第2話「ただ残された一輪の」

 イチエは夢を見ていた。

 遠い遠い、遥かなる過去の夢だ。

 そうだと自覚できる、これが明晰夢めいせきむというやつである。

 そして、もう戻れない日々の追憶が語りかけてくる。


『安心しろ、イチエ。ワクチンは必ずいつかできるからな!』

『母さんも父さんも、待ってるからね……イチエ、ううっ!』

『お兄ちゃん、寝ちゃうの? ねえ、ママ。パパも! ねえってば!』


 硝子ガラスの向こうで、家族たちの姿がぼやけて消える。

 周囲で作業しているのはロボットで、先程会ったイチゴのような人型ではない。当時はまだ、タイヤで動く腕だけの機械が主流だった。

 徐々に投薬の感覚が蘇る。

 減圧で隔離された部屋の中、イチエは現実へ戻る眠りに誘われていった。

 それがもう、今は何千年も昔の光景だった。


 西暦20XX年、地球は母なるゆりかごの役目を終えた。

 否、手に負えなくなったのだ。

 人類という忌子いみごを、そのふところいだくことができなくなった。

 乱開発された土地から緑が消え、変わって未知のウィルスがまき散らされた、空気はにごり、海は酸性へと熱くなってゆく。生態系は完全に崩壊し、大自然の摂理せつりは停止した。

 そして、人々はようやく悟った……滅びに自ら行きついたのだと、


 思い出したくもなかった。

 家族の記憶だけに触れたかった。

 そう思いつつも、イチエは今の自分が目覚めた時代へ覚醒する。

 目が覚めると、清潔なベッドで毛布にくるまっている自分がいた。


「ここは……? ああ、えっと確か……」


 ほおを拭って涙を振り払う。

 そうして身を起こし、今度は下着を身に着けていることを確認する。

 その時、それをはかせてくれた少女が姿を現した。

 半開きのドアは電源が届いておらず、向こう側から腕力でゆっくり開かれる。


「おはようございます、イチエさん。具合はいかがですか?」


 よいしょ、と扉を押しのけて、イチゴが現われた。

 微笑ほほえむ彼女の表情は柔和にゅうわで温和で、花の髪飾りも輝いて見えた。

 そのまばゆいばかりの美貌が、ぐっとイチエに近付いてくる。


「ちょっと失礼しますね」

「あ、あの、イチゴ」

「動かないでください……ん、発熱はもう収まったみたいですね」


 不意にイチゴが、ひたいに額を重ねてくる。

 不思議な匂いがして、それが花の香りだと初めてイチエは知った。本物の植物には、どこか安らぐような優しい匂いがあるのだ。知識が初めて経験に繋がった瞬間だった。

 顔の熱さをイチエは、そういう感動だと思い込むことにした。


「よかった、これならすぐに出発できますね。あ、イチエさんの私物を回収してきました。ちょっと待っててくださいね」


 一度廊下に出たイチゴが、ガラゴロとカートを押してきた。

 そこには、なつかしい品々が並んでいた。

 休眠処置を受ける前、イチエが着ていた服や靴、本や端末、音楽ディスクなどである。どれも経年劣化を感じさせず、ともすれば昨日手放したかのような錯覚を感じる。

 イチゴの話では、休眠者の持ち物は保管庫で真空保存されてたとのことだ。


「ありがとう、イチゴ……って、出発? ちょ、ちょっと待って、目覚めたってことは」

「残念ながら、この施設にワクチンは届いていません。というか、数千年の時間を経て、このシェルター自体が崩壊しつつあります。原因は、再生と同時に独自進化した大自然」

「ああ、さっきの。じゃ、じゃあ、え? ま、待って、母さんは……父さんは、妹は? あ、いや、凄い時間が経ってるんだよね、それじゃあ家族もあのあと眠りに?」

「いえ、休眠処置を受けたのはウィルス感染者だけです。イチエさんのようなほぼ無症状の人も含め、このシェルターでは512人が眠りにつきました」


 そう、イチエは実は病人だ。

 症状こそ軽いものの、謎のウィルスを身に宿している。それは当時の医学では治療することができず、またたくまにパンデミックを引き起こして世界に蔓延まんえんした。

 それが終わりの始まりだったのである。

 激変した環境の中で、あらゆる国の人々がシェルターへと逃げ込んだ。

 そこで人類の歴史は停止し、今にいたる。


「……イチゴ、僕以外に生存者は?」

「残念ながら確認できませんでした。他の休眠者のカプセルは、損傷が激しく……それと」

「それと?」

「シェルターに人の生活していた痕跡がありません。世代を重ねて人間が生き残ってるはずなのですが」

「なにかあったのかな」

「記録も途絶えていて、ログを追うことができませんでした」


 イチエは胸に手を当て、深呼吸して心を落ち着かせる。

 そんなことで未熟な精神がしずまるとは思えなかったが、気を抜けばパニックで泣き叫びそうだった。一人だったら確実に、取り乱していただろう。

 なんとか平常心を脳裏に呟くイチエを、そっとイチゴは抱き締めてきた。

 白いボディは金属の冷たさで、尖った指の手は大きくて硬い。

 でも、恐る恐るといった感じの触れ方には確かにぬくもりがあった。


「安心してください、イチエさん。50km先に別のシェルターがあります」

「う、うん。……大丈夫だよ、大丈夫。僕は平気だから」

「平気である必要はありません。どうか甘えてください、わたし最新鋭ですから!」

「ふふ、数千年前の、だよね?」

「わたしも少し前に再起動したばかりですが、旅立つ準備は整っています」

「……そっか。この星に、地球にまだ人間がいるかな」

「可能性は否定できません。ただ、ネットワークがダウンしてて通信衛星の反応もありません。物理的に移動して調査、接触する必要があるみたいですね」


 つまり、このシェルターとはもうすぐお別れということだ。

 旅が始まる……遠未來に放り出されたイチエの、果ての知れぬ旅が。

 今は鋼の抱擁ほうようがありがたく、頼もしくて温かい。

 イチゴはどうやら、イチエを助けて同行してくれるらしかった。


「えっと、まずは服を着ようかな。それと」


 そっとイチゴから放れると、彼女の頭の髪飾りに触れる。まるで生きてるように、その花はどれも瑞々みずみずしかった。

 まるでイチゴ自身が、咲き誇る花々のようだ。

 無味無臭の無機質なロボットが、ふわりと優しい香りを振りまいていた。


「それと、イチゴ。どこか安全な場所で、花が咲いてないかな」

「花、ですか?」

「うん。ここを出ていく前に、手向たむけたいんだ。僕と一緒に目覚める筈だった人たちに」

「あ……わかりましたっ! わたしにお任せください!」


 ベッドから立ち上がると、イチエは改めて私物をざっと確認する。衣服はとりあえず、目に入ってきた中学校の制服を手に取った。スラックスにシャツ、ネクタイとブレザーだ。

 他のものは着替えとして持つことにして、昔使っていたかばんをカートから掘り出す。

 こうしてイチエは、ふたりぼっちの旅を始めた。

 新時代に必ず、自分以外の人間がいると信じて。

 だが、彼を待ち受ける世界はもう、かつての地球とは別物の異世界なのだった。

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