凡人~何もかも全くもって平均な私~

阿村 顕

凡人

身体中が、痛い。

 関節を曲げると、ギシギシと音を立てて手足が外れてしまうのではないかと不安になるくらい、痛い。

 錆ついて固まったかのように、動きづらい関節。痛っ。頬骨も、痛い。そして、硬い。頬に感じた硬さが全身に広がっていく。身体が感触を漸く思い出したらしい。

 あれ? ここは、何処? 今何しているんだっけ? あれ? 私、何していたんだっけ?

 頭に靄がかかったみたいに思い出せない。覚えている事といえば…。

 そういえば、仕事帰りに寄ったコンビニ、おでん始まってたなぁ。思わず大根二つと糸こんにゃくとたまご、あと何買ったかな…。そうそう、牛すじ! つゆは具が浸るまで入れてもらって、薬味は柚子胡椒! コンビニのおでんってなんであんなに美味しいんだろうか。見かけると必ず買っちゃうんだよね。絶対つゆまで絶対飲み干しちゃう。

 あれ? おでん、食べた記憶が無い…。

 コンビニを出た後、いつもの角を曲がった先にアパートが見えて…。それから…。

 ああ、そうだ! やっとの想いで階段を上った。自分の部屋のドアの前で鍵を取り出して、差し込む。ドアノブを回してから…。

 あれ? その後どうしたんだっけ? 

 記憶が、途切れる。

 はっ、もしかして…。

 勢いよく両手で床を押す。

 痛ったぁ~。首が動かない。寝違えている。辺りを見渡すとそこはなんとまあ、見覚えのある、ありすぎる、自宅のリビング。そして、机の上に置かれたおでん。

 やっ、やって、しまった―。

 完全に寝落ち。最悪。まって。今何時?

 慌てて立ち上がり、ズボンのポケットからスマホを取り出す。ディスプレイに四時四十六分の文字が浮かび上がる。

 ああ、よかった。家を出るまで、まだ3時間もある。ほっと胸を撫でおろすと一気に全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。我ながら忙しいやつだ。

 なんだ? 手のひらから感じる床から、やけに弾力を感じる。フローリングだから硬いはずなのに、なぜ?

 そっと床から手を放して、見つめる。何かがペタッと手のひらに、くっついている。

 鞄に入れたまま忘れていたプリントみたいな折り目がついたそれは茶色く、土のようなもので汚れていた。なんだか汚い。

 くっつき合っているそれを、めくる。ペリペリと音を立てそうな感覚がした。広げるごとに元の形状の記憶を思い出しているようだった。

 もしかしてこれって…。

 コットン⁈

 足がもつれて転びそうになりながら、急いで洗面所に向かう。鏡を覗き込むとそこには、見るも無残な光景が広がっていた。

 ヨレヨレの汚らしいファンデーションがこびりついた肌。詰まった毛穴。如何やら辛うじて、ポイントメイクは落としたらしいが鏡に映るゾンビのような血色感のない顔は、今日の肌の治安は最悪だという現実を決定事項にしてしまった。

 ああ、憂鬱。なんだか無性に腹が立って、握りしめていたコットンをゴミ箱へ叩きつける。

 クレンジングを手に取り、擦らないように優しく顔全体に馴染ませる。鼻と顎はクルクルと円を描くように撫でて、少しでも毛穴がマシになるよう念じておく。そのまま服を脱ぎ棄て、浴室のドアノブに手をかけた。

 クレンジングを乳化させるため、シャワーのお湯を両手に溜めて顔にかける。そしてシャワーヘッドを手に取り、全身を洗い流す。

 ああ、湯船に浸かりたかったなぁ。一人暮らしを始めてからは「ゆっくりバスタイム」というのがめっきり少なくなってしまった。今回のように寝落ちしてしまったり、湯舟を洗う気力がなかったりで、ほぼ毎日シャワーでチャチャと済ませるようになった。嫌な変化である。

 あー。仕事辞めたい。入社四年目にして、限界を迎えている。社会人になりたての頃は楽しかった。初めての一人暮らし、初めての仕事、初めての給料と初めてづくしの日々に心躍らせていたが、三年経った今となっては、もう疲れた。代わり映えの無い日々が少しずつ苦しくなっていくだけ。

 一日の大半の時間を職場で過ごし、帰ってきたら疲れ果てて寝る。家賃と最低限の生活費でほぼなくなる給料。辛うじて生きているだけの生活にやりがいや価値なんて見出せるわけない。辛い。

 残暑が厳しいとはいえ、シャワーを止めると寒気に身体を蝕まれる。ぞわぞわっと全身に鳥肌が立つ感覚に襲われる。

 寒さから逃れるために、大急ぎで肌の上に泡を滑らせる。手で触れるとより一層、鳥肌によって毛が逆立っているのが分かる。指の腹で地肌へもみ込むよう洗うと、更に泡立ちが良くなった。

 ああ、それにしても寒い。寒すぎる。朝ごはんは絶対おでんを温めて食べよう。そう、心に決めた。


 今日はどれにしようかな。

 ドレッサーの上で綺麗に整列しているリップを見つめながら、私は真剣に悩んでいた。

 案外支度がスムーズに進み、時間が余ってしまった。こういう時はゆっくり丁寧にメイクをするに限る。

 この間買った新作にしようか、それとも艶感が最高の水光ティントにしようか。いや、やっぱり気分が落ち込んでいる時はこれしかないでしょ!

 くるくると回転しながら顔を出した一番お気に入りのテラコッタブラウンは私の心を弾ませる。

 目の前の鏡にキスをせがむように顔を近づけ、一塗。じゅわっと色づいて艶を纏う唇。

 ああ、可愛い。

 自然と口角が上がる。

 唇から瞳へと視線を移すと、鏡の中にあの日の優子ちゃんがいた。

 目が、合う。

「特別だったら、よかったな」

 今なら痛いほど分かる。あの時の彼女に、私も追いついてしまった。

 いつだっただろう。

 自分が特別じゃないと気付いたのは。


 優子ちゃんは十五歳差の母の妹。私の方が母より彼女との年齢差が少なかったからか「叔母さん」というよりも「お姉ちゃん」という認識だった。

 母の実家は隣町で、簡単に遊びに行ける距離にあった。母の実家のことを「優子ちゃんの家」と呼ぶくらい、彼女のことが大好きだった。近所の公園や体育館、デパート、映画館…。彼女が行くところには何処にでも、何処までも、ついてまわった。それはもうしつこくてしつこくて、洗面台の水垢よりもしつこく彼女を追いかけ回した。

 見かねた母は私を叱っては、優子ちゃんに謝った。不貞腐れた私はというと、慰めてといわんばかりに彼女に抱き着くのだった。

 こうすれば、彼女は温かい手のひらで包み込むように私の頭を撫でてくれる。撫でてもらった部分から、ふわふわとした心地よさが広がっていく感覚が大好きだ。

 大好きな感覚に包まれたままこっそり顔を上げるといつも、眉毛をハの字にした申し訳なさそうな表情で優子ちゃんを見つめる母の顔があった。

 そんな母とは対照的な微笑みを浮かべながら「私も糸ちゃんと一緒に行きたいと思っていたの!」と彼女は口にするのだった。

 

 小学校という狭い箱の中で高学年になり、自分はもう大人だと自信に満ち溢れていた、あの頃。大人と呼ぶには行き過ぎたくらい正しくて、知らないことが多すぎる余りに屈強な精神の持ち主だった、あの頃。私は無敵だった。

 相も変わらず優子ちゃんの家に入り浸っていた暇な私とは違い、二十をいくつか過ぎた彼女は多忙だった。遊びに出掛ける際に昔とは違って、連れて行ってはもらえなくなったが駄々をこねたりはしなかった。

 だってもう大人だから。そんな子供っぽいことはしない。

 万物は流転するがそれでも幼い頃と変わらないこともあった。優子ちゃんの優しさだ。

 私はなんと家の中では幼い頃と変わらず、後ろをついてまわることを許されていたのだ。数行前の「自分はもう大人だ、子供じゃない」なんて主張はほっぽり出して、私は片時も彼女の傍を離れなかった。

 「もう大人だ」なんて意地になっている内はまだまだ子供で、いざ大人になった時に「自分は子供っぽい」などとほざくのがどうやら人間の性らしい。ああ、面倒くさい。

 そんな私に対して嫌な顔一つせず構ってくれていた彼女の心の寛大さが、今なら苦しいほど理解できる。自分の失態を思い出すだけで羞恥心に押しつぶされて、苦しい。物理的にも精神的にも、心苦しいのだ。

 もしそんなしつこいやつにつき纏われたのが私ならば、奇声を発してカーペットの上を転げまわるだろう。彼女の優しさのお陰で、そんな大それた事件は今日まで一度も起こらずに済んだ。ありがとう、優子ちゃんの寛大な心。

 準備中の忙しい彼女へ特に、意味のない連絡を頻繁にしてくる男のように纏わりついたのには、私なりに理由があった。

 本当に本当に、大好きだったのだ。

 メイクをする優子ちゃんが。

 大好きな優子ちゃんを更に大好きになる瞬間。

 鏡に入り込んでしまうのでは⁈ という勢いで覗き込む私に、優子ちゃんは一つ一つ丁寧に教えてくれた。

 下地で赤みや凹凸を消し、ファンデーションで滑らかな肌に仕上げる。まるでピクシーダストのようなフェイスパウダーを顔全体にブラシで撫でつけると一気に透明感が増す。

 メイクが進むごとに変化していく様は、まるで魔法のようで好奇心が抑えられなかった。

 

 日曜朝に放送されている戦うヒロイン達をご存じだろうか。多くの少年少女を虜にするそのアニメが、例にもれず私も大好きだった。

 中学生くらいの少女達がキラキラでぴかぴかのステッキやコンパクトを用いて呪文を唱える。光が弾けると共に髪の毛の色や形が早変わり。衣装はフリルとリボンがふんだん使用してある憧れの装い。あんな素敵な服、お母さんは絶対に買ってくれない。

 特にお気に入りだったのは、メイクをするシーンだ。何度も何度も巻き戻しては魅入っていた。

 撫でるだけで変化する瞼の色。目を開くと瞳が輝き、ふさふさのまつ毛が目元を飾りつける。頬を叩くと血色感に溢れ、唇には艶やかな紅が引かれる。

 そして、美しく着飾った少女達は最後に必ず、微笑む。

 優子ちゃんもそうだった。


 メイクが終わり、顔全体に化粧崩れ防止ミストを振りかけた後、彼女は鏡に向かって愛おしい眼差しを向ける。そして口角を上げてにっこり。

 鏡の中の彼女は妖艶で、目が離せない。

 透けるように白い肌に、その肌の内側からじゅわっと色づいたような頬。ふさふさのまつ毛には程よいカーブがかかり、涙袋を控えめに彩るラメは瞳に輝きを与えている。自然なグラデーションの眉毛にかかる前髪はアイドルさながらのセットが施されており、コテで巻かれた栗色の髪の毛はとても柔らかそうだ。

 

 テラコッタブラウンの唇の、口角が上がる。

 微笑む、優子ちゃん。

 目が、合う。

 

 はっと我に返る。つい、見とれてしまっていた。いつもとは違う、透けるように茶色く輝く瞳に吸い込まれる。

「…綺麗」

 口の中から思わず滑り出した言葉が、静かな部屋を小さく揺らした。

「優子ちゃん、お姫様みたい。すっごく、すっごぉーく、かわいい!」

 当時の私にとって、最大級の誉め言葉だった。本当は戦うヒロインを思い浮かべていたのだけれど、まだそんな子供っぽいものが好きだなんて思われたくなかった。今考えると着飾っていて綺麗=お姫様というのも、メルヘンチックで十分子供っぽいが。

 きょとんとした不思議そうな顔をした後、優子ちゃんは下を向いた。そして…。


「あははははははっ。あーははっ。あはっ」

 

 空気が凍り付いた、気がした。

 こんなにも大笑いをしているにも関わらず、何故だか彼女から虚しさを感じた。お腹を押さえながら苦しそうに笑う優子ちゃんは、目の淵に涙を浮かべていた。

「ごめんね。びっくりさせちゃったね」

 如何やら謝らせてしまうくらい、驚いた顔を私はしていたらしい。あまりの出来事に感情の処理が追い付かなかったのだ。

 頭を撫でる手のひらから何故か、普段は感じない切なさが伝わってくる。

「ふふふっ。実はね…、悪ーい魔女の魔法のせいで糸ちゃん以外には綺麗に見えないの。だからね、私が美しいことは糸ちゃんだけの秘密だよ」

 いつもなら「子供だと思ってそんな冗談言って」と怒っていた。けれどもこの時は、何も、何も…。言えなかった―。

 優子ちゃんがあまりにも寂しい笑顔を、浮かべていたから。


「特別だったら、よかったな」

「そうだったら…」

 言葉は口の中へ、消えていった。


 小さい頃は何にでもなれると本気で思っていた。十一歳になったら魔法学校からの入学案内が来ることを覚悟していたし、中学生になったら喋るぬいぐるみみたいな妖精が空から降ってきて、不思議な力で悪と戦うことも視野に入れていた。

 アクシデントによって欠員が出てしまったドラマの撮影現場の前を偶々通りかかって声をかけられ、あれよあれよという間に人気女優になるかもしれない。

 街を歩いていたら「君はスターの原石だ。俺がトップアイドルにしてやる」なんて強引に芸能界入りさせられ、四苦八苦しながらも国民的アイドルとして多くの人を笑顔にするかもしれない。

 実は超大金持ちと血縁関係があって連れて行かれた屋敷で運命の出会いを果たす。王子様みたいな人と恋に落ちるかもしれない。

 しかし現実は悲しいほどに、平凡だった。私の「夢」はいつしかすべて「妄想」として処理されることとなった。

 魔法学校からの招待状は届かなかったし、妖精と出会えないまま二十代後半に差し掛かろうとしている。ドラマの撮影現場なんてお目にかかったことも無ければ、街で声をかけてくるのは怪しい勧誘くらいだ。

 よく考えたら、親戚はみんな県内にいるし両親どちらともそっくりな部分があるため、如何やら王族の隠し子を匿っている線もなさそうだ。この中では比較的実現可能そうである、運命的な恋に落ちることすらできていない。

 残念ながら誰からも何からも選ばれなかった平凡な私は、平凡に進学して、平凡な仕事に就いて、よくある量産型の平凡な服を着て、平凡な顔で、平凡な呼吸を積み重ねながら生きている。

 何もしなくても選ばれるような存在ではないことにもっと早く気付いていれば、私も特別になれたのだろうか。大それた夢を妄想と呼ばなくても、よかったのだろうか。


「キーンコーンカーンコーン。キーンコーンカーンコーン」

 終業チャイムが鳴り響く。

 なんと今日は奇跡的に、この資料を確認したら帰れる。ほぼ定時上がりだ。

 スキップしたくなる衝動を抑えて、早足でロッカーへ向かう。今日は絶対に湯船に浸かろう。近くの銭湯に行くのもありだな。

 自動ドアが開くと、一気に風が吹き込んでくる。退勤時の空が明るかったのは、いつ以来だろう。駅までの足取りも軽くて軽くて。このまま飛べてしまうのではと思うほどだ。

 窮屈な満員電車すら「人の温かみを感じる」なんてポジティブ思考に変換できるくらい、気分がいい。そうだ、久々に自炊しようかな。普段は面倒くさいのだが、なんだか今日は無性に料理したい気分かも。

 そうは言っても、料理自体苦手なため、作れるものは限られている。簡単で美味しいものがいい。今日は昨日までと打って変わって肌寒いし…。こんな我儘な要望を全て叶えられる料理はそう、鍋しかない!

 スーパーで買い物をするために、一駅前で降りる。この辺りに来るのは久しぶりだ。一人暮らし始めたての頃は妙に張り切って自炊に取り組んでいたから、よくこの道を通ったものだ。仕事が忙しくなったことと料理を楽しいと思えなかったことが相まって、いつの間にか来ることもなくなってしまった。

 まあ、昔から食への興味が薄いタイプだったのにも関わらず、新生活に浮足立って始めた料理だ。初めから長続きする要素が少なすぎる。当然の結果と言えよう。

 あれ、こんなところに公園なんてあったっけ? ふと、目に入ってきたそこは新しくできたにしては妙に古ぼけていて、何処か懐かしさを感じる。

 この道を使わなくなって三年は経っているから、記憶が曖昧になってしまっているのかもしれない。

 小さい頃、よく優子ちゃんにブランコ押してもらったな。思い出と寄り添うように、ブランコへ吸い寄せられる。優子ちゃん、今何しているんだろう。

 腰を下ろすとギーギーと音を立てて、前後に揺れ動く。足を軽く屈伸させ、ゆらゆらと気持ちのいい振動に身を任せる。赤く染まりだした空を見上げているとなんだか、すごくノスタルジックな気分になる。

「お嬢ちゃん」

 皴上がれた声が、揺れる。振り返るとそこにはみすぼらしい格好の老人が立っていた。眼を見開き、唇をわなわなさせながらこちらを指さしている。人に向かって指を差すなんて、失礼な老人だ。

「お前、俺と同じだろ?俺の子か?」

 初対面の人に向かってお前って…。本当に失礼な人。ん? 今なんて?

 ¬―は?

「似ている。俺とお前は似過ぎている」

 何を言っているんだ、こいつ。老人がぐっと顔を近づけてくる。うっ、臭い。獣臭で鼻が曲がりそうだ。近くで見ても、顔の造形で似ている部分は全く見つからない。

 それに私は、父博隆と母桜子の間に生まれた一人っ子。母子手帳だって、へその緒だって見せてもらったことがある。生まれたての私と父のツーショット写真もある。

 何より私はピックリするくらい両親に似ているのだ。目元は父と全く同じにみえるし、鼻と口は母に瓜二つ。顔の輪郭は父で、髪質や色味は母。いや、逆だったかな。まあ、とりあえず共通点を上げ出したらきりがない。祖父母や親戚、両親の友達から度々、どちらの方に似ているかという論争が起こるほどなのだ。

 見る人によって父親似か母親似かはまちまちではあるが、父親似だと言われる回数も多いため、母親の不貞があったとは到底思えない。血が繋がっていない方が不思議なくらい、私は父と似ているのだ。

 本当になんなんだ、こいつは。私は臭い空気を吸い込んで、吐き捨てるように言った。

「似ていませんけど。全然違うじゃないですか、顔。あと父というには年が離れすぎじゃないですか?」

 しゃがれた老人はきょとんとした表情をしていた。なんだその顔。そんな顔したいのはこっちだよ。

「アッハッハッハ」

 突然、大声で笑いだす。

 怖っ。頭のネジが外れた人だったんだ。あーあ、無視すればよかった。失敗した。

 老人はひとしきり笑った後、スッと表情を戻すとこちらに神妙な眼差しを向けた。

「造形云々、まあつまりこの地球上でいうところの姿形の話ではない。お前と私が似通っているのは、もっと核。魂の形だ」

 …はぁ? やっぱり相手にしちゃいけない奴だった。スピリチュアルな話をぶっこんでくるなんて百二十パーセント胡散臭い勧誘に違いない。あーあ。対応、間違えた。今奇声を上げて走り出したら、もう話しかけてこないかな。

 どうにか隙をついて逃げられないかと思考重ねている私に向かって、老人は言葉を続ける。

「お前、自分は他人と違うなと感じたことはないか?」

 何言ってんだ? このジジイ。的外れもいい所である。私は本当にごく普通。特別ではないということにかけてはかなり自信がある。

 テストを受ければ必ず平均点ぴったりだし、マラソン大会だってぴったり真ん中の順位でゴールする。

 恋に落ちたというほどの大恋愛はまだないけれど、なんとなくで十六歳の時付き合って彼氏はできた。今までの歴代彼氏は四人。人並みの人数だ。まあ、今はいないんだけどね。仕事もごく普通の事務職。年収は二十代女子の平均、三百二十万くらい。平々凡々といえば私、私といえば平々凡々といえるくらいの普通っぷりだろう。

「お前、順位や平均値があるもの、つまり数値化できるものはぴったりど真ん中だろ」

 なんでそれを? こいつが…、知ってる?

「その目ん玉の開きよう、図星のようだな。俺らは目立たないように、バレないように、本能でその星の擬態する生物内の平均を、平凡を、目指してしまうんだ」

 その星―? 擬態?

「何の気なしに生きていて、必ず真ん中の順位だったり、平均だったりするの、おかしいと思わないか? それこそ、この星でいう『普通』じゃない。まあ、地球の、いや日本でいうところの『普通』という言葉を借りれば人間には得手不得手があるのだから、数値にばらつきが出るのが『普通』だろうな」

 私は只々凡人で…。特別じゃなくって…。優子ちゃんがそうだったように、私も大人になるごとに気付かされて…。

「あとお前、両親どちらにもかなり似ているだろ。おっ、さすが。いい反応だな。顔に出やすいタイプは愛嬌あるもんな。表情豊かで分かりやすい方が安心感を持たれて好かれる。上手く寄生できているな、お前。ああ、すまんすまん。話が逸れた。両親なんて赤の他人同士がくっつくだろ。長年寄り添うと食べるものや見るもの、生活リズム等々、パーソナルな部分が同じくなってくるから似るとも、同調効果で癖や口調が似てくるともいうけれど、それはあくまで雰囲気の話だ。顔を形成するパーツが全く同じ形になるわけではない」

 思わず唾を飲む。

「にも関わらず、瓜二つだったりするだろ。目や鼻、或いは口。輪郭、髪の生え際、耳の形。お前を構成するすべてのパーツが似ている。いや、似すぎている。おかしいだろ。父と親しい人間には父親の女性版だと言われ、母と親しい人間には母親の若い頃を見ているようだと言われるなんて容姿」

 何故それを…。何故、知っている?

「『容姿が似ている』は親近感をもたらす最大の武器だ。家族としての愛され具合が格段に上がるのは勿論、それが有効に作用するのは身内だけじゃない。役所や銀行の窓口で知っている人に対応された時と知らない人に対応された時の態度が露骨に違うやつ居るだろ。知り合いの面影がある、それだけで父母と親しい関係者からお前を通して父母との思い出を、追憶するんだよ。本当によくできているな、俺らの種族は。自分を相手が視たいように魅せる能力が備わっているんだからさ」

 平々凡々といったら私で…。私といったら平々凡々…なのに。何だ、この妙な説得力は…。でも私、母から生まれているし、そんなはず…。

「そしてお前と俺が同じだという証拠にもなる。お前、俺の嫌悪感を持っているだろう。俺の容姿の能力が効いていないことと自分の地位を脅かす存在であることへの同族嫌悪」

 やめて…。もう、やめて。

「俺たちは胎内に宿った赤子に寄生する。その生命を奪って、本当の子供のように振舞うんだ。そして人間でないことがバレないように目立つことを避けながら万が一バレてし待った時に備える。あの手この手で愛されようとするんだよ。愛着は判断を鈍らせるからな」

 そんな…。私は、私は…他人の人生を奪って、ここにいるの? うそ、そんなつもりじゃ―。

「そして、最後に一番重要なアレについてだ。きっとアレの話を聞いたらお前の中の懐疑心は俺への絶対的な信用へと変化を遂げる」

 自信満々に口角を上げた老人に圧倒される。舌が張り付いて、息が苦しい。

「お前…」

 ああ、唇が今にも割れそうだ。額を汗が伝うのをありありと感じる。

「お前の身体には…」

 心臓がうるさい。肋骨を突き破って今にでも出てきてしまうのではと不安になるほど打ち付けられている。気がする。

「尻尾があるだろう?」

 は…? 

 ハァーーー? なんじゃそら。真に受けて損した。人ってこうやって詐欺に引っかかるのか。

 大多数に当てはまることをそれっぽい言葉でコーティングして、あたかも相手のことを何でも知っているかのように錯覚させる。凄いテクニックだ。

 ブランコから立ち上がり、公園をあとにする。さっきまで法螺話を長々と語っていたクソジジイがこちらへ向かって何か叫び続けているが無視だ、無視。きっと壺か洗剤か、何かは分からないが売りつけることが出来なかったから騒いでいるのだろう。

 はぁー、料理熱が急速に冷めていくのを感じる。すっかり赤に染まった空が夜と溶けあい始めている。時間をかなり浪費されたことが非常に腹立たしい。あーー、辞めだ辞め。コンビニでおでん買って帰ろ。


「あんの、クソジジイ」

 感情が抑えきれず、思わず口から悪態が漏れる。折角久々の湯船だというのに気分は最悪だ。

「はぁ? しっぽぉ?」

 怒りが収まらない。

「尻尾なんて、尻尾なんてさぁ」

 本当にムカつく。折角早く上がれたのに。無駄なことに時間を使われた。イライラする。そして、信じ始めていた自分が一番ムカつく。

「当たり前にみんなについてんだろうが」

 勢いよく立ち上がると浴槽のお湯が溢れる。バスチェアに腰を掛け、ボティソープに手を伸ばす。腕、胸、腹、背中の順で肌の上に泡を滑らせる。今日のイライラを落とすように優しく丁寧にしっかりと洗う。ボティソープを更に二ブッシュ。尻尾にもみ込んでっと。毛を掻き分けて指の腹で地肌に触れる。

 全く、尻尾なんて人間の大人になった証でしょうが。お母さんにもあったし、優子ちゃんだって十九歳くらいで生えたって言っていた。

 小さい頃は早く尻尾が生えて欲しい、なんて思っていたっけ。「大人になりたいー!」って。いざ生えてきてみたら洗う手間が増えるし、夏場は蒸れるしで全くいいところなかったけど。最近は結構脱尾する人もいるってお母さん、言っていたな。

「あーあ、仕事行きたくない」

 悩みまで平凡。本当に凡人だな、私。

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凡人~何もかも全くもって平均な私~ 阿村 顕 @amumura

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