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七月、放課後、彼女は今日も一番うしろの席で読書に耽っている。他の生徒はみんな帰ってしまった。
花見 凛。彼女について少しずつわかってきた。
まず、誰かと話している所を見たことが無い。ずっと本に集中しているからかもしれない。しかし、本を読んでいない時でもどこか上の空、心ここにあらずで、話しかけにくい雰囲気を振り撒いている。
当然というか、部活にも入っていない。文芸部があったなら入部していたのだろうか。しかし悲しいことに、この学校には無かった。
休み時間はずっとノートに向かい、その合間に本を読む。という傍から見たらとても勤勉な生活を送っている。だが特別成績が良いわけでもない。
不思議な生徒だった。
ぱたん。という、ハードカバー特有の音が教室に響く。読み終えたようだ。この音は、一冊の本を読み終えた達成感と、その本の世界から現実に引き戻される喪失感を同時に私へ届ける。
彼女は喪失感を多分に受け取ったような所作で立ち上がり、いつもの本を返して借りるルーチンのために、教室左前方の本棚へ移動しようとする。
私は本を読むでもなく仕事をするでもなく、ただ彼女について考えていた。何も手にない状況で正対すると、さすがに気まずい。
気まずさから、声を掛けてしまった。
「その本、おもしろいよね」できるだけフレンドリーな口調で言ったと、思う。
食い付いてきてくれると思った。
しかし、彼女は一瞬目を丸くして硬直したあと、困ったような表情をして、手短に本の交換を終え、教室を出ていってしまった。何も言わず。
やってしまった。と思った。あの質問の内容自体が拒絶のトリガーと言うことはないだろう。彼女は何らかの理由で話しかけて欲しくなかったのだ。適切な関係が、一方の勝手な親交願望によって崩壊する。いかにもである。
二人のこの奇妙な貸借関係が終わる事を想像すると、ひどい喪失感に襲われる。
単純に、自分の”学級文庫”を読んでくれている嬉しさからなのか。はたまた彼女に、自分がどんな本を読んでいるか、自分がどれほど教養深い人間なのかを示して、秘めた自己顕示欲を満たしていたからなのかはわからない。
自分の嫌な面から目を逸らすように、本棚を眺める。
そこで、
そこにあったのは、主人公の凋落を描いた、鬱屈とした海外古典だった。ただの鬱小説ではない。レトリックも殆ど無く、ひたすらに絶望を書き連ねてある正真正銘の鬱小説である。
そんな本を読み終えた数秒後に”おもしろいよね”なんて言われたら困惑するだろう。あの質問の内容自体が拒絶のトリガーだったということだ。彼女の所作ばかり観察して、肝心の本を全く見ていなかった自分を恥じた。
だが、小さな希望もあった。隙間が空いているということは、彼女はまた一冊借りていったということだ。私のデリカシーの無さに失望してこの関係を断ち切ろうという意思はないのだ、と希望的観測をしてしまう。
隙間の右側をみると、ハートフルなエッセイの第二巻だった。本当にごめんなさい。思う存分、心を癒してほしい。そう思った。
◆
翌日、彼女は朝早くに登校してきた。
教室に入るなり、いつものルーチンを始める。私と目が合うと、軽くお辞儀してくれた。その仕草になにより、ほっとした。そして精一杯の謝意を込めて、「おはよう」と挨拶した。が、昨日はごめんね。が出なかった。
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