第12話 湯あみの一幕
オルマミュータ邸に帰り付いて、刀を携えた順三はさっそく護衛の任に当たることとなった。
じつは昨晩も同じ任を仰せつかっていたのだが、二度目でも緊張してやまない。
刀を腰の位置にやっていつでも抜けるようにしながら、石のごとく不動だった。
全身から放つ気迫はともすれば格之進と立ち会ったときより激しい。
全神経はいつ襲い来るやもしれぬ敵に向けられており、張りつめている。
……いや。
全神経、ではないかもしれない。
なぜなら耳だけは周囲ではなく、彼の後方に向けられていた。
……いや。
耳だけ、ではないかもしれない。
なぜなら逆立つ産毛もまた、後方からの気流や湿り気を捉えるように向けていた。
そう。
湿り気。
「……~……~~。……~……~」
背後から鼻唄が聴こえる。
扉一枚向こう。
そこから、甘く湿ったぬるい風が漏れ出ている。
この時代、内風呂も増えて銭湯通いが減ったという話は順三も耳にしていたが。須川家は旧い家を長く守ってきていたということもあってこれを備えていなかったので、実際に内風呂を構えている屋敷に入るのははじめてだった。
そしてその
「……めちゃくちゃ、気を遣うなあ」
扉一枚。
これを隔てた向こうでは、モニカが湯あみをしている。
その事実だけで湯気よりもやもやしたものが頭に満ちてしまい、その都度順三はかぶりを振ってそれを振り払った。
ざぶり、さぷ、と湯舟のなかの湯が跳ねる音がする。
着物の裾を割ってのぞいていた、あの長い脚が湯に沈むさまを思い描いてしまう。帯の上に載っていた、襟ぐりを抜け出そうなほど豊かに弾む胸を思い出してしまう。
かぶりを振っても雑念は消えない。
順三は、おそらくは禁欲的な少年であるが、だからといって煩悩を遠ざけることそのものを鍛えてきたわけではない。
欲を満たすことから遠ざけられて、剣術に打ち込まざるを得なかったことも合わさって結果的に禁欲的だったという方が正答だ。
だからいまこの状況は非常にしんどかった。
早く終わってくれ、と何度となく願ったほどに。
「お待たせいたしました、順三様」
「あっはい。もういいんですか」
もういいんですかどころか「すごい長風呂でしたね」と言いそうになるのを必死にこらえて、順三は声の方向に振り返った。ちなみに体感で長かっただけで、実際にはごく短い。五分とかかっていないかもしれない。
モニカは、『ガウン』というらしい白くもこもことした半纏を思わせる質感の長着を身に帯びてこちらに来ていた。浴衣のように腰を細い帯で締めているが、前の合わせはもっとゆったりしているので、汗ばんだすべやかな谷間が目に入る。視線を上げる。ぎゅっと、彼女は前の合わせを両手で握って閉じていた。
「あまり長くてはいけないと判じましたので。身を整える、最低限に留めてまいりました」
「それは、ご親切に。どうも。ありがとう。ござい。ます」
平静に接しようと努めるが、言葉がとぎれとぎれになる。
谷間から視線を上げても、言葉も意識も奪われそうな美しさが目を焼くのは変わりなかった。
しとどに濡れた金色の髪をほどいて下ろしたモニカに、みずみずしく跳ね上がる白んだ睫毛の下で輝く青の瞳で見つめられる。桜貝のような唇からの言葉は丁寧でありながら、艶が感じられた。
たまらなくて、顔をそむけるのだが。
「では、次は順三様です」
「……はい」
忍耐の時間はまだ終わっていない。
扉を開いたモニカに、湯殿へと導かれる。
仕方のないことである。
彼女を守るため外で番をしていたが、では自分が湯あみをしているあいだは──だれが彼女を守るのか? という話になってくる。
結論。
順三が湯殿にいる間は、モニカにも湯殿のなかにいてもらうほかない。
……当初のモニカには「お守りいただくのですから、妾の入るあいだ順三様も湯殿へどうぞ」と言われたのを、さすがにそれは(精神的に耐えがたく)遠慮したい、と引き出した譲歩案でこれだった。
けっして他意はない。
「では、お
「はぁ……。はい……」
昨日もそうだがまったく寛げない。
水をはじく石造りのなめらかな床を踏みしめながら、順三は見回す。
湯気けぶる湯殿の奥には、白磁のお椀をそのまま大きくして人が入れるようにしたと思わせる、大きな湯舟が安置してあった。縁を乗り越えるための踏み台と、手桶も並べておいてある。
「妾は壁を向いておりますので」
「あ。はい。お願いします」
昨日に引き続き、順三の裸身を目にしないようモニカには壁を向いてもらう。
……婿で、しかも表向きでしかない人間にそこまで配慮してもらうことへの恐縮だとか、そもそも高貴な身分の方と同じ湯殿を使うのはどうなのかとか、このように招いて間違いがあったらとは考えないのかとか、言いたいことは山ほどあったがそんなこと口にせずとっとと烏の行水で済ませるのが得策とわかっている。わかっているから順三はそうした。
足袋を脱いで羽織袴を脱ぎ払い、角帯を緩めて落とすと
そのあいだも、薄いガウンに覆われた肢体と、左右に髪を分けたうなじとを晒して
手桶で湯を浴び汚れを落とし、手ぬぐいで体をこすってから湯舟に体を沈めるまでをわずかな時間で済ませた。
温まるほどの時間も要らない。護衛の任を思えば気を抜いて湯に浸かるなど言語道断だ。
朝湯の折に襲われ、せめてこの手に木の太刀でもあれば打たれはすまい……と言い残した武将もいると聞く。これ以上無防備も裸も晒せない。
そう思って湯舟を出ようとすると、湯舟の陰になにか落ちているのが見えた。
なんらかの布地だろうか?
白い、手ぬぐいくらいの長さ大きさのものと見えるが、手ぬぐいよりは部分的に細く見える。
それはひどく繊細で、精緻な装飾と縫い方を為されているように見えた。
近づいて拾い上げようとする。
と、そこで。視界の端で髪の水気をぬぐっていたモニカが、己の体を一度がばっとかき抱いてから、ひどくあわてた様子で背無し椅子から立ち上がった。がたぁんと背無し椅子が転がり、湯殿のなかで音が反響する。
「じゅ、順三様!」
「はい?!」
すわ敵襲か、と裸のまま刀に手を伸ばす順三だが、柄に手をかけたわずかな音に気付いたらしいモニカは背を向けたまま叫ぶ。
「刀は要りません!」
「え、なぜ」
「十かぞえる間だけ目を閉じ、湯舟に沈んでいてくださいませ!」
「いや、えっ? 十もかぞえる間、無防備を晒せと……?」
「お願いいたします」
「護衛としてそれはさすがに」
「どうか。妾の身のみならず、心を守るためとお考えくださいませんか」
「心を」
なんだかよくわからなかったが、ここまで焦った様子で嘆願されては断りづらい。
「わかりました……ですが、刀はさすがに手放せません。十待つことは承服しますが、いざというときのため刀は持たせてください」
「それで構いません、刀を持ったまま、妾が手を叩いたら目を閉じ十までかぞえてください」
妙な要望だという思いはぬぐえなかったが、こくりとうなずいて「はい」と答える。
さぷりと湯舟に沈み、湯舟の外に出した両手で刀だけは抜けるようにしておく。不安もあったが、目を閉じる。
ぱちん。
モニカが手を叩いた。
「いーち。にーい。さーん」
かぞえる間に、モニカがすたすたとこちらに近づいてくる足音がした。
湯舟に腰から下が沈んでいるとはいえ、裸身である。順三はあわて、かぞえる声が震えそうになった。だがなんとか腹に力を入れてこらえ、目的不明なモニカの行動に耐える。
「しーい、ごーお。ろーく、しーち」
だがそこでずるっと足を滑らせる水音が聴こえた。
途端にばっと右手を刀から離し、目を開く。
床へうつぶせに倒れ伏しそうになっていたモニカを視認してすぐ、湯舟から出て襟首をつかみ引く。
モニカの体を引っ張り上げるようにしてくるりと反転させ、やわらかに尻から着地させた。
びっくりした顔で身をすくめ、ぎゅっと両手を握り胸元に引き付けた姿勢でこちらを見るモニカ。
「お怪我はないですか?」
「え……ええ。ないようです」
「よかった」
胸をなでおろすが、そんな順三の顔を見ていたモニカの視線が、いまさっきなでおろした胸を通り腹部を過ぎてなお下がっていく。
ひざまずいた姿勢の順三は、いま自分がなにも着ていないことを思い出した。
「……わわわあのすみませんこんな格好で」
「い、いえ。妾こそとんだ失礼を」
ばっとお互いに距離をとる。とりあえず順三は湯舟に体を沈め直した。ごまかすように、問いを投げる。
「それで、いま十かぞえてたのは一体なんだったんです?」
「それは……お答えしづらく」
「あ、そうですか」
「はい」
言いつつモニカは立ち上がり、背後に手を隠している。
あせあせともう片方の手は胸元を押さえ、隠している。
落ちていた布切れはなくなっている。
……よくわからないが、これ以上訊かない方がよさそうだった。
「そ、それにしても順三様……その、お体……」
こほこほと咳払いしながらモニカはこちらをちらちら見て、視線をさまよわせている。
どこを見ているのだろう。目の動きを辿ると上腕、鎖骨、胸筋、腹部……のようだった。
「俺の体になにかありましたか?」
問いに、モニカはちょっと答えにくそうに。
「鍛え上げていらっしゃるな、というのと……」
目元にわずか、憂いのようなものを宿し。
「それこそ、順三様こそ……その
言われて、はっと気づく。
上腕、鎖骨、胸から腹部。
順三の体は至る所に、怪我の痕跡があった。裂傷から打撲、あらゆる傷が上塗りされつづけてきた、そのような姿となっている。
「お見苦しいものを、すみません」
湯舟に深く沈んで、あまり見えないようにする。するとモニカは首を横に振り、順三の言葉を否定した。
「見苦しいだなどとは感じておりません、なぜそのようなお怪我を……と思っただけです」
「あー……その。うちの家で兄二人と父から、魔法でよく折檻されていたので……」
この答えで、モニカの顔をひきつらせてしまった。獣にひどく襲われただとかてきとうな嘘をついておけばよかったか、と考えてしまう。だがどうせバレるか、とも思いなおす。
「須川の者たちはなぜ、そのようなことを」
「不出来な俺に対して我慢がならなかったようで。ひとつできないことがあればひとつ傷つけられる、というような次第でした」
「……どれだけあの家の者たちは、あなたを虐げてきたのですか」
「まあ、そのおかげで『相手がこちらに害成す間合いを察知する』という能力を培うことができたんですけどね」
順三は乾いた笑みを浮かべた。
なるべく受ける傷を軽く薄くするため、日々が実戦であった。
阜章流を用いての反撃など当然許されないため、順三は無手のまま間合いの調節だけで兄や父の攻撃を捌きつづけた。そのなかで時折『懐に飛び込む』動きを練習し、いつか剣を構えて何者かに相対するときに備えた。
怪人との戦いで阜章流の動きを発揮できたことは、順三としても重ねた鍛錬に誤りがなかったということで、師に胸を張れそうである。
そう考えての言葉だったが、モニカはひどく気に入らない様子だった。
「ご自身を蔑ろになさらないでください」
「そんなつもりじゃ……」
「いいえ。あなたのその日々は、もっとも醜い『身分差』によるものでしょう。敬意により生じる身分差でなく、封建制度の悪しき風習がかたちづくるものです……妾は、そうした人々を救うべく、世の身分差を平らに均したいのです」
「……もしかして、ですけど。モニカさんも、自身の家に思うところがあるんですか?」
言えば、モニカは順三から目をそらす。
けれどそれは順三の傷や肌から、というより、彼の視線から逃したように思われた。
「なぜそうお考えなのでしょう」
「お姫様であるモニカさんは、おそらくそうした制度には恩恵を受ける側じゃないのかな、と思いました。それを自らで壊したいというのは、いまに不満があるものかと。不満があるとすれば──身近な、家の中」
「……、」
口ごもったモニカは、あさっての方を見ている。
数舜して言葉を紡ぎ、順三へ応じる。
「まだ多くは、お答え差し上げることかないません。ですが、おおむね、順三様の仰せの通りです」
いずれすべてをお話しします──そう告げる彼女は、なぜかこのときがもっとも『姫』らしく見えたと、順三は思った。
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