしていたので、何気なくその給仕に話の内容を確認すると、店の閉店時刻や店員は最後までいつもいるのかというようなことを訊かれたとのことだった。

 考えすぎかもしれないけれど胸騒ぎがして、チャルナに忠告をし、詰め所に向かったのだ。

 余計な世話ならそれでいい、ザック少年ならばようなこともないだろうし、と思っていたのだが、昨日の今日、いや、昨日の昨日でそんなことになったとは。

 ただこの時点で、シンガと連れの男が昨日の件に関わっているのかは、ユファスには判らない。いまの彼が持つ情報からすれば、むしろその判断は突飛と言えた。

「君が可愛いから心配で」

 相応しい説明が見つからなかったためにごまかそうとした台詞は、赤面で迎えられた。

「あ、いや、その」

 こほん、とユファスは咳払いをする。これでは自ら率先して、ザックの恋敵になってしまう。

「シャンシャも可愛いし」

 全く言い訳にならないことをつけ加えた。

「妹は、未成年ですからね」

 すぐに少女は「姉」の顔になった。十五歳未満に手を出すのでは、などといういささか不名誉な疑惑をかけられた訳だが、結果的に目的に適ったようだ。ユファスは苦笑するに留めた。

「でもまさか、本当に人攫いがいるとはね」

 ガレンの話を思い出した。

 田舎では借金の形に娘を――主には娼館、たまにはねじくれた望みを持つ金持ちに――売るだとか、子供を攫って奴隷のようにこき使うというような話もある。

 だが都会では、よくも悪くも春女志願はたくさんいる。望んでなる訳ではなく、多くは貧困が動機であるが、少なくとも娼館側が買い取ったり攫ったりする必要はない。

 奴隷制が許されている王城都市などは――おそらく――ないし、使用人が欲しければ給金を用意して雇うものだ。

 アーレイドで人を攫って、どうしようと言うのか?

 ガレンの話が本当なら、これまで攫われていたのは春女やその子供たち。チャルナは春女ではなく、妹ならいるが、子供はいない。共通点はないと思った。

 チャルナを攫って、どうしようと言うのか?

「今日もザックはくるんだろう?」

「どうだろう。もし、何か重大な事件でも起きたなら、こられないかもね」

「仕事の上がりは?」

「昨日と同じくらいかな」

「必ず、誰かに送ってもらうんだよ。そんなことがあったなら、僕が言うまでもないだろうけど」

「ユファスは?」

「え?」

「そっか、仕事だね」

「ああ、ごめん」

「ううん、私が悪いこと言った」

 気にしないで、と少女は笑った。

 ユファスが送ってくれないのか、と彼女は言ったのだろう。確かに、そこまで言うなら自分が行動してやるべきだ。対応が中途半端である。

 拾ってくれたトルスに恩を感じている身としては、容易に仕事をさぼるなどできない。ザックの恋路の邪魔もしたくない。だが、危険が続くことは十二分に考えられる。ザックという町憲兵と、ユファスという元軍兵と、両方が送ってやることができれば安全度は増すだろう。

「少し早めに上がれないか、料理長に交渉してみるよ」

 事情を話せば、トルスは絶対に駄目だとは言わないだろう。その代わり、普段より早起きする必要のある朝一の当番を続けて命じられるかもしれないが、それくらいは当然だ。

「いいよいいよ、そんなの駄目」

 チャルナは慌てて手を振った。と、盆ががらんと落ちる。

「ああっ!?……からでよかった」

 少女は素早くかがみ込むと盆を拾い上げ、起き上がる際に頭を卓に打った。

「あいたっ」

「落ち着いて。ほら、深呼吸」

 ユファスは両手の平を上に上げてゆっくりと上に動かし、次には下を向けて下に動かし、少女に呼吸のリズムを教えた。チャルナは素直にそれに従う。

「私って、何でこうなんだろうなあ。情けなくなっちゃう」

 ふう、と彼女は息を吐いた。若者は苦笑いする。

「いまのところは、それが可愛いと受けてるんだろう?」

「それって、どうなの?」

 チャルナは顔をしかめた。

「ひと月経ってもこのままだったら、さすがに呆れられるでしょ。ううん、何十年も経ってもこのままだったら? うっかりドジばっかり連発のお婆さんなんて、どうよ?」

「あー、それは、どうかな」

 ユファスは曖昧に言ったが、「可愛いよ」で許されるのは十代か、せいぜい二十代半ばくらいまでだろう。

「そこまで心配しなくても、大丈夫だよ。自分で気にしているんだし、失敗は少しずつなくなっていくものだから」

「私の場合、それに時間がかかるのよね」

 自覚はたいそう、あるようだった。

「まあ、なるようになるんじゃない?」

 聞きようによってはずいぶんいい加減な台詞だが、ユファスは心から言った。チャルナは笑う。

「そうね。なるようになる!」

 繰り返して彼女は、はたと気づいたように笑みを消した。

「あの。本当に、いいからね」

「うん? 何?」

「仕事、早く上がるとか」

「ああ、それか。試してみるけど、巧くいくかは判らない」

「試さないでいいってば。クビになったらどうするの? お城なんて、すごく厳しいんでしょ?」

「大丈夫だと思うけれど」

 厨房内のことに限らず決まりごとはいろいろあるが、常識的な範疇と言っていい。要するに、極端に非常識なことをやらなければ、問題はない。

 「常識」というものは人によって違うところがあるものだが、ユファスと城内の規則を作った人間の常識は、大きく違っていなかったということだ。

「万一クビを切られたら、新たに職を探すだけだよ」

 案じているのではないが、仮に解雇されてもどうにでもなるように思っていた。「軍兵上がり」も「城の料理人経験有り」も、大した箔だ。

「でも、お城勤めよりいい条件なんて、そうそうないわよ。弟さんを呼べなくなっちゃうじゃない」

「うーん、僕は必ずしも、弟を呼ぶためだけに働いているんじゃないんだよね。ティルドがもっとずっと幼いと言うなら別だけれど、もう少しで成人だし、そうしたら彼は、きちんと仕事も自分で探す」

「案外、あっさりしてるのね」

 チャルナは拍子抜けしたようだった。

「心配はするけど、心配で夜も眠れないほどじゃないよ」

 ユファスは肩をすくめた。

「だいたい、そんなふうに男兄弟がべったりだったら、不気味じゃないか?」

「そんなことないと思うけどなあ。仲いいのって、いいことじゃない?」

「そりゃまあ、悪いよりは、もちろん」

「ああ、話が違っちゃった」

 はたと気づいてチャルナは手を振る。今度はきちんと盆を持っていた。

「とにかく、クビになる危険なんか冒さないでってこと」

「大げさだよ」

 早く上がるくらいで、とユファスは笑った。

「どちらにせよ、僕はこれから詰め所に行ってくるよ」

 話を聞いてくる、と彼は言った。

「昨日の犯人がみんな捕まったなら、僕まで君の護衛をしなくてもいいだろうし」

「……そうね」

 チャルナはうなずいた。

「それって、いいような、悪いような」

「え?」

「何でもない」

 昨日はユファスが言ったことを今日はチャルナが口にした。

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