聞いた話だ
鈴北るい
聞いた話だ
聞いた話だ。どんな話かと聞かれても困るが、強いて言えば、人間が一番怖いという話だ。
* * *
彼、仮に
その夏、好太郎氏は虫取りに夢中だった。
「今では虫なんか触りたいとも思わないのに、ガキの頃はどんな虫でも好きだったなあ」
そう言う好太郎氏は、セミやカブトムシ、クワガタといった虫に始まり、山中で見つかる虫ならなんでも追いかけていたらしい。都会暮らしの子供にとっては、田舎の山は不思議だらけの異世界とも言うべきところだったのだろう。3日か4日か、夢中で遊んで、最初のうちは心配してついてきていた祖父もそろそろ大丈夫だろうと来なくなって、それからさらに何日か経ったある日、好太郎少年は誰かが自分の方を見ていることに気づいた。
白いワンピースを来て、白い帽子をかぶった女の人だった。誰かは分からない。会ったことのない人だ。だが、彼女はニコニコしながら好太郎少年の方を見ている。
自分の知らない親戚の人かしらん。そう思った好太郎少年は軽く一礼して、また虫取りに戻った。多少の気まずい気持ちはあったが、それより虫取りを続けたいという気持ちの方が勝っていた。土を掘り返したり、草をかき分けたり、いい感じの棒を拾って振り回したりしながら、好太郎少年は次第に山奥へと入っていった。そして、そろそろ昼だろうか、戻ったほうがいいだろうか、と振り返った時だった
先程の女の人がいた。
先程とたいして変わらない距離から、好太郎少年を見ている。
その山というのは、随分急で、深い山だった。スニーカーをはいて、長袖長ズボンでなければ到底登れるようなところではなかった。そして、好太郎少年がいたのは、キャンプに来たような人さえ入り込んで来ないような山の中だった。
真夏の盛りだというのに、ぞっと冷たいものが背筋を這い上った。
あれは、何だろう。
そう思って女の人をまじまじと見る。
おそらく、それがいけなかった。
ぬっ、と女の人の首が伸びた。ろくろ首のような伸び方ではない。やわらかな餅を引っ張ったように、体全体が伸びている。体は反対に引っ張られたように縮んでいる。
元の大きさより小さくなった頭がゆらゆらと揺れた。
こちらを見ている。
笑っている。
見守るような笑いではなく、ニヤニヤとこちらを嘲笑っている。
好太郎少年はわっと声をあげて逃げ出した。急な斜面を突っ走り、山を一気に駆け下りた。よく怪我をしなかったものだと今でも不思議に思う、と好太郎氏は語った。そんな状況なのに、虫取り網だけはしっかり握りしめて片手が塞がっていたんだから、子供の運動神経というのは不思議なものだ、虫取り網は祖父からの貰い物だったから、大切にしなきゃいけないと子供ながらに思ってたんだろうな、と。
さて、好太郎少年が家につくと、祖父母と父親が出迎えてくれた。好太郎少年を見て、なにかあったのかと父親が聞いた。好太郎少年は、起こったことをうまく説明できなかったが、それでも必死に変な女を見たということを話した。ろくろ首じゃないけど、ろくろ首の女がいた、と。
父親はただ困惑した様子だったが、祖父母は話を聞いて急速に険しい顔になっていった。そして、話の途中で好太郎少年に聞いてきた。
「お前、山で何かせんかったろうな」
「な、何もしないよ……」
「本当か? 何も壊したりしてないか?」
「なんか……小さな家があったから燃やしただけだよ……」
「何っ?」
「これくらいの小さな家があって……ボロボロだったからガソリンをかけて燃やしたんだ。いいざまだったよ」
「あの祠か! お前あの祠を燃やしたんか!」
ほこら、と言われても好太郎少年には分からなかった。祖父の剣幕に怯えていた。祖父はそんな好太郎少年を見て無駄だと思ったのか、今度は父親の方に怒鳴った。
「お前、どんな教育をしておる!」
「いや……何者にも立ち向かえ、欲しいものは全て奪えと……」
「勝てる相手からだけにせえと言っとるだろうが! バカモンが!」
そう言われて父親は、バツが悪そうに黙ってしまった。好太郎少年は完全に怯えてしまった。普段は優しい祖父と、調子の良い父親からは想像もできない姿だったからだ。
「そんな話は後にしな」
見かねたのか祖母が割り込んできた。祖母の手には鍵が握られている。
「女々しいことを言ってんじゃないよ。準備しな」
祖母が放った鍵を父親が受け取り、納屋の方に走っていく。
祖父はそれを見送り、それから好太郎の方を見ると、
「ばあさんに事情を聞いておけ」
そう言って家の奥に引っ込んでいった。
「ビビってんじゃないよ」
急な事態におたおたしている好太郎少年に、祖母はそう言って、荒々しく手招きをした。
いつの間にか、食卓にはスイカと麦茶が用意されていた。
* * *
祖母が語ったところによると、その女は妖怪のたぐいであるという。名さえ分からぬ異様な姿のその妖怪は、山で遊ぶ子供を狙い、かどわかしていたのだが、ある時村人たちが総出で囲んで棒で殴り、祠に封じたのだという。
「だけどしぶといやつでねえ。少し祠を壊すとすぐに這い出してきて、子供を狙い出すんだ。昔は村の若いものが総出で囲んで棒で叩いていたもんだが、だんだん力をつけて、ずる賢くなったし、村からも若いもんが減っちまった。だから今では機関銃でやっつけてんのさ」
「でもさ、機関銃なんかどこから持ってきたの」
「ああ。まあ、そのへんからちょっとね」
「泥棒してきたの?」
「違うよ。力なきものは奪われても仕方ないんだよ」
「そうだよね」
「ああ……じいさんの言ってることを気にしてんなら大丈夫だよ。あの女は昔も出たと言ったろ。あれは爺さんが祠をブチ壊したからさ」
「そうなの?」
「そうさ。二度やったんだ」
「二度」
「一度目は助けられっぱなしでいいところがなかったから、今度こそ自らの手でぶち殺すとか言ってね。ま、それだけじゃないさ。警察署に火をかけたり、ヤクザを襲ってバッジを集めたり、女をさらって犯したり、それを取り返しに来た男をボコボコにして犯したり……まあやりたい放題やってたのさ。じいさんがああいう風に言うのはね、あんたや父さんが大事だからだよ。だからあいつをぶち殺して安心させてやりな」
「わかった……あれは何なの?」
「知らないよ。ぶち転がして埋めて祠を置いてやれば封じられる。それだけさ」
「なにか、恨みを持ってるとか……」
「そんなこと気にしてどうするんだい。人生は奪ってぶち転がすか、奪われてぶち転がされるかだ。事情だの恨みだの、そんなことを言うのは弱者だけだよ」
「じゃあ……あいつはどうやったら死ぬの」
「いい質問だ」
そう言って、祖母は彼にも使えそうな武器の扱い方を教えてくれた。それは、実際には豆鉄砲のようなものかもしれなかったが、彼はそれでずいぶん自身がついた。
「おばあちゃんにはこの肉体があるからね」
祖母はそう言い、2メートルを超えた筋肉もりもりの巨体を震わせて笑った。
「じいさんもこの肉体で手に入れたんだよ」
どうやって、と、彼は尋ねなかった。ただ、ばあちゃんはすごいんだな、と思っただけだった。
そうしている間に、父親は蔵から持ってきた重火器を据え付け終わっていた。祖父は村にある寺の住職を連れてきた。
「それじゃ、後始末はおまかせします」
「うむ、うむ、頑張りなさいよ。仏の道を忘れないように」
住職を縁側に座らせると、祖父は蔵から、曽祖父が使っていたという刀を持ち出してきた。戦争で使われ、多くの敵兵の血と、それ以上に多くの無辜の民の血を吸ったという刀だった。
「ケヒャヒャヒャヒャ! 久しぶりの娑婆だ! 血が吸いてェ! 血が吸いてえなァ! ケヒャヒャヒャヒャ!」
刀をペロペロ舐めだした祖父をチラと見て、それから祖母は山の方を見た。
「逢魔が時だ」
山の影に消えつつある夕日を好太郎少年も眺めた。昼と夜の境、この世とあの世が交わる時間。来るのか、今、この時。小さな拳銃を握りしめ、好太郎少年はすがるように祖母を見た。
祖母の首が、宙を舞っていた。
いつ、どこから現れたのか、昼間自分を追ってきた女がそこにいた。祖母の首を叩き落したのであろう手刀が、鮮血に染まっていた。
* * *
「てめえーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
父が叫んだ。山から来るものだとばかり思って据え付けていた火器は使えない。父は拳銃を抜き――抜こうとして、弾丸のごとく伸びた女の腕に胸を貫かれて絶命した。
「ケヒャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
祖父が駆けた。疾い。老人とは思えぬ速度だ。だが、相手はなお早かった。素早く伸びた腕がムチのように祖父の腕をしたたか打つ。苦痛だけなら祖父は耐えたろう。だが、その一撃はたやすく、祖父の腕をへし折った。苦悶を漏らす暇もなく、腕はしなり、今度は祖父の頭を打った。それで終わりだった。首を折られた祖父の体は横に一回転し、どさりと地面に落ちた。
好太郎少年は……動けなかった。頭が真っ白になっていた。それを見ながら女が笑う。好太郎少年の、恐怖の涙がうまいとでも言うように。
「やれやれ……」
その言葉で好太郎少年は我に返った。住職だ。祖父が連れてきてくれた住職だ。いけない、このままでは彼も殺されてしまう。だが、心配に反して住職は落ち着き払っていた。
「しょせんは老いぼれと、都会に出ていった軟弱者か……。火に頼り、銃に頼り、仏の道を忘れおって」
住職が立ち上がり、法衣を脱ぐ。ああ、その肉体は。なんという鍛え上げられた筋肉。見ているだけでもわかる。密度が違う。己の人生すべてを修業に捧げた時、人はこれほどの域に至るのか。
「仏道の第一、即ち、
裂帛の気合。地を蹴った住職を、女は迎撃しようとする。だが、その動きはあまりにも、あまりにも遅い。ただ敵を殺すためだけに研ぎ澄ませた住職の拳の前では、人をいたぶり、なぶるための拳などは。
交錯、そして、衝撃。女の体が吹き飛び、生け垣へと突っ込んだ。住職は少しの間、油断なく女を見ていたが、やがて構えを解くと好太郎少年を見て言った。
「お前も所詮都会のガキよ。虫取りをしていようと、山を駆け回っていようと、軟弱な都会のガキにすぎぬ。都会に戻り、法律でも守ってせせこましく――」
「ホォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!」
その声を認識したのが先だったか、後だったか。
好太郎少年に説教をしようとしていた住職の体が吹き飛び、家に突っ込んだ。それをやったのが女の体当たりだったのだと理解するより早く、女が動いた。
「ホォッ! ホォッ! ホォッ! ホォッ! ホォォォォォォォォォォォォォォッ!!!」
叫びながら連打される拳。伸びた腕が住職のいるだろうあたりを貫くたび、白い手が赤く染まっていく。勢い余った腕が祖父母の家を破壊していく。それは、時間にすれば一分くらいだったのかもしれない。だが、好太郎少年にとっては、一瞬のような、永遠のような、時がなくなってしまったかのような時間だった。
やがて、家がきしみ、崩れると、女は拳を振るうのをやめた。そして、腕を伸ばして好太郎少年の足を掴み、叫ぶ暇も与えず、跳んだ。
* * *
「それ以来、祖父母の家には行けなくてね」
「いやいやいやいや……その前に、どうやって助かったんです? そんな化け物から。連れ去られて大丈夫だったんですか?」
「大丈夫じゃなかったよ。だから今ここにいるんだ」
その意味を理解するまでに、少し、時間がかかった。
「つまり……あなたは連れ去られてここに来て、まだ帰れていないと、そういうことですか?」
「そういうこと」
好太郎氏はそういって肩をすくめた。
神隠しされた先は平行世界――と、言葉にしてしまえば陳腐な話だ。
つまらない作り話と断じてしまっても良かった。なにぶん、あまりにも荒唐無稽な話であるから。
ただ、その話を語る好太郎氏の言葉が、私には妙に生々しく、真に迫ったものに感じられて、そのせいで私は、この話を全くの作り話とも言い切れずにいる。
「やっぱり、帰りたいですよね」
そう言った私に対して好太郎氏は言った。
「いや、帰りたいというよりは、あの女にもう一度会いたいんだ。ねえ、人間の努力を圧倒的な暴力で蹂躙する化け物っていうのはさ……」
いいよね、と言って、にやり、と好太郎氏は笑った。
その表情は、畏怖でも、憧憬でも、礼賛でもなく、
性欲であるように私には感じられた。
* * *
聞いた話だ。どんな話かと聞かれても困るが、強いて言えば、人間が一番怖いという話だ。
聞いた話だ 鈴北るい @SuzukitaLouis
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