恋と血潮
小森秋佳
一
「それでは、試験が終わったからと言って気を緩めすぎないように」
担任の味気ない言葉とともに、周りの生徒たちが続々と席を立ち始める。
「高校三年生、受験生としての自覚を持って一日一日を過ごすんだぞ」
新しい学年になってから、これほどまでに聞き飽きた言葉はないだろう。
周囲に習い、僕もリュックを肩にかけて立ち上がる。
四日間に渡って行われた第一回定期考査。今日がその最終日。
外からは早くも、テスト勉強から解放された下学年の部活にいそしむ声が聞こえる。
その声に誘われ――はたまた現実からの逃避か――僕は近くの窓へ近づく。
後輩のはじける笑顔。一年前の僕もこんなんだっただろうか。
「僕らはまだまだ勉強地獄、だな」
誰に言うわけでもなく一人ぼやく。
視界の端には青々と茂った桜の葉がちらついていた。
ひと月前までは桃色の花を咲かせていた春の風物詩は、今や見る影もない。
僕たちのこの一年間も、きっとこんな風に過ぎ去っていくのだろう。
「康生ー。テストどうだった?」
肩越しに自分の名を呼ぶ声が聞こえ、振り返る。
「まあ、普通」
廊下へと流れるクラスメイトの波を掻き分け、祥太がこっちへやってきた。
「はいはい、どうせどの科目も八割乗っているんだろ?俺は知ってるぞ」
「ちゃんと授業聞いてれば、そのくらい普通は取れるでしょ。祥太が不真面目なだけ」
「そんなこと言ってると、そのうち嫌われるぞ」
そう言うと彼は自分のリュックを背負い直し、廊下へと歩きはじめた。僕も後に続く。
「まあ何はともあれ、今年はそんな頭脳明晰、成績優秀の木村康生様と同じクラスになれ、俺は幸せ者でございますよ。去年別クラスで散々だった分、たくさん頼らせてもらうからな」
「はいはい」
自覚はないが、学校の中で僕は比較的成績が良い方らしい。二年前、同じクラスになって仲良くなってから、テストの度に彼に勉強を教えてあげるのが僕らのお決まりとなっていた。
昇降口の前は、僕らと同じように帰路を急ぐ生徒たちでごった返していた。彼らの波を遠巻きに眺めながら、いつものように他愛もない会話を繰り返す。
「でもさ、そろそろ家庭教師雇うなり塾に入るなりした方がいいんじゃない?お金あるでしょ、お父さん、どこかの社長だっけ」
「まあね」
祥太が頬をポリポリと掻く。
「でも、お前に教えてもらった方がわかりやすいんだよ」
「そういうもんか」
「そういうもん。それに――」
昇降口も粗方生徒を吐き出し終わったみたいだ。下駄箱前に出来たスペースに歩みを進める。
「それに?」
「お金かけるところにメリハリつけるのが、金持ちっていう生き物だからな」
彼の手に握られた、汚れ一つない真っ白のスニーカー。朝気づかなかったが、どうやらまた新調したらしい。
彼の自慢げな顔に苦笑しつつ、僕も型の崩れたローファーに履き替える。
昇降口を出ると、暖かな西日が僕らを迎えた。目を少し細めつつ、校門の方に二人歩き出す。
「赤点は?」
「ギリギリ回避できたはず。というか、進級早々成績にヒヤヒヤしなきゃならないなんて、この学校のカリキュラムはどうもおかしいんだよ。受験に使わない教科の勉強をしなければならないなんて、俺はどうにも納得できない。受験勉強受験勉強っていうなら、五月に定期テストなんて持ってくるなってんだ」
「まあ、『自称進学校』だからね」
うちのような高校を、巷ではそう呼ぶらしかった。テストも課題も多く、受験に使わない教科にまで参加を強いられる。だからと言って内職をしようとすれば本気で怒られ、学校に通うことが受験勉強の大きな足枷となっているような、そんな高校。おまけに場所は、栃木のド田舎。
「そのくせ受験へのモチベはみんな高いのがな。旧帝大、早慶上理、マーチ……。先生の口車に乗せられて夢みたいな志望校掲げてさ。うちの進学内訳見たことないのかな。そんな所行けるのはわずか一握りだっつの」
祥太が足を止める。思わず彼に目を向ける。
「でも、俺はみんなとは違う。もっとビッグになるんだ。大企業の社長になって、父さんのやってる会社よりもたくさんお金を稼いでやるんだ」
百八十近い長身。切れ長の目。彼曰く地毛のブラウンの髪。
そう語る祥太の立ち姿はどこまでも輝いて見えた。
祥太が再び歩き始める。先行する彼の背中を見つめながら、僕は自分の将来について考えていた。
自分はこの先、何者になるんだろうか。
みんなには目標がある。志望校を掲げ、それに向かって日々努力している。
祥太だってそうだ。「父親よりもたくさんお金を稼ぐ」。曖昧だけど、立派な夢だ。実家が裕福で負けず嫌いな彼らしい。
じゃあ僕は?僕には何がある?
何もない。
志望校を立てれば良いだろうか。どの大学?どの学部?何にも興味がない。
将来の夢を持てば良いだろうか。――だめだ。これも何にも引っかからない。
幼いころから、言われたことを言われたようにやってきた。勉強しろと言われればしたし、高校も行けと言われたからこうして通っている。それだけで何の不自由もなかった。
でも、この先は、自由だ。誰にも何にも捕らわれない。
不自由こそが僕の最大の「自由」だったんだと、気づいてしまった。
だからこの先が、漠然と、不安だ。
「それにしても、」
こちらの気を知ってか知らずか、パンッと両手を合わせると、彼は僕の方に振り返る。
「定期考査以上に俺が気に食わないのは――座席が出席番号順だってことだよ」
「はあ」
突然何を言い出すのかと思えば。
「いやだってさ、俺二十四番だろ?で、お前は十二番」
「うん」
他の学校もそうだろうが、定期考査などの重要な試験では生徒はいつもの席ではなく、名前順に振られた出席番号で席に座ることになる。
「そうなると、俺の後ろの席は二十五番になるわけじゃん」
「紗英か」
なんとなく、祥太の言いたいことが分かった。
「そうだよ、椿木ちゃん。後ろに人がいないとさ、妙にスース―するじゃん?テスト中だとなおさら」
「そうかもね」
校門を越えたところで、彼はゆっくりと僕の肩に手を回してきた。
「人の温もりを感じられない寂しさ、少し、俺にも理解できたんだ。だから俺、今悲しいんだ。康生が愛しの椿木ちゃんを想う気持ちって……こんなに辛いものなんだな」
「はいはい、わかった」
僕の肩をポンポン叩く彼の手をどかしながらそう受け流す。
「お、ついに認めたな。椿木ちゃんへの恋心」
「ただの相槌。それに紗英とは本当にそんなんじゃないから」
「ホントかなー?俺、こう見えて結構真剣に疑ってるんだよ。近所の、しかも同い年の異性に惹かれ合う二人――ラブコメでは王道中の王道じゃん」
「フィクションとノンフィクションの区別をつけましょうねー」
彼に背中を向けて僕は歩き出す。
校門から右に曲がってすぐのところにバス停がある。最寄りの駅は左に曲がって十分ほど歩いた所。
僕はバス、祥太は電車で通学しているから、いつも校門を過ぎたところで別れていた。
「嘘はいかんぞー」
なおもしつこく祥太が声をかけてくる。
「嘘じゃないよ」
彼のほうへ顔を向け、僕はこう付け加える。
「紗英は、ただの幼馴染だから」
椿木紗英は、三年生になってから学校に来なくなった。
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