甲斐の国旅行記 2021年11月10日~11日
コトノハザマ
第1話 諏訪湖~富士見町
未明の信濃路を南へ走る。
左手には大きな湖がある。走っているのは諏訪湖北西の角、天竜川の起点となる釜口水門から、湖の西岸に沿って通る県道16号岡谷茅野線だ。
朝5時という時間のため家々の灯りは乏しく疎らだが、夜景の中切り絵のように暗くあいた湖岸の形は見て取れた。
右手高台には長野道が通り、諏訪湖サービスエリアがある辺りで、丁度諏訪湖南西の角となる。
諏訪湖に別れを告げ、諏訪市から茅野市へと進んでゆく。
暫く進めば、諏訪大社上社周辺に出る。諏訪湖を挟んで対岸には諏訪大社下社がある。
諏訪大社の上下の呼び分けだが、これは方角での上下ではなく都に近い方を上としたものと考えられる。
しかし、諏訪大社の成立当初からそのような呼び分けがされていたわけではあるまい。諏訪大社成立は非常に古く、祭神はオオクニヌシの子タケミナカタであり、諏訪に祭られるようになったのはアマテラスの孫であるニニギノミコト(天孫)から、国を譲れと強要された際に抗い、ニニギノミコトの随身である軍神タケミカヅチに破れ落ちのびてからであるから、殆ど出雲大社と同じタイミングでの成立と言ってよい。
記紀に記載されていることがそのまま史実ではないだろうが、諏訪ではタケミナカタよりも古くから信仰されていたと思われるミシャグジというカミが存在する以上、大和王権よりも古くから神聖な地として畏敬を集めていたことが想像される。
当時は神武東征以前であり、弩のつく田舎である諏訪では都がどちらだとかどちらの社が上が下かもなかったであろう。神武東征後、都が近畿に存した平安末期までの間も、五畿七道の行政区分や街道で考えるとむしろ下社のほうが都に近かったわけで、やはり現在のように呼び分けられたのは政治の中心が関東に移った鎌倉期からなのではないだろうか。
上下の呼び分けの記録が確認できる最古のものは鎌倉期の歴史書『吾妻鑑』で、吾妻鑑の治承四年(1180年)条に「上宮」「上社」との記述があるらしい。
治承四年条に記載されてはいるが、その年はまだ鎌倉幕府成立前、
閑話休題、当時の武士を忍びつつ、車を関東方面へ進めよう。
茅野市を抜け原村、富士見町を国道20号を走り進んでゆく。
左手には天狗岳、赤岳。右手には入笠山。山々に囲まれた谷を進む形となる。そして眼前には富士見町の名のとおり、富士山山頂が見え隠れしている。諏訪湖北岸からも富士山は見えるため、国道20号が通るルートは大きな“見通し”といってよい。
蔦木宿にある道の駅信州蔦木宿にて休憩、出発から1時間が経過していた。
まだ薄暗いものの、駐車場から釜無川を挟んで向こうに迫る山の木々の葉が黄色く紅葉している様子は見て取れた。
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