5、異変


 テオにおそらく嘘は無い。

 この現実はもちろんカナヤを混乱させるものだった。


(え? ……え? な、なに? どういうこと?)


 一方で、テオは平然としたものだった。

 いつも通り、淡々と口を開く。


「正直、驚きました。エルミッツ家の令嬢である貴女にとって、ここでの生活は全てが不満を超えて不愉快なものであったはずなのですが」


 カナヤは「え?」と戸惑いの声を上げそうになった。

 なにか妙な話が始まりそうな気配しかなかったのだ。

 彼は腕組みをして、「ふむ」と感慨かんがい深げに頷きを見せる。


「日々に華はまったく無く、暮らしぶりは貧相そのものであり……耐え難いものがあったことでしょう。だが貴女は、まったく平然とされていた」


 そうして彼は首をかたむけてカナヤを見つめてきた。

 その灰色の両目に、カナヤが慣れ親しんだ感情の色は無い。

 侮蔑の気配は欠片も無く、それどころか感嘆の気配が如実にあった。


「名家の令嬢としての矜持きょうじ……でしょうかな? うろたえるところも、取り乱すところもまるで見せない。その気高けだかくある姿には感心以外に思うところはありませんでしたな」


 カナヤはそれこそ取り乱しそうだった。

 事実誤認もいいところなのだ。

 暮らしぶりは、むしろ実家よりも良いほどである。

 彼の言うような、矜持ある気高き令嬢などはどこにも存在しない。

 

 口を挟もうと思った。

 だが、その直前で、テオは不思議な苦笑をカナヤに見せてきたのだった。


「そもそもとして、私が相手であることに思うところがあるはずなのですが。この総白髪そうしらがに愛想の悪さです。怖がられるのが常ですが、貴女はまったくでした。たいした胆力たんりょく気概きがいです。並の人物ではないと素直に思わされました」


 カナヤはうろたえるしかない。

 これまた大きな勘違いだった。

 そんな胆力や気概とやらも無いのだ。

 テオに興味が持てなかった。

 ただ、それだけ。

 それだけの話であり、そして、


(そ、そうです!)


 不意に気づきが訪れた。

 全てはテオの勘違いという、ただそれだけの話だ。

 うろたえる必要などまるで無い。

 どうでもいいこととして、ただ平然としていればいい。

 

 そう。

 そのはずだった。

 そのはずなのだ。


(……え、えーと)


 しかし、カナヤは椅子の上での身じろぎを止めることが出来ない。

 どうにも落ち着くことが出来なかった。

 理性に体がついてこない。

 記憶に無く胸がうずく感覚もあった。

 同時に、不思議な暖かさも確かに感じる。


 自分は一体どうなってしまったのか?

 うろたえていると、テオは「そう言えば」と尋ねかけてきた。


「貴女は、自身について醜いとおっしゃっていましたかな?」


 カナヤは妙な安堵を覚えることになる。

 やっとである。

 慣れ親しんだ状況がこれで戻ってくるらしい。


「えぇ、口にしました。事実ですので」


 返ってくるのは頷きか、もっと率直に侮蔑ぶべつの言葉か。

 そう思って待ち構え、しかし現実はどちらでも無かった。

 テオは真顔で首をかしげる。


「事実……ですか。いや、不思議なことをおっしゃるとその時も思ったものでして」

「は、はい?」

「初めてお会いした時からですが、私にとっての貴女は澄んで玲瓏れいろうな貴婦人でしかありませんでしたから」


 いくら観察したところで変わらなかった。

 思ったところを思ったままに告げた。

 彼の様子は、そうとしか見えないものだった。


「離縁と言いましたが、これらが理由となります。我がグレジール家では、貴女とは不釣り合いが過ぎる。もちろん、無責任に離縁とするつもりはありません。ふさわしき先については、エルミッツのご当主と……あー、正直なところあまり相談は進んでいないのですが、ともあれ早晩そうばんです。必ず貴女に吉報を……カナヤ殿?」


 呼ばれて、カナヤは「へ?」だった。

 間抜けな声で応じてしまう。

 そもそも、何故呼ばれたのかすらよく分からなかった。

 正直、彼の話どころではないのだ。

 見事に頭が回っていない

 思考はほとんど真っ白であり、やたらと早い心臓の鼓動ばかりが意識に残る。


 いよいよ自分は一体どうなってしまったのか?

 困惑を深めていると、彼はわずかに眉をひそめた。


「体調でしょうか? やはり優れぬと?」


 今までは、それは誤解だった。

 ただ、現状は否とは言い切れず、さらには不思議と助け舟のようにも思えた。


「は、はい! あの、その、少し、その……」

「あぁ、申し訳ない。どうやら無理をさせてしまったようですな。手を貸しましょう」


 部屋まで支えてくれるということだろう。

 立ち上がったテオが、隣にと近づいてくる。

 白髪に彩られた精悍な顔立ちが間近になる。

 

 手を貸そうというのであれば、その通りにさせてやればいい。

 そのはずだった。ただ、


「だ、だだ、大丈夫です! 大丈夫ですから!」


 カナヤは転がるようにして椅子から立ち上がった。

 次いで、目を丸くするテオに慌てて頭を下げる。


「し、失礼ひま……失礼します!」


 逃げるように扉に向かい、廊下へ。

 自室へ。

 もはや駆けていく。

 さして広くない屋敷だ。

 階段を駆け上がれば、すぐにたどり着いた。

 勢いよく扉を開き、中へ飛び込む。

 バタン! と扉を締めると、自然に胸を押さえることになった。

 なにせ呼吸がひどい。

 肩で息をすることになっており、伝わってくる鼓動は早鐘はやがねもいいところだ。


(……なにこれ)


 多少呼吸が落ち着くと、カナヤは思わず叫んでいた。


「ど、どうでもいいっ! ほんっとどうでもいいっ!」


 ただの事実の確認だった。

 そのはずなのだ。

 テオなどは至ってどうでもいい。

 彼の言動なども……誤解による振る舞いへの賛美も、容姿への妙な称賛もどうでもいい。


 よって、自らは冷静である。

 そう納得しようとした。

 だが、


「うっ」


 大きく呻くことになった。

 原因は、部屋にそなえられた鏡台きょうだいにある。

 妙なものが映っていた。

 一瞬、自分だと分からなかったほどだ。

 見慣れた青白いはずの顔は、今は耳の先まできれいに真っ赤に染まっていた。

 


 

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