キャンバスのシロツメクサ
岩水晴檸
第1話
シロツメクサ。もとは貿易の際に緩衝材の代わりとして箱に詰められ、日本に渡ってきたらしい。小さくて丸い、白いその花はある人には雑草、ある人には可愛らしい白い花として認知される。少なくとも私は雑草とは思わない。でも、好きかと聞かれたら、嫌いだ。
今日も特に面白いこともなく、普通に一日が過ぎ去っていった。本来、進路を決めなくてはいけないのだが、私は決めれないでいた。
学校からちょっと離れた河原をぽつりぽつりとあまり大きくない歩幅で進んでいる。真っ赤な夕焼けに染められたこの世界の川は、感動してしまうほど美しい。そんな景色とは裏腹に私の心は荒んでいく。私は美術部に所属しているが全然行けていない。まともに進路を決めるためにも早いところ絵を描くことは諦めてしまおう、とそんなことを思っていた。
そんなときだった。私が今から通るだろう道の横に、四十代くらいのスーツに身を着た男が、二、三枚のキャンバスに囲まれて座っているように見えた。細身の体にスーツはよく似合ってはいるが、画家にしては堅苦しい格好だ。どちらにしても、この人の近くは通りたくない。でも、この人のために遠回りするのも馬鹿らしい。
ここは目の前を素通りしかない。すっと息を吸い、少し歩幅を広げて歩いた。ついにその男の前を通る、その時だった。私の足はぴたっとその男の前で止まった。
男は、絵を描いていた。全く迷いなどない、軽快なスピードでスケッチブックに線を書き込んでいる。白い紙に野花のような線画が出来上がっていくその様は時間を忘れて見入ってしまうものだった。だがそれは、ある時突然、ガッ、と鉛筆が黒い粉を飛ばして止まった。
「見せ物じゃ、ないんだが」
声がした方に視線を向けると、この絵を描いていた男が眉を寄せてこちらを見る。ぴっちりとした七三分けではなく、癖のついた所で分けた髪型。ちらりと見える銀色で重厚な作りの高そうな腕時計。そして、誰が見ても納得するであろう清潔感と整った顔。そのせいか、とても威圧的である。
「あ。す、すみません……。つい……」
とりあえず怒らせないように申し訳ないと顔に出しておく。
「絵を描いてる姿もですけど、絵も凄いなって思ってたら、いつの間にか……あはは」
少し声のトーンが落ちてしまったかもしれない。それが男にも伝わったのか、寄せた眉を戻し、何か疑問そうな顔をした。
「凄いと思うか」
男はふぅと息を吐くと、足元にあった筆箱から鉛筆を取り出し、私に差し出した。
「……君も、描くか?」
その厚意に引っ張られるように私の手は鉛筆に引き込まれていた。もう少しで鉛筆を握る、そんなとき、どくんと心臓が鳴った。同時に、脊髄反射のように手を引っ込める。のばしていた右手はすっかり左手で握り込み、まるで怯えるような形になっていた。
「ごめんなさい……。無理みたいです……。ごめんなさいっ……」
私の足は無意識のうちに走り出していた。あの男から逃げるように、いや、絵から逃げるように。
次の日の昼休みだった。友達と話していると私を呼ぶ声が教室の扉から聞こえた。
「叶、隣のクラスの希望ちゃんが用だってさ」
部活のことだろうか。私は話していた友達に断りを入れると、教室の外に出た。
「今、大丈夫だったかな」
艶のある長い黒髪を揺らし、私の元に近づいてくる。この芹沢希望とは中学生の時からの仲で、親友……に近い存在だ。美術部に中学、高校と一緒に所属しており、希望は部長を任されるほど真面目だし、絵が上手い。
「全然大丈夫、どうしたの。部活のこと?」
「うん。叶、美術部に入って絵の作品ってあんま描いてないじゃん……?最後ぐらい、絵描かないかなって」
申し訳なさそうに話すと、ポケットから四つ折りになったチラシを渡され、それを手に取る。
「全国高等学校絵画コンクール……」
ボソッと読み上げた。そのつぶやきは希望の耳にも聞こえていたみたいだった。
「そう、個人の部でも、あれなら団体でも」
グシャッ。
希望がまだ言葉を続けようとしていたが、私がチラシを強く握った音にびっくりしてそれは止まってしまった。何も、びびらせようとしてそうしたわけじゃ無い。体が勝手に動いていたんだ。
「叶?」
希望は心配そうに私の顔を伺ってくる。ここで断るわけにはいかない。私だって美術部なんだ。一回ぐらい、まともな作品描いて出さないと。希望にも、顔向けできない。
「描くよ」
顔は上げれなかったが、絞り出した様な声で希望に伝える。
「え?」
戸惑っている様な声だった。聞こえなかったわけじゃなさそうだが、次こそはちゃんと顔を上げて、希望の目を見て伝える。
「描く、今回はちゃんと絵、描くから。希望の為にも、私の為にも」
私の顔は引き攣っていたのだろうか、それとも真剣な表情をしていただろうか。分からないが、想いはちゃんと伝わったようだ。希望は嬉しそうに少しはにかんだ。
「嬉しい。待ってるから」
その一言だけ伝えて廊下を走っていった。彼女の目は少し潤んでいた様にも見えた。そんなに私が作品を描くことが嬉しいのだろうか。それとも、私が描かないことで彼女に相当な迷惑をかけていたのか。それから解放される喜びだろうか。まぁ、考察したってどうせ分からないが、私は高校生活最大の難題に挑むことになってしまった。
夕焼けが綺麗にあたりを照らす。自転車に乗って帰る中学生や、犬の散歩をする老人に紛れて今日も河原を帰っていた。絵も描かなきゃいけないし、題材だけでも見つけようととぼとぼ足元や遠くを見て歩く。何もない。あるが、私が描けそうなものはなかった。そして、描いたら描いたで物議を醸しそうな男は、昨日と同じような服装で今日もそこにいた。他の身なりも変わっていない。しかし、男の周りにキャンバスは一枚もなかった。ただ、スケッチブックを持って鉛筆を黙々と走らせているだけだった。
「あの、いつもここにいるんですか」
私から話しかけると、走っていた鉛筆は数秒経って止まり、男は顔をあげる。
「だめか」
「いや、だめとかじゃなくて、よくこんなところで描いてるなぁって」
やはり男の顔は威圧的であり、一歩引いてしまう。男は私の言葉を聞いてから遠くを見つめる。そして、指でカメラのフレームの様なポーズをした。
「綺麗だろう。対岸の家や建物も、近くにある草花も。だから、俺はここで絵を描く」
熱く語るわけでもなく、淡々とそう話した後、男は筆箱に手を入れ、鉛筆を取り出した。
「描いてみれば分かる」
その鉛筆は、またも私に差し出されていた。それに私の体は、また断ろうとした。でも、もしかしたらここで練習すれば描けるようになるかもしれない。自信がつくかもしれない。そう思うともう一つの私の感情が、少しずつ男の持つ鉛筆の方向に体を動かしてくれていた。そして、恐る恐るだが、鉛筆を握った。
「描くのか」
この時、男もまだ鉛筆を握っていた。まっすぐと再確認。私は意を決して頷くと、ついに男は鉛筆を離した。
「これもあげよう。隣で描くといい」
布でできた色褪せたリュックの中からスケッチブックを一冊取り出すと、私に渡してくれる。ページを開き真っ白なことを確認すると、男の右隣に座った。並んでみると何を描こうか。目の前に広がる川と建物の風景は今の私に描けそうもない。じゃあ、描くなら近く。そう思って足元に目を向ける。そこにはカタバミ、ミツバ、シロツメクサ。描けそうな小さな花たちが咲いている。カタバミでも描くか……。ミツバよりは難しくて、シロツメクサより描きやすそうなカタバミを選ぶ。
そしてスケッチブックに鉛筆をつけて、葉を描く為に一本線を描いた。今までは怖くて、キャンバスに線画を描くことすら躊躇っていた自分とは思えないぐらい自然に葉の輪郭を描いていた。まぁ、これは作品というより落書きに近いからかもしれない。でも、私にとって描くことができたのは大きな一歩だ。そこからは夢中になって葉の輪郭を納得するまで描いては消して、描いては消してを繰り返していった。
「君、名前はなんていうんだ」
突然、隣から私に質問が飛んでくる。すぐに左を向いたが、男の顔は一切こちらを向いてはおらず、あくまで絵を描く間の雑談として適当に投げられたものだと感じ取った。なので私もカタバミに再度視線を落とし、手は線を描き続ける。
「須藤叶っていいます。あの、あなたは」
「島田」
非常に淡白で簡潔な言葉でそう告げられた。そして別に手を止めて話を膨らませる気も無さそうだ。
「島田さん、ですね。昼間はお仕事されているんですか」
ついに聞いてしまった。気になっていた、なぜスーツ姿で河原に座り込み、絵を描いているのか。やはり普通のサラリーマンの帰りの趣味とかなのだろうか。ただ、ここで予想外のことが起きた。これまで通り流れるように回答が返ってくるのかと思いきや、絵を描く手を止めたのだ。
「聞いてなかったのか。名前は島田だ。さんも敬語もいらない。絵を描く時は、余計なことにリソースを割くものではない。あと、俺はサラリーマンではない」
少し感情的にそう説かれた。まあ、スーツ姿で絵を描いてるなんて、リストラかなんかされたのかもしれない。家族に言えず、河原で一人寂しく絵を。そう考えると、かなり失礼な質問をしたかもしれない。この緊迫した場を乗り切るためほかの質問を考える。
「じゃあ、何て呼べば……」
「島田だ。敬語もいらない。そういう配慮は絵にしろ」
今度はまた、無機質で淡白な雰囲気に戻った。謎だ。別にさっきも怒っていたわけではないのか。そう思っていると急に私の方に島田が詰め寄ってきた。近い。嫌とかじゃなくて、単純に物音少なく、ぬるっと近寄ってきたのが気持ち悪く、変な声が出てしまった。
「気になっていたんだが、なんでそんなに線を消したり、描いたりしているんだ」
島田は私が描いているカタバミの線画の上を指で優しく叩く。
「そりゃ、納得いかないから」
「だめだ」
間髪入れずに言葉が返ってきた。
「え……」
私は島田の方に顔を向ける。島田の表情は真剣だった。声もただ無機質なわけじゃなく、ピリッと空気が変わるような、真剣な声色だ。
「線は消すものじゃない。お前は、過去の失敗を無かったことにして生きていけるのか。違うだろ。絵は人生なんだ。間違えて描いた線を消してはいけない。消さずに上描きして、使える線に変えていくんだ」
はっと、何かに気づかされた気がした。そうだ、昔の自分は躊躇なく、線を描いていた。納得のいく線をすぐに描けていた。でも、今はできない。なら、何度も上塗りして理想に近づけるしかないんだ。
島田は私が行っていた行動に呆れたのか、いつの間にか自分が座っていたところに戻り、スケッチブックを片付けようとしていた。
「あの……、いや。ねぇ、私、島田と一緒に絵が描きたい。もっと私が忘れたこと教えて欲しい。お願いっ」
私はいつの間にか立ち上がって頭を下げていた。島田は黙々と片付けを続けている。そして、ある程度頭を下げ続けた時だった。
「その鉛筆とスケッチブックは貸す。明日もここにいる」
私は、頭を下げたまま「よしっ」と呟いていた。島田と一緒に描いて、絵を見て、アドバイスを貰えば、今回の作品は描ける。そう無意識に感じ取っていたのだろう。意外と早く見えた希望の光に私は喜びを隠せなかった。
頭を上げ、もう荷物をまとめ終わって、汚れたリュックを背負う島田を確認すると、もう一度頭を下げた。
「よろしくお願いします」
そのあと、しばらくの間があった後に、気だるげな声がだんだん遠ざかりながら聞こえた。
「鉛筆の後ろの消しゴム、捨ててこいよ」
この日から、私のリハビリは始まった。部活に行くような感覚で学校帰りに島田の元に寄って絵を描いた。島田は、ほとんど変わらないスーツ姿でそこにいて、私が来る前から黙々と絵を描いていた。二週間ほど一緒に絵を描いて分かったことがいくつかある。
まず、島田は全く自分の話をしてくれない。質問をしても、「それは絵に関係するか」と聞いてきて、答えてくれない。
次に人の話を聞くのが上手い。島田本人は話さないが、私が話した他愛もない話でもちゃんと拾って会話として繋げてくれるし、実は絵を描きながら相槌を打ってくれていたりもしている。これは時間がどうにかしてくれた問題なのかもしれないが、単純に嬉しかった。そして今日も、いつものように私たちは絵を描いていた。
「島田、絵に関係ない話してもいい?」
風がスケッチブックを乗せた体育座りの足の隙間を抜けていく。
「……勝手にしろ」
相変わらず島田はスケッチブックから目を離そうとはしない。でもそれは今や私もだ。私たちはデッサンの目標物とスケッチブックを交互に見ながら会話を進めた。
「今描いてるこの絵さ、コンクールに出そうと思うの」
「人に絵を見られるのは苦手なんじゃないのか?」
鋭い質問だった。ペラペラと喋ったせいもあって今や私の絵事情についてはクラスメイトなんかよりも断然知られている。私は今描いているスケッチを空に透かした。
「苦手だけど、見てもらいたいんだ。島田に教えてもらった絵を。あと、迷惑かけた親友に今回は迷惑かけたくないの」
鉛筆を素早く滑らせ、デッサンに影を入れていた島田の手が珍しく止まった。
「……親友なんているんだな」
「なっ、失礼な」
島田の驚いているような表情が更に腹立つ。
「でも、話したことなかったかもね」
空に透かしたデッサンを下げてからそう言うと、島田はまた影を入れ始めた。
「ラジオ代わりにはなりそうだし、聞こう」
正直、島田からそういう風に話を求められることは初めてだった。少し戸惑いはしたが、私の口からは希望の話題が発せられていた。
「希望とはね、小学生の頃からの仲なの」
小学五年生。私の小学校では五年生からクラブという部活に近いような活動を週一回程のペースで行わなければならなかった。部活にあるようなクラブは当たり前にあって、当時、美術の時間に描いた絵が軒並み表彰されていた私は当然のように美術クラブに入った。そこで、隣のクラスだった希望と初めて出会った。
小学生の頃は私の方が何倍も絵を描けていて、希望はお世辞にも上手な絵というものを描くことはできていなかった。でも、何故か一生懸命に絵に挑戦しようとする希望が輝いているように見えて、私は描き方を教えたり、逆に新しいことに気付かされたりしていった。
「切磋琢磨して、順調だな。まるで線一つ描くことが嫌になる人間の過去とは思えない」
島田は影を入れ終えたのか鉛筆を置くと、リュックから絵の具とパレットを取り出して筆をとった。そして、ちらりとこちらに視線を向ける。
「続けて」
「あ、その前に。これ、完成したんだけど、どう」
私は線を何本も何本も重ねて書き出したカタバミのデッサンを島田に見せる。言われたこと、教えられたこと全部を生かして描いた作品。なのに、島田は眉を寄せて意味不明だ、というように頭を傾げた。
「色は?作品として出すんだろう。白黒でカタバミだなんて、大衆に伝わると思っているのか」
どくっと心臓が鳴る。変な汗が背中を伝った。
「やっぱり、色、つけないとだめ……かな」
左手は強く握り込み、声は震えていた。
「当たり前だろう。それとも、描きたくない理由でも」
「……あるよ」
私は震える声で続ける。
私と希望は中学生になってもお互い高め合った。でも、この高め合いには一つの驕りがあった。
『どうせ希望は私を越えられない』
そんな根拠のない安心感に胡座をかいて、希望のアドバイスを自らの絵に活かそうとしなかったのだ。それが間違いだった。中学一年生の頃に希望は初めて賞を取った。そこから鰻登りで入賞を重ね、中学二年生になる頃には私は入賞しなくなり、希望は優秀賞を取る程にまで成長していた。
この時期から私は一人で勝手に焦り始め、その焦りが絵にも反映したんだと思う。私は顧問に呼び出され、叱られ、絵を破かれた。あの時のことは鮮明に思い出せる。
『汚い線を何本も重ねるな』
『絵の具は綺麗でもお前の絵に乗った瞬間から汚い色になる』
散々だった。この時から絵を描くことが怖くなった。部活にも怖くて行けなくなり、心配してくれる希望にはいつも嘘をついて、結局中学卒業まで部活に行くことはなかった。
「じゃあなんで高校生になっても美術部なんかに入ってるんだ。さっさと辞めればいいのに」
理解できない。という様子で島田は肩をすくめる。
「希望に誘われちゃって断れなかったんだよね。いや、やっぱり諦めきれなかったのかも。高校なら、環境変わって描けるって思ってたんだ」
スケッチブックを強く自分に寄せて、空を見上げる。
「でも、やっぱり無理だった。描けなくて、描けても今みたいに白黒のデッサンで。希望は高校でも沢山賞を取って、意見力も強かったから何とか顧問に言って私を美術部に留めてくれてたの」
涙が目の端から流れた。
「おかげで希望には沢山迷惑かけちゃった」
泣いている私を島田は静かに眺めていた。そして、静かに私のそばに寄った。
「泣く前に描こう。それがお前にできる唯一の罪滅ぼしなんだろ」
さっきまで島田が使っていた筆を私に差し出した。
「大丈夫だ。線の時と同じで、ちゃんと教えてやる」
そこから一週間、島田は私のために色塗りについて教えてくれた。筆を持って色をつけていく度に昔の感覚を思い出す。緑、青、黄色。自由に、私が見たままのカタバミがキャンバスの上で成長していった。
「で、できた……」
黄色い可愛い花に色を塗り終えると、私の四年ぶりの作品が見事に出来上がっていた。
「やればできるじゃないか」
ジャケットを脱ぎ、ワイシャツ姿で腕を捲っている島田が満足そうに少し微笑みながらそう声をかけてくれた。
「うんん……。全部島田のおかげ。ありがとう、私、また描けるようになった」
島田は首を振り、今までに見たことない笑顔を私に見せた。そして何かを言いかけたその時だった。私のスマホが突然鳴り出した。着信先を確認すると、相手は希望だった。島田は出ろというようにジェスチャーをする。何か嫌な予感を感じて、電話に出た。
「もしもし、希望?どうしたの」
電話の向こうからは重く、沈んだ声が返ってきた。
「ごめん、今病院にいるの。お願いしたいことがあるから、来て欲しい」
そんな内容だった。これに私は居ても立っても居られず、電話が切れるとすぐに島田を向く。
「希望が倒れたらしい。病院にいかなきゃ……」
普通、事情とかそういうのを聞かれるものだと思っていたが、島田はそれを聞いてすぐに描いた後の片付けを始めた。
「島田?」
「急げ。お前はこれだけ持って、早く」
そういって渡されたのは渾身の作品と、この先私が忘れることがないであろう一つの言葉だった。私はそれだけ握りしめ、島田のもとを後にした。
私が病院に着いたのは日が落ちる直前。すでに夕方は終わりかけて、月が交代を待っている時だった。希望はベッドに座り、外を眺めていた。そして、病室に入った私に気づき、申し訳なさそうに俯く。
「どうしたのさ、突然入院だなんて」
希望のベッドに近づきながら質問した。そして、近くの椅子に座ると同時に答えが返ってくる。
「盲腸だってさ……。ほんと、ついてないよ。もうコンクール締め切り近いっていうのに」
希望は呆れたように苦笑する。そういえば、締め切りのことなんて一切考えてなかった。なんとなくは分かっていたが、まさか希望が締め切り間近に完成させてないとは思ってもいなかった。
「それで、お願いって?」
「すごい自分勝手なんだけどね、私の絵、叶が完成させてほしいの」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。私の思考は見事に停止する。
「そんなの、良いわけなくない。ルール違反でしょ」
冷静に考えて、頷けるようなことではないと判断する。それに希望は小さく笑った。
「だね、ルール違反かも。あのさ、昔話しても良い?」
どんどん進む展開に脳が全然追いつかない。それでも、希望の口は止まらなかった。
「あれは小学生四年生の時かな。叶が凄い賞取った時の絵、覚えてる?」
「え、あー、覚えてるよ。シロツメクサの絵でしょ」
「そう。あのシロツメクサの絵、私、あの絵を見て絵を描きたいって思ったの」
初耳だった。何よりも衝撃が大きかった。私が当時描いたシロツメクサの絵は本当に凄い賞を取った。自分でも当然と思える程丁寧に、美しく描けた。でも、私はシロツメクサが苦手になった。中学の時に破かれたあの絵。あれは、私の再起をかけて描いた決意のシロツメクサの二作目だったのだ。でも酷評され、すっかりとやる気を無くす原因となってしまったのだ。
「そうだったんだ」
「それでね、今回私が描いてるの、シロツメクサの絵なの」
どくん、と心臓が大きく鳴って、今にも後ろに倒れそうになる。
「それを描けと……」
私は顔色をうかがうように、荒くなりそうな息を抑えて希望を見た。希望は私の事情を知るはずもないので、少し怪訝そうな顔はしつつもすぐにはにかむ。
「叶のシロツメクサの絵、もう一回見たい。あのときの感動、衝撃、忘れられないの」
「でもほら、希望の作品に手を加えられないよ。あと、普通にだめだと思うし……」
私は断るに断りきれず、どうにか希望に諦めて貰おうと御託を並べる。でも希望は全く折れず、遂に断りきれない提案がやってきた。
「団体の部っていうのがあるの」
「へっ」
間抜けな返事がぽろっと口から漏れた。そういえば、クラスの前で話したときにそんなことを言っていた気がする。個人の部のことしか考えておらずすっかり忘れていた。
「団体の部は二人以上のグループで参加できる。私と叶のグループで、提出させてほしい」
もう断りきれなかった。やるしかないと悟って私は希望の手を握った。
「わかった、やるよ。絶対完成させるから」
私の手は震えていたかもしれないが、それを止めるぐらいギュッと希望に握られて、決意が固まった。
次の日、今日は土曜日だった。朝早くに家を飛び出し、学校へと向かう。河原を通ったが島田の姿はそこにはなかった。土曜日だし不思議だとは全く思わず、学校に向かった。学校につくと、美術室の前を通り過ぎ、希望の作品が置いてある準備室に向かった。イーゼルの上にキャンバスを置き、絵を描く道具一式を足元に広げた。
使うであろう色をパレットに出し、筆を持つ。でも、そこから体は動かなかった。線画だけでも分かる美しいシロツメクサの輪郭。その妙なリアルさに、私は恐怖で手を付けられなかった。このままだと時間が過ぎていく、そんな時、島田にかけられた言葉を思い出した。
『俺は描き方なんて教えてない、お前は最初からやれたんだ』
胸が熱くなる。今の私にはまだ島田がそばに居てくれている。今なら描ける。目を瞑って深呼吸してから、じっと絵に集中した。そして意を決して緑色の絵の具を、希望の線画の上に置いた。描き始めると楽しくて、手が止まらなかった。どんどんシロツメクサに色がついていって、ワクワクした。これが絵を描く意味だと、ようやく思い出した。気がつくと、外は朝日から夕日に変わっていた。七時間、ぶっ通しで絵を描いていたことになる。
私は息継ぎをする水泳選手の様にぷはっと顔を上げると大きく息を吸った。
「できたっ」
達成感と喜びを吸った空気とともに吐き出した。描いている途中から薄々気づいていたが、なかなか良い出来栄えだ。希望の線画に泥を塗った感覚は一切なかった。描いた後を片付けたあと、スマホを取り出し、写真を撮って希望に送る。まだ既読は付かないが私は学校を後にした。
この絵を見せたい人はもう一人いる。その人がいつもいる場所に行ってみたが、今日はいなかった。私は大きな川を眺め、沈む夕日とともに家に帰った。
あれから数ヶ月、島田はとうとう河原に現れることはなかった。河原を毎日通るが、あの日から一ミリたりともあのスーツ姿の男性を見かけることはない。色々教えたいことがあるのに残念だ。私と希望の合作は団体の部で優秀賞を受賞した。最優秀とはいかなかったが、私たちは跳ねて喜んだ。島田に教えてもらいながら描いた私の絵は、佳作という賞は取ったが、とても島田に胸を張って報告できるものではなかった。
そして何より、私は島田のおかげで自分の進むべき道を決めることができた。美術の道を希望と一緒の道を歩んでみることにした。二人で描いたシロツメクサの絵がどうやら美大の先生の目に留まったらしく、私たちは推薦で大学を受験することになった。その学校のパンフレットを私たち二人は並んで開く。
「凄い……レベルも高いし、本当にいい学校じゃない?」
希望は嬉しそうにそう聞いてきた。私はページをめくり、情報を吟味する。そしてあるページを見つけて確信した。
「うん、絶対に最高の学校だね」
私の瞳に映るのは、見たことのあるスーツ姿に不器用な笑みを浮かべる男性理事長の写真だった。そしてその手には、あの時見ていた景色と同じ河原の絵が掲げられていた。
キャンバスのシロツメクサ 岩水晴檸 @boru_beru
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