気まずかったから

@PPmojitarinai

第1話

少年は、どうしていいか分からなくなっていた。


引き続き虫取りをしようにも、丁度いい高さに居た蝉は既に足元で騒音を発している虫篭の中だ。朝早くから集められた夥しい数の蝉が籠められたそれは、蝉を知らぬ者が見れば呪術的道具に見えるかもしれない。


自身の虫篭の中の数匹の蝉を眺めながら、少年は自身に呪物を託した友人に苛立ちを募らせていく。


彼は三十分程前、昼食だと母親に呼び出され一時帰宅してしまったのだ。その際、「こんなの持って帰ったら怒られるから」と少年に虫篭を預けていった。


少年も先程からそろそろ帰ってくるように呼びつけられているのだが、やはりこんな奴隷船の方がまだ人道的に見える蝉詰めなどを持って帰れば何らかの理由で怒られるだろう。


さりとて虫篭を置いて帰る訳にもいかない。何故なら、先程から木陰で笑みを浮かべながらこちらを見ている不気味な女がいるからだ。


あのお姉さんはこの蝉を狙っているに違いない。一般的な感性に照らし合わせれば、妙齢の女性が蝉を欲するなどという話はかなり限定的なシチュエーションでもなければありえないのだが、まだ物の価値もよく分からない少年はそのように考えていた。


にっちもさっちもいかなくなった少年は自棄になって蟻を捕まえて遊び始めた。しかし、彼の虫篭は蟻のような極小の生物には対応していない。捕まえた傍から逃げる蟻たちに、少年は増々苛立ちを募らせる。


いよいよ少年が怒りのままに蟻を踏みつけようかという時、彼の携帯電話に友人からの連絡があった。


曰く、熱いから午後は家で遊ぼう。蝉は逃がしておいて、と。


流石に抑えきれぬかと思われた少年の怒りは、彼からのアイスを提供するという打診によって窘められた。

そのアイスというのが業務用のものだとかで、かなりの量があるらしい。

その上彼の母親は午後から仕事らしく、咎める者のいない家の中で、好きなだけ食べてもいい。


これだけの好条件を突き付けられ、彼の怒りは消えて失せた。昼食を食べたら直ぐに行くと連絡し、今度は蝉の対処をする必要に迫られた。


一体どれほどの蝉が詰まっているのだろう。自由を奪われ虫篭の中でつっかえた蝉達を、一匹ずつ外に出してやるのは骨が折れそうだ。


少し不気味だが、いっそあのお姉さんに渡してもいいかもしれない。一瞬浮かんだ考えを直ぐに取り下げたのは、虫篭の底に動かなくなった蝉を数匹発見したからだ。


思い返せば朝から蝉を捕まえながらも走り回ったり、虫篭を振り回したりしていた。そのため取り立てて不幸な何匹かの蝉達は圧死してしまったようだ。


自分が殺した訳ではないとはいえ、自分の持っている虫篭から死体が出てくるのを見られるのは少し気まずい。


少年はそのように考えたのだろう。仕方なしにお姉さんから見えないであろう位置に回り、そこで蝉達を放った。


「……行ったかな。」


残っていた少年が去っていったのを確認した女の表情からは笑みが消えていた。


女の傍らにはヤツデ等の大型の葉っぱで形成された不自然な膨らみがある。


その中には、今朝、女に襲い掛かろうとした男が倒れていた。


必死に抵抗する女との取っ組み合いの果てにうっかり転んでしまった彼は、木に頭をぶつけて動かなくなってしまった。


その事に対する彼女の責は殆どなかっただろう。しかし、事故現場近くに虫取り少年たちがやってきたのを見た彼女が行った男への対処は、他の物に見られないよう、巧妙に隠すというものだった。


男を隠し、少年たちが近づいて来ないよう彼らを見張り続けていた。


或いはこの男が自身と全く関係の無い、不幸な事故によって亡くなった死体であったならば、きっと彼女は救急車なりパトカーなりを呼びつけていただろう。


少年たちが来なかった場合も、恐らくはそのようにしていたはずだ。


しかし、罪の意識の欠片と彼への嫌悪が、少年たちに自身と彼が倒れているのを結び付けられることを拒んでしまった。それは先ほど少年が抱いていた気まずさと同種の物だったかもしれない。


罪の意識と気まずさ、そしていつまでも立ち去らない少年たちへの苛立ちによって形成された笑みは、逆に少年たちに不気味に思われていた。少年が近寄らなかったのは、きっとそれも理由の一つだったのだろう。


もう4時間程経ったが、彼が動く様子はない。恐らくはもう死んでいるのだろう。女は最早罪なき存在では無くなってしまった。


蝉のように捨て置く事は出来ないそれの対処に頭を悩ませるのだった。

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