第7話「下根太一という男」
低く響く空気清浄機の音を聴きながら、オレは深い息を吐き出した。タバコの煙はゆるりと宙に浮かび、しばらく漂った後でそれに吸い込まれる。その様をただじっと眺めていると、いつの間にかタバコはフィルタの近くまで燃えてしまっていた。
喫煙室の灰皿にタバコを押し付けて、間を置かず2本目に火をつける。メンソールの煙は口当たりだけは爽やかで、ゲロみたいな現実の味を忘れるにはもってこい。だが、その実態はやはり毒に他ならない。じゃあなんでそんな毒を吸ってるのかって話になるが、それは当然辞められる気力がないだけである。そもそもそれがあるならとうの昔に辞めている。要は意志が弱い。それは自覚している自分の弱点だった。
「まーたタバコ吸ってる。やっぱり私と結婚する気、ないでしょう?」
「結婚できてたなら辞めてたさ。出来なかったから今も吸い続けてんだよ」
「詭弁だね。要は意志が弱いんだよ。とにかくキミには強い気持ちがないの。一度でも見せてほしかったな。キミの本気」
「……見せようとはしたよ。でも一歩、遅かった。ごめんな。本当に、ごめん」
「謝ってもらいたいワケじゃあないんだけどな」
「謝って済む問題じゃないってことは、わかってるよ。それにこれがオレの妄想で、ただの願望だってこともな」
ふうん。目の前の彼女はクスリと小さく笑って「そりゃあそうだよね」と呟いた。「私はもういないんだから」と付け加えて。
「妄想ついでにさ、キミの今の一番の願いを聞かせてよ。叶うか叶わないかとかじゃあなくて、純粋にこうしたいって思いを聞かせてほしいの」
「何故?」
「そんな気分だからかな」
これもキミの願望でしょう? そうとでも言いたげな彼女の顔。そうだ、これだってオレの妄想だ。だから。オレは彼女に答えることにする。こんな時にしか言えない自分を恥じながら。
「……そうだな。オレはあの日に戻りたい。あんなことになるってわかってたら、お前をあの店に店長として行かせることはなかったよ。でも時は戻せない。だからオレは、復讐したいと思ってる」
「……復讐? なにそれ?」
「あと一歩なんだ。あと一歩。何が元凶なのか、わかりそうなんだ。元凶さえわかれば復讐だってできる」
「何が元凶なの?」
「それは──」
──────────
「ちょちょちょ! 何してんすか
後輩の声がして、オレの意識は覚醒した。吸い込んだ空気がめちゃくちゃタバコくさい。空気清浄機はフル稼働しているが、タバコの匂いってカベとか服とかにも付くんだよな。ってそうじゃない。オレ、いつの間にか喫煙室で眠り込んでたのか。ヤベーってレベルじゃねーなコレ。
「マジで大丈夫ですかぁ? 最近仕事し過ぎですって下根先輩。明らかオーバーワークですよ」
少しだけ心配そうな顔をしているコイツは、入社2年目の極めて優秀な後輩だ。普通なら店舗に出してアシスタントストアマネジャーやらの現場仕事を覚えさせるのだが、コイツは掛け値なしに優秀。だから初配置での本部勤務にオレが無理やり引っ張った。
目的のためなら多少のルール違反さえ率先してやる才女。オレにはこういう「危険だが優秀」な人間が必要だったのだ。もちろん自分の目的の実現のために。
「下根先輩、何が目的なのか知らないですけど、このままだとマジで死にますよ? 目のクマとかスゴイですし。ちゃんと寝てんですか?」
「寝てるよ、実際ここで寝てただろ」
「いやそれ気絶でしょ。それにフツウの人は喫煙室で寝ないですって」
「オレはフツウじゃねぇんだよ」
「そりゃ見りゃわかりますけど。でもいいんですか、オーバーワークで下根先輩が死んだら、そのポジション私が貰っちゃいますよ?」
「まだ死なねーよ。でもオレが死んだらお前にこの席譲るから、しばらくはオレの右腕として働いてくれよな」
「まぁ、報酬次第ですね!」
ニカリと笑う後輩。コイツには個人的な仕事を頼んでいる。合法じゃあない、グレー、いや思い切り黒色の仕事をだ。
「で、あの件はどうなった?」
「あぁそれですよそれ。下根先輩に報告しようと思って探してたら、こんなとこで寝てんですもん。ビビりましたよ、私の先輩マジクレイジーだなって」
「褒めなくていいんだよ」
「いやカケラも褒めてないですよ。あぁそう、報告です。ウチの店長たちが住む前の住人の個人情報、わかりました。不動産屋のPCに侵入したらイッパツでしたよ」
後輩は手に持ったタブレットを見せてくれる。そこにはある女の子の個人情報が表示されていた。
名前は「
各項目には目立った点もない。家賃滞納もなし、近隣トラブルもなし。だが、ひとつだけ見過ごせない点を見つける。これは……。
「わりとヤバイ橋渡ったんですからね? ま、私にとっちゃ朝メシ前ってヤツですけど、って聞いてます? 下根先輩」
「これ、退去事由が『死亡』ってなってんだけど、やっぱりあのアパートは事故物件てことか?」
「いや、厳密には事故物件じゃないですね。家の中で死んでたら事故物件たり得るんすけど、家の外だと関係ないみたいです。なので次の住人への告知義務もなし」
「この女に関する他の情報は?」
「言われると思って調べときましたよ。なぜ死んだのか、でしょ? 気になるところは。で、名前で検索したら普通にネットで出てきました。地元のニュースにもなってたみたいですね」
後輩はタブレットのページを指で送った。数年前のネットニュースの記事。見出しはこうだ。
『薄暮の悲劇。暴走トラックに高三女子跳ねられる』
──22日午後6時、漆草市炭与町の交差点で、高校生がトラックに跳ねられる死亡事故がありました。亡くなったのは市内に住む高校三年生の富士ユウさん(18歳)。
富士さんは青信号を渡っていた小学生を庇い、信号無視で突っ込んでくるトラックに跳ねられました。全身を強く打っており、救急搬送されましたが同日の午後8時に死亡が確認されました。
富士さんが庇った小学生は無事だったとのことです──。
「……嫌な事故ですねぇ。何の咎もない学生が死んじゃうなんて。神様はいったいどこに目を付けてんですかね? もっと死ぬべき人間は他にいるでしょうに」
「まぁ、同感だな。世の中には早く死んだ方がいい大人で溢れてる。オレもその一人だよ」
「で、なんでこんなこと調べてんです? まさかとは思いますけど、ウチの店長たちの連続失踪事件と関係あるって踏んでんですか?」
「そんなオカルト、あると思うか?」
「いやぁどうでしょねー。私は直接そういう体験したことないけど、ネットには確度の高そうなその手の話は結構ありますからねぇ」
後輩は顎に手を当ててニヤリと笑みを見せる。こういうオカルト話は案外好きそうだ。話が通じそうだと一縷の望みをかけて、オレは後輩に告げる。
「──もし仮にだ。この女子高生の幽霊がいたとして、あのアパートに呪縛霊的な存在で今もいるとして。ソイツが店長達に取り憑いて失踪させてたとしたら?」
「マジで言ってんですか、下根先輩。小学生を助けて死ぬような聖女サマですよ? 闇堕ちするにしても限度ってもんがあるでしょ。それに取り憑いて失踪させるってメリットは? 現世になにかしらの悔いがあったら、人に取り憑いて失踪なんてさせますかね?」
「だから仮にだよ。あくまで仮の話だ。幽霊がいて、なにかしらの原因でソイツが闇堕ちして、人に仇なす存在になってたとして。ソイツを叩けば、これ以上の被害は出ないと思わねーか?」
「ま、映画とか小説とかならそうかもですねー。上手く行けば失踪した人間も戻ってくるかも」
「そこだよ、そこだ。オレはそれに賭けてる。だから同期の
「へぇ、あの阿部さんをね……。下手すれば阿部さんまでやられるかも知れないのに、ヒドイですね下根先輩」
同期の阿部を天秤の片側に乗せても、オレにはやらなければならないことがあった。阿部を騙して悪いとは思っている。だけど、オレにとって反対の天秤に乗っているものは何より大切なもの。
「……実はな、あの店にはオレの協力者がいるんだよ。
「様子がおかしい? まさか、失踪する前段階とか?」
「いや違う。あいつ、何故かディスティニーリゾートに行くために休みを取ったらしいんだ。彼女と行くつってよ。だけどアイツに彼女と呼べる存在はいない。それにだ、」
オレはポケットからタバコを取り出して、それに火をつける。消さずに揺らめく炎を見て、自分の行動が正しいと自己催眠に似た縛りを掛ける。これは正しいことなんだ、と。
「どうやらいるらしいんだよ。阿部にしか見えないそんな超常的な存在が。阿部はそこに誰もいないのに、確実に誰かと会話しているような様子を時折見せるらしい。特にアパートにいる時が顕著でな、遠くから見張ってた倉間は驚いたらしいぜ、その奇行に」
「それ……、すでに取り憑かれてるってことですか? 阿部さんに?」
オレはゆっくりと煙を吐き出した。その煙はすぐに空気清浄機に吸い込まれる。後輩がタバコの匂いに顔を顰めるが、知ったことじゃない。これは覚悟を決めるオレのルーティンだ。
「阿部がナニカに取り憑かれてるかどうかはわからねぇ。後で様子見がてら電話を入れようと思うけど、多分その確率は高いとオレは踏んでる。だからよ、オレは終わらせようと思うんだ」
「お、終わらせるって……」
「そのナニカをオレが殺す。そうすりゃ阿部は助かるし、運が良ければ失踪した店長たちも戻ってくるかも知れねぇだろ? オレはそれに賭けてんだ」
「呪縛霊的なナニカを殺す? いやいやいやマジですか下根先輩、そんなのオカルトですよ? 阿部さんが新生活で不安定になってるだけかも知れないし、もともとそういう人なのかも知れないし、」
「阿部がそんなヤツじゃねーってことはオレがよく知ってるよ。だから呪縛霊的なナニカがいるのはガチだ。そいつを確実に消す。コイツでな」
ポケットから取り出したのは、小ぶりの
特級呪物と呼ばれるコレは、オレが持ちうる能力を最大限に使って手に入れたモノだ。もちろん偽物の可能性だってある。だがしかし、コイツが纏う怨念のような空気は紛れもなく本物だ。
「うぇぇ……、なんですかそれ⁉︎ 見てるだけで気持ち悪いんですけど!」
「本物か偽物かはわからねーけど、触れ込みは『どんな幽霊でも殺せる呪われし刀』だ。手に入れるのに苦労したよ。これを相手に刺せばそこで終わり。だが使用すると自分の寿命が半分減るらしい」
「そんなバカなハナシ信じてんですか? もしガチだったら寿命の半分持ってかれるんですよ?」
「何かを成し遂げようとすれば、それ相応の何かを差し出さねーとな。それでやっと賭けの場に出られるんだ、安いもんだろ」
……異常ですよ、下根先輩。ぽつりと漏らす後輩。なるほど異常か、その通りだ。阿部を騙してエサにして、阿部に取り憑いているナニカを殺す。殺せるかどうかなんてわからない。ただ可能性がゼロでないならこれに賭けるしかない。
掛け金は自分の寿命の半分。安いもんだ。オレはハナから全部掛けるつもりでいる。半分で済むなら文字通りお釣りが出るってヤツだ。
すまねーな、阿部。勝手にお前を天秤に掛けて。だがお前は消えさせない。消えるのはオレか、お前に取り憑いてるナニカか、あるいはその両方か。オレは初めから天秤に乗ってる。それがオレの覚悟なんだ。
「──ありがとな、後輩。お前のおかげで勝負が出来そうだ。オレは今から先回りしてディスティニーリゾートに行く。後の仕事は頼んだぜ」
「いやいやいやサボるつもりですか? 新人の私なんかに仕事全部押し付けて⁉︎」
「サボるんじゃねーよ。これも仕事だ、オレの全てを賭けた一世一代の大仕事だよ。オレぁ絶対に取り戻す。そのためならこの命、全部使っても構わねーんだからな」
ニヤリと笑って自分を奮い立たせる。失敗すれば死。たとえ成功しても寿命は半分だ。だがそれでいい。あいつを取り戻せる可能性が少しでも、ほんの少しでもあるのなら。ここが自分の命の使い所だと、オレはそう思うから。
「──じゃあな後輩。ちょっと夢の国に、単独入国してくるわ」
【羽間さんの第8話に続く!】
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