俺と周りだけビジュが悪い

碧海にあ

第1話

「中村さん、お先に失礼します」

 深夜二三時、にこやかにそう言って午後勤務の後輩の女の子が職場から去っていった。お疲れ様です、と返す自分の声の何と情けないことか。定時はとうに過ぎ、オフィスにはもう誰もいない。それでも目の前には書類の山がそびえ立っている。

「あんのクソ上司、無理言いやがって……この量の仕事一日でこなせる奴がいるかよ……」

 ぶつぶつ呟いて猛烈な眠気に抗う。デスクの引き出しからカフェイン剤の小瓶を取り出し、数粒一気に飲み込んだ。今日は帰れなさそうだ。

 せめて、日常に癒やしがあったらな、可愛い彼女とか。ぼんやりと考えながら浮かんできたのは後輩の顔で、慌てて首を振る。現実と空想を混ぜてしまってはいけない。俺みたいに成績も顔もパッとしない男に彼女が、ましてや可愛い女の子だなんて、できるはずがないのだ。現実に夢を見ちゃいけない。今世はもういい、来世は異世界ファンタジーラブコメの強キャライケメン主人公に生まれますように……。

 虚しい。そんな考えしか持てない現実が悲しくなってきた。仕事を再開しよう。あと少しだ。頑張れ俺! 手に力を入れ伸びをする。と、

「な――っ!」

 ドス、と衝撃があった。視界に天井が広がっている。伸びた拍子に大きくバランスを崩し、そのまま椅子ごと後ろに倒れたようだ。こんなヘマするなんて、よほど疲れているのか。しばし呆然としてから床に手をついて起き上がった。

 ……起き上がった、つもりだった。しかし俺の胴体はぺしゃりと床にくっついたままだ。腕に力が入らない。と言うより手脚が震えている気がする。なんだか視界も霞んで、吐き気もする。気持ち悪い。全部がグラグラしている。何が起きた? わけが分からず混乱する。

 取り敢えず、救急車……。スマホを探そうと力を振り絞って少し頭を上げた。ぼやけた視界の中で目を凝らすと、錠剤の小瓶が床に転がっているのが見える。

 ――カフェイン中毒死。

 いつかネットニュースで見た文字が頭をよぎる。やらかした。こんなことで倒れることになるなんて。

 最悪の気分のまま、世界が暗転していった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る