トレンチ

北見崇史

トレンチ

 榴弾砲の砲弾が唸りをあげて落ちてきた。

 一発目が兵士のそばに着弾し地面を抉る。殺傷力のある破片をまき散らし、派手に土煙をあげた。

 二発、三発と落ちてきたが、兵士は伏せてなんとかやり過ごす。ほぼ動かなくなった右足をかばいながら匍匐前進し、塹壕へと滑り込んだ。とたんに至近弾がさく裂して、大量の土砂が降りかかる。さらに柔らかくも生温かい重量物が圧し掛かってきて、焦る。

「ふにょ~ん」

「う、うわっ、なんだ。敵か」

 兵士に覆いかぶさっているモノを向こうへ押しやってから、すぐさまアサルトライフルを構えた。トリガーを絞ろうとするが、寸前で止める。

「にゃにゃ~ん」

「お、おんな?」

 女であった。

「えっ、学生? その制服、まさか女子高生か」

「ええーっと、そうです。いちおう、わたしは高校生をやっている女子なのですよ」

 しかも、まさかの女子高生であった。かわいらしい制服姿であり、顔も相当な美形である。

「なんで前線に女子高生がいるんだよ。民間人は全員退避済みじゃねえのか、ったく」

 戦場の、しかも砲弾が飛んでくる最前線に、制服姿の女子高生は相応しくない存在である。兵士はあきれるより先に、彼女が取り残されていることに怒っていた。

「お仕事なのです。だから来ちゃいました」

 女子高生は悪びれる様子もなく言うが、兵士は眉間にしわを寄せた。

「おまえみたいなガキに、なにができるってんだ。ふざけてるのか」

「道案内ですよ。これでも、けっこうな経験者なのです。それと、わたしは{おまえ}でもなければ{ガキ}でもありませんよ。ちゃんとした名前があるのです」

 憤慨したのか、頬を少し含ませてプイとあっちを向いた。その不貞腐れた顔が可愛すぎて、ここが危険な場所であることを忘れさせた。ずっと連続していた兵士の緊張が、すーっと解ける。久しぶりに平穏な気持ちとなった。

「それは悪かったな。ええーっと、それでお嬢ちゃんは誰なのかな」

「猫屋敷華恋(ねこやしきかれん)です」

 自己紹介で、なぜか得意げに胸を張る猫屋敷華恋であった。

「猫屋敷って苗字、めずらしいなあ」

「みんなからは、ネコヤー、って呼ばれてます。ネコヤーですよ、ここ重要」

「ネコヤーか。まあ、お嬢ちゃんっぽい呼び名だよな。すごく合ってるよ」

「ニャンです」

 兵士の言ったことを肯定的に解釈し、招き猫みたいなポーズで謝意を表した。

「おじさんは誰ですか。あ、待ってください。わたし、当てちゃいますよ。うう~ん、ズバリ、{山ちゃん}でしょう」

 自信ありげなドヤ顔である。

「それ、飲み屋に必ずいる常連の法則だよな。まえにテレビでやってたっけ」

「クラスにもいる法則でもあります。ちなみにネコヤーのクラスでは、担任の先生が山本の山ちゃんですよ」

 ニャン、とまたもや猫招きポーズであった。

「お嬢ちゃんは猫が好きなのか。いや、猫属性というやつか。アニメみたいだな」

 猫屋敷は、じーっと見つめていた。彼女はまだ返答を受け取っていない。兵士は、そのことに気づいた。

「ええっと、仲間内からは{シバやん}って呼ばれてるよ」少し照れたように自己紹介した。

「では、おじさんはシバやんさんですね。ひょっとして犬属性の人なのですか」

「柴犬ではねえけどな。まあ、犬も猫も嫌いじぇねえよ」

「ネコヤーは、じつはワンコも大好きなんですよ」と猫屋敷が言うと、「ワンワン」と兵士が返した。存外に恥ずかしいのか、ヘルメットを深くかぶり表情を悟られないようにしていた。女子高生はニコニコしている。

 突然、甲高くて鋭い音が大気を切り裂いた。

「あぶねっ」

 兵士が無防備に立っている猫屋敷の頭を保護するように抱えて、塹壕内の地面に伏せさせた。ドーンと強い衝撃があった。またもや至近弾であったが、狭くて湿った回廊内は{比較的}安全だった。 

「お嬢ちゃん、大丈夫かい。痛くないか」

「はい。シバやんさんが助けてくれたので、意外と平気なのですよ」

 そう言って、にっこりと微笑んだ。体のどこかに損傷を負っているという感じではない。しかし、兵士は慎重で用心深かった。

「確かめてみるから、ちょっと体を見せろ」

「イヤ~ン」

 なにを勘違いしてしまったのか、猫屋敷は身をよじってイヤイヤのポーズを見せた。

「女の子へのセクハラ発言は許されませんなのですよ。ちゃんと記録しておきますので、軍法会議を覚悟してしまいなさい」

「なんか日本語がおかしいぞ。それとな、砲撃や銃撃直後は痛覚が一時的にマヒして、あんがいとケガしていることに気づかない場合があるんだ。もし出血しているのなら、一秒でも早く止血しないと手遅れになる」

 兵士の言い分は理にかなっていた。薄汚れた無精ヒゲ顔が真剣である。彼に不埒な下心など微塵もないことを、猫屋敷は納得する。

「では、どうぞ」

 女子高生が両目をつむって尻を突き出した。体を固くして、プルプルと震えている。猫のくせに、まるで注射を覚悟した子犬だなと、兵士の苦笑いは久しぶりだ。

「ふむ、とくに出血はないな。どこもなんともない。もういいぞ、お疲れさん」

「ニャンです」

 ある種の緊張から解放されて、ふーと力を抜く猫屋敷であった。油断しきったところで、兵士がイジワルなことを言う。

「高校生にしちゃあ、なかなかのボデーだよな。カップはCかDかな」

 キッと鋭い視線が、ニヤついた中年顔に突き刺さる。

「今度こそセクハラですよ。明確なるセクシャルハラスメントなのです。裁判沙汰となります。あとで出頭してください」

 あははと笑って、兵士が土だらけの頭を掻いた。相手は二回り近くも年下だが、悪い悪いと詫びをいれた。

「ちなみに、カップはFなので、お間違えの無いようにお願いします」

「それは、ちと盛り過ぎだろうよ」

「女はいつでも五割増し。基本ですね」

 女子高生の可愛らしい顔が凛として言った。そのすぐ後に、二人が同時に笑う。

 まったりとした時が流れようとしていたが、ここは戦場である。ヒュンヒュンと尖った音が空を切った。遠距離からの銃撃であるが、たいした量ではなかった。

「おい、頭をあげるんじゃねえぞ。へなちょこな弾でも、まぐれ当たりがあるからな」

「もう、怖い人たちが来ますか」

「なあに、やつらはまだこねえよ。突撃してくるのは、おそらく日が暮れるちょっと前だ」

 心配するなと言いつつ、塹壕から顔を出して周囲を油断なく見ていた。

「ここからお嬢ちゃんを逃がす算段をしないとな。最前線を女子高生一人で走らせるのはしのびねえけどよ」

「シバやんさんは、行かないのですか」

「俺は足をやられてほとんど歩けねえ。それに、まだこの塹壕を抜かれるわけにはいかねえんだ」 

 猫屋敷が周囲を見渡す。乾いた土壁と樹木の根、大量の空薬きょう、止血に使用した包帯、ペットボトルなどが散乱している。ここに兵士は一人だけであり、そのことについて説明を求めるような目線を流した。

「最初は小隊で守ってたけど、けっこうやられちまってな。半分になって、さらに削られたよ。二百メートル後方の塹壕に分隊の仲間がいる。重傷者ばかりで身動きができねえ。車道は自爆ドローンのカモだし、草っぱらにはロケット弾で地雷を撒かれて味方の車両が近づけねえんだ」

 兵士は右太ももをさすっていた。猫屋敷が触ろうとするが、軽く手を振って遠慮する。

「地雷を取り除くのに、もう少しかかる。それまでは、ここを通すわけにはいかねえ。あいつらが無事に撤退できるまではな」

「シバやんさんは、がんばり屋さんですね」

 兵士は、本日数度目になる苦笑をした。シリアスな状況なのに、なぜか緊張が途切れてしまう。そのことに苛立つことはなく、かえって心地良さを感じていた。

「お嬢ちゃん、年はいくつだ」

「ネコヤーは十七歳になりますね」

「十七かあ。一番ピチピチの頃だよな。息子と同級生だ」

「同級生の男子なのですか。ちょっと気になります」

「すげえイケメンなんだぞ。ちょいブサの母親とジャガイモみたいな父親の子なのによ。バレンタインの日にゃあ、虫歯になるくらいのチョコが我が家に届いたな」

「ネコヤーは、かなり気になってきましたよ。イケメンは三度のネコまんまよりも好物だったりします。にゃあ」

 またもや猫招きの手をやる。おねだりのポーズだなと察した兵士は、追加の情報を惜しみはしなかった。

「しかも、ピアノが弾けるんだぜ。高校生なのにプロ並みだ。女房の妹がピアノ教室の先生でな。月謝がタダだからって、ガキの頃から通わせたんだ。あいつは俺と違って、いろいろと才があるんだよ」

「イケメンでピアノがプロ並み。ちゅるちゅるよりも素敵です」

 兵士がポケットからスマホを取り出した。何回かタップすると、画面にピアノの鍵盤が現れた。

「あいつが弾いたのを録音したんだよ。聴くか」

「ハイです」

 即答に気をよくした兵士が続けて操作すると、曲名その他が表示された。

「チョピンさんの曲ですね。韓流ドラマの主題歌でしたか」

 真顔でいう猫屋敷を、兵士は悲しい顔で見た。

「神は二物を与えずって本当だったんだな。すんごく可愛いお嬢ちゃんだけど、おつむはアホで安心したよ。世の中、不公平は良くないからな」

「それはひょっとして、ネコヤーが褒められてはいませんと思いますが、いかがでしょうか」

 無精ひげの中年顔が、ぷっとふき出してしまう。猫屋敷はふくれっ面だ。

「Chopinはチョピンじゃなくて、ショパンだよ。まあ、韓流ではねえわな」

 いじわるそうに言うと、猫屋敷の頬が濃い桃色に火照った。

「も、もちろん、ショパンなのです。知っていましたよ。いまのはちょっとした猫ジョークです。ひろしさんが得意ですね」

「ふふ、そういうことにしといてやるか。こいつはショパンの夜想曲20番だ。っていっても、クラシックは俺も詳しくねえんだけどな。ほれ」

 プレーヤーアプリに指が触れると同時に曲が始まった。中年男と女子高生は、しばし無言で聴き入る。

「すごくまったりとしていて素敵です。ピアノを弾くイケメン男子を想像したいのですが、シバやんさんの、じゃがいも顔が邪魔で集中できません」

 やり返されて、兵士はハハハと笑った。

「いい曲だろう。これを戦場で聴くのがオツなんだよ。だけど俺の好みはバッハでさ、あいつのは絶品なんだって」

 兵士は次の曲を聴かせようとしているが、その前に、女子高生からの意見具申を受けた。

「ネコヤーは、こう思うのですよ。オッサンとではなくて、イケメン男子と二人っきりで、じかに聴いてみたいとです」

 両手を強く握っての前傾姿勢である。なにかを期待する顔が押しつけがましかった。だが予想に反して、兵士の表情が静かに固くなった。

「あいつはよう、陸自の志願年齢が十七に下がって、すぐに入隊したんだ。女房や俺や友だちを侵略者から守るんだって張り切っちゃってよ」

 塹壕の中は埃っぽく、得体のしれない悪臭もあってハエが多かった。

「俺は止めたんだ。誰かがやるから、おまえがわざわざ行かなくていいってな。だってそうだろう。まかり間違って死んじまったら、それで終わりだ 戦いの好きな奴がな、がんばればいいのさ。まだ高校生のガキになにができるってんだ」

 不機嫌な声色になった。右足をさすりながら苦い追憶に顔をしかめている。猫屋敷はじっと聞いていた。バッタがキリキリと鳴いている。

「死んだよ。地雷を踏んで動けなくなったところに砲弾が落ちたらしい。えらく軽い骨壺に入って帰ってきた。あの時の女房が忘れられない。親をな、あんな顔にさせたらダメなんだよ」

 兵士が迷彩服のポケットをまさぐっていた。チョコレートバーを取り出して差し出した。それを受け取った猫屋敷は、封を切って半分に折り、半分を返して半分を食べた。兵士が半分を食べ終えた頃合いで尋ねた。

「シバやんさんは、どうして兵隊さんになったのですか。戦争で息子ちゃんが亡くなったのに、そこへ行きたくなかったのではないですか」

「あいつはな、やり残して死んじまったんだよ。大言壮語を吐いて、結局なにかを守る間もなく吹っ飛んじまった。だから、俺が引き継いでやったんだ。子供の後始末をするのは親の責任だろう。いくつになっても、子供は子供なんだ」

 甘ったるい菓子の感触を、いつまでも舌で転がしていた。 

「息子ちゃんが守りたかったものを守れていますか」

「さあな。俺なりにがんばっているけど、正直よくわかんねえよ。侵略者から家族や国を守ってるっていうよりは、毎日毎日飽きもせずに突撃してくる敵どもを、ゲームのようにぶっ殺すだけだ。あいつはこんなことをしたかったのかな」

 埃まみれのペットボトルに口をつけてグビグビと飲んだ。残りを手渡そうとするが、女子高生は丁重にお断りした、

「敵はゾンビみてえなやつらだ。殺しても殺しても前進をやめねえ。だけど、まるっきりのゾンビっていうわけでもねえんだよな。便器までかっぱらっていくロクでもねえのが多いが、中にはまともなやつもいるぜ。ま、ゾンビもいろいろってことだ」

「ドロボウさんはいけませんね。ゾンビ映画は怖いです」 

「なんだか知らねえけど、叫びながら突撃してくるんだ。やつらの言葉でクソッたれとか死ねとかは覚えたけれど、たまに女の名前を叫ぶのがいる。恋人か女房かな。ゾンビにしては血が通ってるわな」

「シバやんさんが突撃するときは、ネコヤーって言ってくれますか」

 本気か冗談かわからず一瞬兵士の思考が停止してしまうが、数秒後に苦笑いである。

「なあ、可愛い顔した女子高生さんよ。人間をゾンビみたいにする原因はなんだと思う」

「うう~ん、そうですね。映画では、宇宙からの光線とかウイルスとかが有名ですね」

 野キツネが一匹、塹壕の淵から二人を見ていた。猫屋敷が微笑んでシッというと、小首を傾げてから去っていった。

「現実はな、権力者のジジイが最後に一旗揚げてえだとか、そのどさくさで儲けてえだとか、そんなくだらねえことで命令がきて、人がゾンビのように扱われる。どうでもいいんだよな、他人の命なんて。ゾンビども同じだから味方を平気で見捨てるし、見捨てられて死ぬ。そこいらじゅう、やつらの死体だらけだ」  

 その疲れた姿から汗臭さが伝わってくる。

「もう、何人殺したかわかんねえや。なんの罪悪も感じないし、後悔もない。結局、息子の復讐をしたかったんだよ」

 いつの間にかしゃがんだ猫屋敷は、兵士の肩に自らの肩を寄せながら話を聞いていた。

「俺は地獄に落ちる。それだけのことやったし、まだまだやる。地底の果てで鬼どもにバラバラにされて、未来永劫業火で焼かれ続けるんだ」

 確信しているのか、まっすぐ前を見据える瞳に熱は感じられなかった。

「そんなことはないですよ。良い悪いは、心のありようなのです。シバやんさんは息子ちゃん想いの素敵なおじさまなのですから」

「さっきは、オッサンとか言ってたぞ」

「てへ」と舌を出した。中年顔が柔らかな笑みを浮かべる。

 兵士が身に着けている無線機から通信があった。途切れ途切れで不明瞭だが、後方の塹壕からである。

「基本的にジャミングが効いて無線が使えねえんだが、ときどき弱まるんだ。やつら、ドローンを飛ばしてんのか。ということは、今日は早めになるな」

 人の好いオッサン顔が兵士のそれへと変わった。専門的な軍事用語を使ってやり取りをする。

「地雷除去が終わりそうだ。これで車両が塹壕まで来れるようになるけど、やつらもうすぐ突撃してくっから、こりゃあギリギリだぞ」

 兵士が立ち上がり、周囲に散らばっていた小火器類を集めて塹壕の上に並べた。一つ一つ指をさして確認している。

「鹵獲したRPGとライフルとミニミと弾倉が三つ、手りゅう弾が六個か。まあ、やれるか」

 重たくなった足を引きずって少し高くなっている場所へ行く。そこから頭を出して先を見ている。

「なにかお手伝いはありますか。ネコヤーが戦うことはできませんが、お水を運んだりしましょうか」

 猫屋敷に緊張感はない。中年男が屈んで彼女の目線と高さを合わせた。

「お嬢ちゃん、よくきくんだ」

 兵士の表情がこわばっている。出会った時と同じくらいの切迫感があった。

「もうすぐ敵の砲撃が始まって、やつらが突っ込んでくる。そのどさくさで逃がすから、合図したら塹壕を通って真っすぐ後ろへ走るんだ。身をかがめて全速力だぞ。うまくいけば迎えの装甲車が来ているはずだ。とにかくそれに乗れ。取り残された民間人ですって言えば大丈夫だ」

「シバやんさんは、どうしますか」

 その質問には答えず、兵士はさらに必要な指示を出す。

「もし装甲車がなかったら、とにかく走ろ。町まで行って服屋のシモムラを見つけろ。そこの地下に大隊指揮所がある。保護してくれるだろう」

「ネコヤーのおパンツはシモムラなんですよ。安くて丈夫で、しかもデザインがカワイイのです」

 見ますか、というお誘いは無視して、兵士は無線を調整する。なんとか後方の支援部隊と繋がったようで、現状を報告していた。散発的にではあるが砲弾が二人の近くに落ちてきた。樹木が粉々になり、空に舞った地面が土砂降りとなる。無線機を耳に当てながらも猫屋敷の頭を押さえることを忘れない。

 兵士は砲撃要請をした。そのあとに必要な座標を追加する。戸惑った声が確認してきたが、怒鳴るように言い返した。

 敵側からの砲撃が止んだ。乾ききった空気の向こうから、いくつもの叫び声と銃弾が押し寄せてくる。

「さあ、おまえと一緒に戦うとするか」

 スマホのボリュームを最大にして、塹壕の壁に置いた。そして、さっき一旦停止していた曲を走らせる。画面には、バッハのG Minorと表示されていた。

 兵士の体内にアドレナリンが放出される。「うおお」と吠えてロケット弾を発射すると、すかさず軽機関銃を構えた。四方八方へと撃ちまくり、突撃してくる敵兵をなぎ倒した。過熱した銃身から煙が立ち昇り、空薬きょうが散乱している。弾倉がカラとなり、リロードする間に短く言い切った。 

「ネコヤーッ、今だ、走れ」

「ハイ」

 乱れ響く銃声に負けないくらいの元気な声が返ってきた。兵士がふっと笑みを浮かべて、さらに射撃を強化する。

「ゾンビどもっ、来るなら来やがれ。ここは絶対通さねえ。死んでも通さねえからな。オーラオラオラオラー」

 ほとんど聴き取れないピアノ曲を脳内で増幅していた。息子の匂いがして、兵士の集中力が途切れることはなかった。三つ目の弾倉がもうすぐ尽きようとしている。

 無線から、後方陣地が無事退避したとの報告が来た。兵士の塹壕へ向かって手榴弾が雨あられと振ってきた。小さな爆発だが、十分すぎる威力があった。幾つかが塹壕内に落ちてボンボンと小気味よく弾けた。

「くっ」

 負傷していた右足首が吹き飛んでしまった。破片で頬の肉がえぐれて右目を失ったが、それでも戦う意志に陰りはなかった。突っ込んできた敵兵をアサルトライフルでハチの巣にし、手榴弾を投げた。その辺一帯には、もうすぐ味方の支援砲撃がやってくる。破壊は熾烈を極めるだろう。木々も人も彼も、すべてが粉みじんとなる。

「ハハハ」

 兵士は爽快な気分であった。味方の負傷者は無事に退避し、戦場に紛れ込んでしまった可愛い民間人も逃げおおせただろう。自らの役割を果たせて満足していた。何度もリピートしているピアノ曲を聴きながら、終わりの時を迎えようとしている。

「だけど、この中はイヤだな」 

 狭い塹壕の中で最期を迎えたくないと、残った気力を振り絞って這い出した。のそのそと匍匐し、裂けた木の幹に背中を付けた。タバコに火をつけて大量の煙を吐き出した。そして驚愕の光景に直面してしまう。

「どうしてだっ」

 あの女子高生が、すぐ目の前に立っていた。そこは銃弾が乱れ飛び、手榴弾が弾けまくっている。さらに味方の猛烈な砲撃にさらされようとしているのだ。

 兵士はもう動けない。女の子を庇うことも脱出させこともできない。最大の絶望が彼を包み込んだ。息子を亡くした時よりも、もっと深い失望だった。

 突っ込んできた敵兵に手榴弾を投げ込まれた。なんとか撃ち返して追い返すが、それらは彼と彼女の近くで爆発した。

 左腕が千切れ飛んだ。首にも破片が突き刺さり出血が止まらない。消滅しそうな意識が、自分よりも女の子に危害が加わることを強く恐れていた。

「あっ」だが、それは杞憂であった。

 平然と立っていた。感情の抑揚も見せずに、可愛らしい顔でじっと見つめている。数十発の銃弾が唸りをあげて貫こうとするが、彼女の前ではすべてがゆっくりと進み、直前で止まって地に落ちた。手榴弾の破片も、爆風で粉々になった木片も同様である。

 当たり前で容赦のない物理法則が赤子同然に捻られていた。彼女が、あきらかに別次元の存在であることを知らしめている。

「ああ」

 兵士は、猫屋敷華恋が何者なのかを悟った。なぜ、この場にいるのかも理解した。

「そういえば、道案内って言ってたっけな」 

 味方の砲撃が始まった。重く破壊力のある榴弾が指示した座標通り着弾する。轟音とともに土柱が連続して立ち昇り、形が残っている物を粉々に引き裂いた。甚大なる破壊だが、そこに立ち続けても彼女は、けして壊れることなく、穢れもせず、ただ佇んでいた。

 戦場に静寂が訪れた時、朱に染まった夕陽とは別に、天上から淡い光が差し込んできた。彼女の背中から大きな羽が開かれた。それは真綿のように純白であり、どこまでも透き通るほどの清澄さがあった。兵士は苦痛を感じていない。安らかな気持ちのまま、ゆっくりとこと切れた。


 

 羽の生えた女が、いくつもの光の玉を従えて昇っていったと、奇跡的に生き延びた敵兵が伝えた。その証言は無視されたが、かわりに新型のUAVが配備されたらしいと報告された。

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トレンチ 北見崇史 @dvdloto

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