ジュリエット・ウィスキーにさよならを

PAULA0125

私がキリスト教を追放された後の選択

 どんな宗教でも、人を幸せにしなければ意味がない。少なくとも多くの教祖は、自分の考えや思考方法によって、多くの目の前の苦しむ人を助けようとしたに違いない。真なる神仏というのは、衆生を救うために、万策を尽くす。

 だが、それが受けつがれ、集団が団体に、団体が組織に、そして組織が支部を持つと、そんな幻想は捨て去られる。いや、理想を捨てなければ生き残れない、と言うべきか。事実、金よりも政治よりも大切なものがそこにあって、それを守るために。構成員たちは全身全霊を捧げる。そうとも、命も尊厳もだ! そして、命や尊厳を捨てることが出来ず、死に怯えた人間を、組織は許さない。そう、彼らは、自分よりも優れたものに憧れ、崇敬を抱くし、自分よりも哀れなものに憐憫を抱くが、『そうはならなかった自分』には、獄卒も逃げ出すほどの残酷さを見せる。それこそが人間の本性だからだ。

 かくも残酷なところに、神はその人の『真理』と『救い』を置く。まるで、『それは、お前だけが知っていればいいもの、お前だけのもの』とでもいうかのように。

 『エッケ・アマンティウム』で著者コラムに書いたことは、半分嘘で、半分本当だ。宣教推進部は、『カルトは性を管理する』という自明の理をはねつけた。

 あの記事はどこにあっただろうか。号数、次期は一体どこにあっただろうか。あまりにも当たり前に、ずいぶん前からあることだから、当たり前になりすぎてて分からない。セックスという言葉を知らないくらいには、私は性から隔離されて育った。その後、私は無知ゆえに、自分がそれこそ『彼ら』の好むところの、性的搾取に遭った。その頃、世間にはまだ『うつは働く男がなる心の風邪』の時代だった。ならば、私の話を聞き入れてくれる人はいない。インターネットなら、年上なら。…そういう期待を抱いては砕け、居場所を追われ、その過程で、私が知ったのは恐ろしい『事実』だった。


 世の中の女性には、多かれ少なかれ、レイプ願望がある


 それが『事実』の時代だった。腐女子の『裏ページ』は、いつも受けが輪姦されたり強姦されたり、あるいは調教ものだったり…。腐女子なのだから、書いているのは女で、多かれ少なかれレイプ願望があるから、そういう怯える『可愛い』受けや、その心理が書けるのだと、私は信じて疑わなかった。

 同時に、絶望もした。

 自分が、どんなに望んでいなくても、どんなに気持ち悪いと思っても、『助けて』ということは、矛盾なのだと。私は、いつだって、いつか処女膜なるものを突き破られることに『スリル』を感じていて、それを嫌だと思うことそのものがおかしいのだと。

 そしてそれは、『聖書の教え』から離れているので、私は決して、『教会』では救われなかった。寧ろ、私のような考えをずっと否定し、叩いていたので、私は神にすら助けを求めることは出来なかった。あまりに辛かったからなのか、私はこの辺りの時系列がぐちゃぐちゃで、『それ』がいつ、どこで、どのように起こっていたのか、私は医学的に存在しない『処女膜』なる謎の粘膜を傷つけたのかどうなのか、それすらわかっていなかった。

 男女の愛は―――つまり、自分の親たちが持っていた愛は、汚く醜く、相手を傷つける。

 私の周りに在った男同士の愛は、創作物。私の周りに在った女同士の愛は、美しく純粋で、悲劇的。『恋愛』というものは、なるほど確かに、『この世的』な人とはするべきではない。神を信じている者同士が―――性行為は罪だと分かっている者同士が結婚し、子供を絶対に授かるセックスだけをすべきだ。だが、その理屈だと、私は既に神の組織にいるべきではなかった。私の本棚には、男同士の恋愛の本があるから―――では、ない。

 親には絶対にバレない場所で、私は見目麗しい女性たちが、抵抗の甲斐なくだったり、抵抗しようがない状況だったり。『本人』のせいだったり、それこそ『レイプ願望』を叶えてもらっているものだったり………。そういう商業誌がいっぱいあった。私はもう諦めていたのだ。『綺麗になる』ことを。

 だって私の心はもう、『おとめ』ではなくなってしまった。私は『罪の女』よりも罪深い。どうしてもこうしても、そういう『レイプ願望』を満たすことを止められない。神に救ってもらうことはないから、と、吹っ切れてしまえば、案外堕ちていくのは簡単なことで、神がするべきだと言っていたこと―――政治やその手のものも勉強した。しかしどこにも、私の『今』を、救ってくれるものはなかった。私はただ、絶望しながら、『自分が苦しいのは国のせいだ』と、思うことにした。

 時が経ち、そんな私のことを、『好きだ』と言ってくれる人が出来た。

 キミが病気であることも、その病気が生涯治らないことも知っている。キミは、わたしの病気の弊害や、境遇の重さを、全て笑い飛ばしてくれた。それがとても救いだった。友達でいようと思ったけれど、キミが好きだと言ってくれるなら、応えたい。わたしもキミが好きだ。

 まとめると、そんなような関係だ。私はこの人と生きようと思った。この人が、生涯のパートナーだと思ったからだ。

 だが、現実は非情だ。いつだって、誰にだって、無情だ。

 手を握られるだけで涙が出た。―――なぜ、好きな相手の手を握るのか分からない。

 肩を抱き寄せられるだけで過呼吸が起きた。―――なぜ、好きな相手を抱きしめるのか分からない。

 分からない、分からない、分からない。私はこの人にレイプされたいわけではない。なぜ、恋愛と性を想起させる『スキンシップ』をするのか分からない。私が正直にそれを相手に言うと、パートナーを止めるか、と、言っていた。私はとっさに、自分の中で大切にしたいから、と、二人の間で使うことを禁止していた、『愛している』という言葉を使って、引き留めた。

 私の主治医に、そのことを打ち明けた。実に、私は十年間もの間、『自分はレイプ願望が強い変態だから、いつ男にレイプされても仕方ない』と思い続けていたのである。主治医はその拘束と呪縛を五年かけて取り除いてくれたが、その後、私が少しでも『好奇心』を、持とうものならば、『レイプされたい願望』は容易に牙を剥く。

 もし、私がカルト―――エホバの証人や、極右の単立教会、ペンテコステ派、アナ・バプテスト派に囲まれ、過剰な性的道徳に縛られていなかったら、無かった苦しみだった。

 そして、エホバの証人たちは、『自慰行為をして、自殺しようとした』という『美談』を流布していた。私は足元に鎖を巻きつかせながらも、ある程度呪縛から解放されていたので、これは絶対に、『若い人達に尋ねる』のカウンターを、外ならぬ元凶であり、総本山であるカトリック教会が、出すべきだと考え、そして私は、出せる立場にあった。

 イエス・キリストは、『受肉』し、人間となった。

 これはキリスト教に共通の考え方だ。聖書の中では、イエスが飲み食いするシーンも、眠くなるシーンも、お腹を空かせるシーンもある。そして同じく聖書の中に、『イエスは罪を持っていないこと以外、まったく我々(=人間)と同じように生まれた』とあるのだ。

 食事をしたなら、それは胃を通して腸に吸収されるはずだ。実際、それが満足にいかないから『空腹を覚えた』とあるのだ。なら、イエスはおしっこもうんこもしたはずだ。当然だ、人間なのだから。

 生理現象と性欲は違う。女が意中の人がいなくても生理になるのと同じように、『彼』も、一般的な成人男性として、精通が来たはずだ。精通が来たなら、三十路と代謝のいい時期なのだから、朝勃ちもするし、そのままで歩くわけにはいかないから、処理もするはずだ。処理を我慢することは出来るのだろうが、果たして『成人男性』が、勃起したまま神の国や乱れた倫理を糾す教えを説いて実践するのと、朝起きて、弟子たちに揶揄われながら、自慰行為でさっさと出してしまって、身なりを整えて、神の国や乱れた倫理を糾す教えを説いて実践するのであれば、当然後者の方が絶対に、絶対に『自然』で、『人間』らしい。

 紙の上でない、肉を持った人間の性器というものは、とても大切なものなのだ。誰彼構わず触ってはいけないし、不快だと思ったら怒鳴りつけていいし、不快にさせないために教育すべきだ。

 私はただ、小道具やエフェクトとしてしか知らなかった精液―――の、中にある精子の、本来の役目を見た。ただの二つの生殖細胞が、『いのち』になるところを見た。私の短い生涯の中で、涙を流すほどに感動した、あの神秘は、間違いなく、神の御心に叶ったもので、そしてその為の機能は、全て祝福されている。

 そうとも、人間の身体には、神の前に恥ずかしい部位などないのだ。だから、性を管理する『神』はおかしい。神は、人間に与えた生殖機能を正しく使い、愛する人と、慈しみあって家庭を作り、誰の子であれ、愛のうちに生まれることを望まれている。そうとも、性とは、美しく、聖なるものなのだ。現代日本は、『公序良俗秩序』を気にしすぎてて、また、性器を侮辱する犯罪ばかりを報道して、本来の、性器の意図や祝福を忘れている。だから『レイプ神話』なんていう偶像が産まれるのだ。

 外ならぬ、イエス・キリストが持っているのだ。そしてイエス・キリストが使ったのだ。

 産まれる時、母マリアの子宮に宿り、その中で細胞分裂を繰り返し、マリアのお腹は大きく膨らんだ。そのことは聖書に書いてある。そして生まれる時は、頭蓋骨をずらし、体を回転させながら、マリアの産道を通り、陰唇を引き裂いて、羊水と共に産まれたのだ。その時産婆はいなかったそうだから、へその緒の処理は、女の知恵として教えられていたマリアが指示し、ヨセフが行ったのだろう。生まれてしばらくしてから、後産として胎盤を出し、もしかしたら体力を補うために、世界中の多くの地域で産婦がやったように、食べたのだろう。イエスは当時のユダヤ人の男子の儀式として、七日目に割礼を受けている。つまり、イエスはちんこを持っているのである!

 世界の倫理を宗教という形で呼びかけるのであれば、なおのこと、性の祝福と、その自由を説くべきだ。その性器に関することは、神にさえどうこう支持されることはない。況してや、信者の集まりである人間の集団に管理されるなどもってのほかだ!

 あの時の言葉は忘れられない。今でも、私に強い義憤と憎悪を思い起こさせる。


「綺麗な神さまは、綺麗な言葉で語らなきゃならない」

「わからないことは、聖霊さまが教えてくださる」


 私は、その言葉に、再び凌辱された気分だった。セカンドレイプという奴だ。

 ああ、確かに私は、自分の性被害について何も言わなかった。レイプ神話を、誰が信じているか分からなかったからだ。それに、時代も時代で、日本制度は私のような人間が、『病人』であることを許していたが、日本人たちは許さなかった。そんな『病人』は、もっともっと惨めで可哀想で貧乏で、いつでも暗い顔をして泣いているべきだ、と。

 私は何度か、教会の『回心』を期待して、教会に行った。悉く、母教会は私を裏切り、裏切り、裏切った。彼らは、『わたしたちのりそうてきなかみさま』を守るために必死だった。

 もうダメなんだ、と、思った。こいつらはダメだ。欲しかった『若者』とは、情熱や柔軟性を持っているものではなく、純粋で信者を増やすことだけに熱心で、内輪で盛り上がるイベントを沢山打ち出してくれる人のことだったのだ。


 だから私は、教会のホールで泣き崩れて訴えても、鼻で笑われて、誰にも声をかけられることもなかったのだ。

 

 いいだろう。いいだろう、いいだろう、いいだろう。

 お前たちは私を怒らせた。お前たちの神がそうだというのなら、私は私の神を、私をレイプ神話から救ってくれた神を、誠実な『男』を遣わし、幻想の『男』から救い上げてくれた、精液と糞尿にまみれたところに素足で入り、そこで床に股をつけ、体を震わせ、私の願望だから、と、言い聞かせていた私に服をくれ、汚れ切った私の陰唇を拭いてくれた、『清い神』を伝える。

 お前たちが聖書を武器にするのなら、私は聖書を更に読み込もう。

 お前たちが信仰を武器にするのなら、私は私の信仰を力づけよう。

 お前たちが地位や肩書、知識や実績、生き方を武器とするのなら、私は全てにおいて、『隣人愛』に生き、『隣人愛』に死んでやろうではないか!

 そうら、その教会に高々と掲げられた十字架を引きずりおろせ! 小さく刻み、キーホルダーにして、人々の衣服を飾るアクセサリーになれ!

 聖櫃を開けろ、その中にある神の身体となった御聖体を、観光客への秘密の土産物にしてしまえ!

 私達の信仰など二の次だ。そんなくだらないものを守るために、目の前の怪我人を救わんとしてなんとする! 出血が止まらないなら、神父のストラやアルバで縛れ。こんな時に、神だ祈りだとやっていていいのは、四肢を動かせず、声も出ず、笑いかけることも出来ない、文字通りの『空気』だけだ。肉があるなら、肉体があるなら、手を、脚を、喉を、頬を動かせ。ミサの時間だと追い立てる時計など取り外して、脈拍を図る道具にしろ。

 

 そのように、二千年前に手本を示したのが、私達の神ではないのか!


 私には筆があった。尽きないアイディアの泉、そして尽きることの無い学習意欲。私の健康よりも、やるべきことがある。私の健康を害してでも、伝えなくてはいけないことがある。信者獲得のための出版にしか興味のない、女子パウロ会やいのちのことば社なんかが出せないものを書いてやる。美辞麗句の外にしか生きられない人々の為に、『現代のイエス』を書いてやる。

 私がエホバの証人の孫として生まれたことで得た、『死ぬことよりも恐ろしい滅びの恐怖』も。

 私が数多のプロテスタントを渡り歩いて育って得た、『心の中を見透かす神に滅ぼされない為に、心の中を作り替える方法』も。

 私がカトリックにやってきて、得た心の自由と、学問の自由、そして悍ましいほどに浄められた人々の心の闇も。

 私が勉強して得た、『信仰の自由』『内心の自由』の意味を。その裏にある『信仰を守る義務』も。

 すべてすべてすべて、この指先に押し込めて、書き続ける糧としよう。どんな『傷』にも敏感になれるように、常に常に、教会に逆らい、私の信仰の自由のままに考え、『教会』が目を背けるところにこそ目を向けよう。その為には、決して先入観を持つことがないように、徹底した取材とフィールドワークを。カルトだから? 反社だから? テロ集団だから? それがどうしたというのだ? 私は人と話すだけだ。『お前達』が関わるなと言った組織の中にいる、人間に会いに行くだけだ。

 かつて、イエスがそのような人と食事をするために歩いて行ったように。そうとも、私は『保身』よりも『隣人愛』を選ぶ。連中が他人の不幸をオカズにオナニーをするように、私は『相互理解』をオカズに、新しい隣人の元に尋ねていくのだ。

 

 ―――こうして、現役カトリック教徒によるスタイリッシュ罰当たり創作者としての人生は始まった。

 ひたすら、知識を取り入れ、友人を増やし、ありとあらゆるところに興味を持って、色々なものを好きになった。

 統一教会の友人は元々いたから、彼らの教義を勉強した。仲良くなった人がたまたまモルモン教徒だったので、モルモン教典ももらった。道行く時に現れる勧誘は全て足を止め、演説は耳が痛くならない距離で最後まで聞いた。聞くも悍ましいヘイトも、耳心地のいい甘言も、優越感を思い起こさせる劣等なものも、全て決めつけず、自分の耳で、目で、口で触れた。

 『神学クラッシャー』と呼ばれた人に(一方的に)師事し、イスラームについても学び、腑に落ちないことがあれば直接聞きに行った。『聖書に書いてある』と、言って殴ってくるのは、エホバの証人もプロテスタントも同じだ。だから外国語を学び、翻訳の歴史や過程を学び、自分でも翻訳を始めた。私が伝えたい人々にしか分からない、そんな言葉で書かれた聖書。『怖くないもの』として、信仰に人間の姿を与え、人々の信仰に寄り添う、神に限りなく近けども、神の考えには及ばない教義や信仰としての姿を。信仰同士の醜い争いから、尊い友情の歴史を含め、ありとあらゆるスタイルで、どんな人にも―――『宗教』ではなく、『信仰』を、見てもらうために。指先が動くままに毛糸で絵を描き、求められたアイディアは全て答えるようにした。建築物の維持ではなく、その本来の目的の為に金も労働も注ぎ込んだ。面倒くさい三下を通さず、直接責任者に会いに行って、理由を説明し、目的を説明し、許可を得た。それでも解釈違いだと吠えてくる、稚魚は多くいた。おあいにく様、私はカトリックに籍こそあるが、お前達は私を派所した。だからお前たちが自分たちの信仰や自己満足の為に、神の身体である私を切り捨てたように、私は自分の信仰と自己満足の為に、お前達には従わない。本当に許可を取るべき人の意見しか聞かない。お気持ちなんか、お前達はくれなかったじゃないか。お前達が私に与えなかったものを、私は他の人に与えるので忙しい。口を出さないで貰いたい。口を出すのなら、それ相応の対価を。は? 傲慢? 外様? 人の気持ち? 上等! それが『私』だ!

 ―――私の信仰する神は、全てそれらを『良し』と言われた。


 私が心を寄せる神は、透明だ。どんな人にも、どんなところにも入り込む空気のように、あるいは真空状態でも通る光のように。可視光線でありながら、決して見ることは適わない、どこにでもある、どこにでもいる、みんなのもの。みんなのものだから、私のものでもある。


 私が、カトリック…と、いうよりも、キリスト教そのものに違和感を覚えたのは、最後の安倍政権の時だった。未曽有の厄災『新型コロナウイルス』の蔓延、停滞した経済の切り札としての様々な政策、手探り状態の中、大勢の人の仕事を潰さない為に開かれた、東京五輪。


 キリスト教は、赤かった。アベ政権を許さないと言わなければ、キリスト教徒ではなかった。


 やがて、ウクライナにロシアが侵攻した。世界中が、ロシアとウクライナに眼を注いだように見えた。それまで、タリバンや、ウイグル自治区問題、そんなものに興味を持たず、『世界の紛争』としか言わなかった教会が、『ウクライナの為に』と、神を青と黄色に塗り替えた。クリミア半島をロシアが占領したとき、彼らは何も言わなかったというのに。


 『ウラジミール・プーチンを、世界の呪いから守ってくれますように』

 『ウォロディミル・ゼレンスキーを、恐怖と孤独から守ってくれますように』


 そのように祈っている者はいなかった。メディアが『望まない出兵』を報道してようやく、『戦争に反対するロシア人の為に』祈りがささげられた。

 命の神、命の与え主である神に、『プーチンに天罰を下して殺してほしい』という祈りを分かち合うことが許された。私の信仰も祈りも、受け流してなかったことにする人々は、その気持ちを分かち合った。私がそれを強烈に皮肉り、非難すると、司会者は皆無言の無表情になった。ただ、私の皮肉と非難も、分かち合えばよいだけなのに、彼らはそれを拒否した。

 ロシア経由で信仰を伝えられた、日本正教会に、愚頭がケチをつけた。言葉狩りが行われ、在日ロシア人を初め、世界中のロシアにルーツを持つ人々が差別され、日本の教会において、大人たちはウクライナ以外のことを分かち合うことを許さなくなった。相田みつをの『わけあえば』という詩は、作者名を削られて、『都合の良い反戦詩』として消費された。

 牧歌的で、平和を望む作品は、どんなものであれ、連中のオナニー祈祷の道具にされる。一時創作だろうと二次創作だろうと、それは変わらない。その警告を、同人業界は封じ込めた。『政治的主張』にしか、見えなかったのだろう。私はただ、キリスト教界だけでなく、貪り喰らう宗教家どもから、アマチュアの作品が自衛できるように、伝えたかっただけなのに。彼らはプロフィールやイラストの背景に、『天安門』と書き込むことの方に熱心だった。なぜ、中国に盗作されて利益をむさぼられるのは嫌なのに、自分が信じてもいない宗教の人間にいいように切り貼りされて使いまわされることに興味や危機感を持たないのか、私には理解できなかった。


 そんな、オナニー祈祷に飽き飽きしていたある日、選挙カーのうるさい時期になった。

 カトリックに限らず、キリスト教は野党支持者が多い。とりあえず『自民党だけは許さない』『アベだけは許さない』とだけ言えば、それが平等であり、弱者救済に繋がると信じていた。その日のオナニー祈祷は、ウクライナではなく、『若者が、未来の為になる正しい選択をできますように』―――つまり、自民党に入れることがないように、という内容で、その祈りは分かちあわれた。


 如何にもその祈りは、御子の復活のごとく、三日後に成し遂げられた! 

 如何にも我らが神は、若者を政治家の前に立たせ、意見を『放ち』、自民党最大派閥は崩壊へ向かった! 若者は、『テロ』という『正しい選択』により、見事キリスト教界の敵『アベ』を、撃ち倒してみせたのだ!


 さあ! 見るがいい見るがいい見るがいい!!

 これがお前たちの怠慢の果てだ。『カルト』から目を背け続けた日本のキリスト教の報いだ。

 一人の男をテロリストにし、一人の婦人から夫を奪い、一人の人間の命を理不尽に奪い、その死の使い方すら、漢字のニュアンスだけに囚われて―――なんということだろうね! 確実に『一人の女性』が悲しんでいる。多くの人々が、恐れおののいている。なのに彼らが考えていることは? 『弱者を虐げていた人のニュースよりも、弱者がいたことの方が報道されるべき』、『興味のない人のことを無理に考える必要はない』と来た! そう、彼らは弱者を裁き、罪人を裁いた! 殺害する人間と殺害された人間なら、どちらが『弱くされた』のか、『加虐行為があった』のか、そんなことも分からない老人どもが、治め導く教会を、一体自称無宗教の日本人たちが、どうして信頼しようか!!

 ははは、はははははははは!!!! あっはははははははははは!!!!


 なんて『美しい』国だろうか!


 私の子供のころの神など、『疑問』は許さず、『関心』をいつも持って、いつでも聖書の質問に答えられるように、聖書の勉強をしなければ、『滅ぼす』神だったというのに!

 神よりも矮小な人間が、試行錯誤しながら存在し続ける、この『日本』は! その国の『どんな』家系のどんな仕事のどんな立場の人間を、人格を否定し、その祖先を否定し、その在り方を否定しても、誰一人殺されることはなく、暴力を振るわれないように、この国そのものが守る!

 そして今! こうして!

 倫理を教え、道徳を導き、共に苦しむ神を伝えるべきキリスト教徒どものこの体たらく!

 ああ、何をいまさら驚くものかよ。連中は『隣人』を選ぶのだ。自分の手が届かないから、隣人を選ぶのではない。自分の信仰のオカズにできる、手ごろな弱者だったら、選ぶのだ。

 そう、東日本大震災で、東北にはボランティアに行くし、物資も送る。しかし、液状化が酷かった千葉の浦安には誰も関心を持たなかった。福島の原発に反対することはしても、その原発で働く人々や、原子力研究者、除染作業の進行度や、その調査員には関心を持たなかった。寧ろそのような人々を侮辱し、彼らの仕事を奪い、彼らの仕事を侮辱し、貶め、否定した。そしてそれに気づくものはいなかった。唯一救いだったのは、私の母教会に、元東電の、原発のセールスマンが所属していて、恩師の神父を通して、原発に関わった人々の苦しみを、教会の中というごくごく狭いコミュニティに、告白してくれたくらいだろうか。

 ふふふ、あははは、あはははは!!!!


 なんて素晴らしい国なのか、日本は!


 何を考えてもいい、誰を非難してもいい、疑問を疑問と思わずともいい、調べる義務も義理もなく、ただピヨピヨ囀っているものをだらだらと流し込むだけでも、生きていることを許される!


 ―――そんな国を、作ってきたのだ。

 私は戦時中以前の政治を知らない。陸軍がどうの、天皇がどうの、そんなことは知らない。

 だが、私が生まれた時、もし、私がエホバの証人を始めとするキリスト教コミュニティの中に、母がいなかったとしたら。私はそもそも、日本人が意識する事すらしなかった、『心に考えるだけなら何を考えてもいい』という自由を享受していたのだ。


 そんな国を作ってきた、その最先端の人が、死んだ理由が、カルトだった。

 結社の自由、信仰の自由、良心の自由を守る政治を為していた人を殺した人が、性の管理で有名な、統一教会の信者の息子だった。

 ああ、不幸なのは、日本という世界に建てられたコラジンやベトサイダがごときキリスト教を自負する、無関心だった全ての人々だ!

 今こそあの事務に問いたいものだ。


 綺麗な神さまは、綺麗な言葉で、性を管理する統一教会を導いてくれたんですか?

 統一教会の献金と貧困に喘ぐ人々に、聖霊は何を教えてくれたんですか? ―――ああ、これは失敬。聖霊は、一人の若者を選び取り、『繋がりのある最も大きな政治家を殺せ』とお教えになり、そしてこの若者に銃の作り方や、安倍元首相の動向をお教えになり、そして殺させたのだった!


 ふふふ、あははは! これがキリスト教だ。これこそが、キリスト教なのだ!


命の神に仕え、それを伝えるべしと、聖職者なり、建築物の維持なりの使命を頂いた者ども、そして、教会である程度の発言力を認められる年齢と信者歴を持つ老人、そういう者達が信奉する神は、このような神なのだ!

 言っていいことと悪いことの区別もつかず、人のアイデンティティをオカズにするようなものども、流行のソーシャルMメディアビデオで悦に善がり、それを指摘されて逆上する拗らせ童貞!


 イエスは隣人を選んだだろうか? 隣人を選び取っただろうか? 自分を求めてくる人、奸計の為にであったとしても、近づいてくることを拒んだだろうか? 確かに、神だから出来たことなのかもしれない。

 だが、だからと言って私たちが真似するべきところは、私たちが最も関心を置くべきところは、『手の届く隣人』を選び、、『自分が必要とされている間だけ』触れ合うことだろうか?


 安倍元首相が、政治的にどんなに優れていたのか、劣っていたのか、私は知らない。

 ただ、あの人が首相である間、アルバイトの賃金は、少しずつ上がっていった。始業時間には制服に着替えていなければならなかったのに、制服に着替える時間も勤務時間になった。

 ―――コロナでイベントが無くなった時、十万円を配ってくれた。私はそれで、『エゴ・エリスⅡ』という、倒錯性癖の詩集を出すことが出来た。クーポン券で、一度は行きたいと思っていた、大好きな切支丹大名である、大友宗麟の地に行けた。その骨の前で、『神の国』を読み聞かせることが出来た。

 そして、その死後、私がエホバの証人の毒から離れる足掛かりとなってくれた。


 私の人生に『経済運』があるとしたら、経済は全て、安倍晋三氏が首相をやっていた時に、全て良い方向に行っていた。その命と引き換えに、私が声を上げ続けていた『カルト』に、より正確には、『その子供』に、光を当ててくれた。

 たとえアベノミクスだのアベノマスクだのが失敗していてもどうでもいい。給料が減ったとしても。


 ただ、その政治の下で、『思ったことを何でも言葉にしていい』という自由を守ってくれた。

 そして、その命と引き換えに、私が数十年、声を上げ続けていた『カルト問題』の恐ろしさを、世に知らしめてくれた。


 自民党だのモリカケだのどうでもいい。私という、日本人に生まれながら、日本コミュニティに生きることのできなかった人間を、彼は『国民』として扱い、日本人の信者や国民のように選り好みせず、制度は平等に与えて使わせてくれた。安倍晋三氏は私のことを知らない。だが、彼の公約を通じて、私の『国が悪い』という苦しみに遣わされたのは、そんな風に孤独と絶望に塞がっていた私に近づいてくれた福祉の元締めは、安倍晋三という一人の仏教徒だった。


 皮肉なものだ。キリスト教徒の敵と言わなければいけない公人が、私にとって、一番の隣人だった。


アベの功績じゃない、という奴らもいるのかもしれない。その政策を打ち出したのは我が党だ、と、うるさい奴らもいるだろう。そんな奴らには爽やかにこう返そうではないか。

「貴方達は、アベの矢面の流れ弾に当たっていただけでは?」


 ―――これだけだったら、無茶はしなかった。

 今年の夏も、オタ活訳聖書を書いて、コミケで頒布して、それで夏が終わり、秋に備えるはずだった。それを変えたのは、メディアの関心と、クラウンドファンディング、そして、またしてもキリスト教界隈の態度だった。


 とあるクラウドファンディングがあった。この時問題になった、『毒』から身を守るための本を、商業出版するためのクラウドファンディング。私も賛同した。実に、イベント収入の数分の一を投資した。この世論と流れを逃してはならない、と、私は、今までの色々な寺院や教会に、ビラを置かせてもらった。『お金はいらない、こういう本があることを知ってほしい』と。多くの寺院は、『協力出来るかどうかわかりませんが』と、言って、ビラを受け取ることだけはした。


 だが、キリスト教界隈だけは!

 プロテスタントもカトリックも、『教会の趣旨に合わない』と、同じ答えを返したのだ!

 ああ、そうとも。傲慢なる我らがキリスト教徒は、日本人からは等しく『何かの信者』と思われているとはつゆ知らず、自分たちが『毒』になる可能性を顧みることが出来なかったのだ!

 老害もそうだったし、ユースグループでさえ、反応しなかった。


 しつこくしつこく、関わるうちに、このクラウドファンディングは成功し、セカンドゴールを目指すことになった。その時の新しい画像に、『カルトからの逃亡』の、文字も出てきた。

 私は驚いた。目を見張った。

 全く、カルトに関係ない出版社であるこのレーベルが、私の『カルト一族』という『毒』について、関心を持ってくれたのだ! なんということだ、またしてもキリストの救いは、教会の外からやってきた。

 だのに、キリスト教界隈の体たらくと言ったら! 趣旨とはなんだ? 隣人愛を述べ伝えることじゃないのか? 明らかに目の前に『幼子』がいるのに、なぜ彼らは無視をするのだ?


 毎年毎年、フェアトレードチョコレートを買って、途上国の女性の援助はするのに。

 どうして同じ国の苦しむ子供たちのための基金を、知ることすら拒むのだ。


 だが、疑問に思っている時間も惜しい。とにかくこの本が出ることには変わりがないのだから、ひたすらひたすら、デジタルでもアナログでも広めた。この出版社は、まったく予想だにしなかった『カルト』という毒に気づいてくれた。私の生涯は全て『貴方』の書にあるのだから、この書もまた、神から来たものなのだ。我が神が、幾万の嘆きと恐怖と死を受け取り、聞き入れ、遣わしてくださったこの本は、サードゴールを目指していた。

 最終日。あと、六桁足りなかった。もちろん、それでも十分な金額が集まっている。だけど、足りない。足りてない。

 私は、その六桁をカバーできる額を投資した。私が一年かけても稼げない同人誌の売り上げ。それを投資した。


 下心があったかなかったか? あったとも! あわよくば、一般図書に、『現役カトリック教徒によるスタイリッシュ罰当たり創作サークル』が躍り出るかもという、下心はもちろんあったとも!

 法人用枠に、同人サークルが応募してきた、と、本社は大パニックになったらしく、私のところに連絡が来た。いろいろ事情があって、私のサークルがそこに載ることはなかった。けれども、私が日ごろから使っている、『聖書で人を殴ってはいけない』という文言を使い、パートナーがキャッチコピーを作った。ここまで来たからには、私の名前を『有志代表』とすべきだと考えた。

 しかし、パートナーは許さなかった。

「キミは、わたしの出来ないことをしてくれる。キミを支えるために、わたしは筆を取り替えた。キミの筆は絶対に折れてはいけない。キミだけは、作品に滲み出る知性と信仰でのみ、存在を主張しなければならない。―――だから、ここはわたしに任せて。肩書だけなら、わたしもキミも、同じなのだから。」

 そして私は、パートナーの名前を公表することを許可した。パートナーが守ってくれるなら、私はなおのこと、応えなければ。


 本当だったら、もっと時間を書けて執筆し、本編を公開し、その翌年の春、売り出すはずだったこの短編集を、今こそ。

 愛の可能性を、神の愛の本当の重さを表す言葉で〆る本編より先に、このモキュメンタリ―を。

 イエスが酒とたばことドラッグとセックスに溺れ、十字架をほっぽり出して、どろどろに支配欲によって愛されることを通して、伝えたかった『神の愛』の物語を。

 聖書と異世界トリップを組み合わせた、大人のおとぎ話を。


 いまこそ私もまた、ジェホヴァズウィットネスにさよならを言って、主人公のように、歩き始めよう。神への冒涜、神への挑発と言われても仕方のない、私の信仰の道を。

 なに、案ずることはない。私は残り十二時間でこの本を書き上げなければならないが、だからと言って、もう私は、かつてのように怯えることはないのだ。


 末尾に、パートナーの考えてくれたキャッチコピーを記し、この前代未聞の短編集の本編に入ろうと思う。





貴方は幸せになるために生まれてきた。

不幸になるために生まれたんじゃない。

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