幻の扉~花の香

八重桜 あい

第1話

幻の扉~花の香


   山奥の民宿。歩き疲れた旅人が一人。


旅人 「すみません。道に迷ってしまって、部屋空いてますか?」


主人 「どうぞ、空いてますよ」


旅人 「ああ、良かった。野宿かと思った」


主人 「この辺は脇道が多いですからね。歩き回って辿り着かれる方も珍しくはない

    んですよ。さあ、こちらでお茶でもどうぞ」


   旅人は荷をおろす。くたくたの身体に温かいお茶がしみわたる。

   疲れと安堵で少々眠くなってきた。と、主人が意味ありげに。


主人 「お客さん、道に迷われた時、柔らかな花の香りがしませんでしたか?」


旅人 「花? そう言えば山道を歩き回って疲れてしゃがみ込んでいた時、微かに良

    い香りがしました。それで道に迷った心細さが少し和らいだ気がします」


主人 「それジャスミンの香りですよ。随分前に花の好きな娘さんがいましてね。

    その婚約者が山道に植えたんです。二人の思いかどうかは、わかりません

    が、どんどん増えましてね。それは見事に咲き誇ります。今は、花の咲く季 

    節ではないのですがね。お客さん、他に何か見かけませんでしたか?」


旅人 「えっ? あっ、花の香りがして、また歩き出した時、修行僧の様な人を

    見ました。前方の分かれ道の所に、白い着物すがたで木の杖を持った人

    です。その人が歩いて行った方向に進んで、此処に辿り着いたんです」


主人 「顔はご覧になりましたか?」


旅人 「ちらっと。離れていたので直ぐに見失ってしまったんです。でも何処か懐か 

    しい顔だった様な。誰に似ていたのか、はっきり思い出せないんですけど」


主人 「それ山神様ですよ。時には鹿だったり蝶々だったり。出逢う人によって見え

    る姿が違うんです」


旅人 「それって、この地方の言い伝えですか?」


主人 「ここの自然の中で暮していますとね、時折り誰にも説明の出来ない不思議な

    ことがおこるんですよ。現実なのか幻なのか分からない様なことです。この

    先に小さな滝がありましてね。緑に覆われた綺麗な滝壺です。その景色を眺

    めていますと、小鳥のさえずりが、いつの間にか懐かしい人の歌声に聞こえ

    てくるんです。そして時を忘れてしまったりね。お客さんは、咲いていない

    花の香りに包まれ時に、一つの門をくぐてしまわれたのかもしれませんね」


旅人 「門をくぐる?」


主人 「はい。門、または目には見えない扉のことでございますよ。お客様、新しい

    めぐり合わせがあるかもしれませんね。それが人か物事か、または空間かも

    しれませんがね」


旅人 「空間ですか?」


主人 「まあ、そのうち分かりますよ。食事なさいますでしょう準備いたしますね」


旅人 「あっ、はい。お願いします。」


主人 「ようこそお越しくださいました、ごゆっくりご滞在ください。お客様。」


   旅人は、主人が話していた『花の好きな娘と婚約者』のことが気になった。


   婚約者は何故ジャスミンの花を山道に植えたのだろう? 

   なぜか此処での滞在が長くなりそうな気がする。


   風と木々が歌を奏でている。

   旅人は、その声につられて、ふと窓を眺めた。


   山の上の雲から月が覗いている。


   やけに美しく澄み切った夜空。


   月から優しい光が降りそそいでいた。

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