かつて都市だった構造体

閂 向谷

本編

 乗り捨てられたスクールバスは苔むしており、長い年月の中で赤黒く変色した車体の下地から、かつては黄色であったことが辛うじて推測できた。2車線の道路を跨いで横たわり、何かしらの出来事を契機にこれ以上の前進を放棄したことは明白で、その駆動がエンジンにとって最後の記憶となったことは想像に易い。

 海抜の高い高速道路のど真ん中。地平の果てまでその姿をうねらせながら続く道中で時を止めたこのバスには、食道に詰まった小骨のような狭小ささえもあった。


 車内もまた、同様に爛れたような、腐敗したような、時に置いていかれたというよりは、名状しがたい「生命力」のようなものを時間とともに吸い出されている。


 その一角。窓側の席に座る彼女は、無表情に外を見ていた。地味な色のパーカーから伸びた細いうなじ、キャップからはみ出た丁寧に整えられたミディアムショート、そして、二つに挟まって健康的そうな肌を湛えた横顔。凛としながらも風が吹けば折れてしまいそうな佇まいには、花の一種類を意味する彼女の名前にちなんで「咲いている」という言葉がよく似合う。

 窓はあまりにも風通しがよく、アスファルトを突き破って車体の下部から侵入した太く粗いツタが、座席や荷物置き場を複雑になめまわし、蜘蛛の巣さながらに絡めとっていた。いや、すでにこのバスは植物の胃の中にあるかのようだった。日差しが強烈だ。

 一方、通路側に座っていた僕は手持ち無沙汰で、車内に落ちていた電子機器を手に取り、側面のわずかな突起を、意味もなく指でなぞったりしていた。かなり古いタイプの電子機器だ。モニターがついた板、というよりは分厚く肉付けされたモニターと定義した方が近いだろうか。おそらくは、交信やインターネットへのアクセスを目的としたデバイス。その機能がまだ質量をもってポケットに収まっていた時代のもの。


「ねぇ」彼女がこちらを見ずに言った。「しりとり、やろうよ」

「しりとり?」

「単語の最後の文字をつないで言葉をラリーする遊びのこと。【ん】で終わる言葉を使ったら負け」

「ルールは知ってる」僕は続ける。「藪から棒にどうしたのさ?」


 進化の過程で赤橙を尾ひれに搭載した魚が、勢いよく水面を跳ねた。その魚影と点滅が見えなくなった後も視線を動かさず、エネルギーを希釈する波紋の広がるさまが、彼女の声と重なった。

 眼下のアスファルトの向こう。梁柱のへりを挟んで、視界の奥には海が広がっていた。フロントガラスから覗ける前方にて緑色の標識看板がうつむいており、彼の案内によれば、僕たちは今、かつて「都市」と呼ばれた構造体の上にいる。

 その街を真横に分断するべく人の想像に有り余る巨大な刃をさしこんだかのように、みなもから浮いたビルは、水平線の一部へ点対称に反射していた。

 巨大なミナゴケが海底のコンクリート建造物伝いに街をさまよっていた。その影に、かつてそこにいた人間の営みを、青いキャンパスに空想した。まだ海がこの街を飲み込む前、彼らはいったい、どんな目をしてこの四角いジャングルを生きていたのだろう。


 「なんとなく思ったの。ここに座っていた子供たちは、そんな遊びをしていた気がする。なんとなく、だけどね」噛みかけた頭髪を指で払いながら、彼女がこちらを向いた。「不満?」


「いや、でも――。先に知りたいんだけどさ」シートが軋む。「どうして【ん】で終わる言葉が負けになるんだろうね。いろいろあるだろう。【ん廻し】とか【ンジャメナ】とか」

「この遊びを考案した人は、【ん】で終わる言葉など存在しない、と信仰していたからよ」

「僕たちじゃあこのゲームを楽しむことはできない」

「さもありなん。データベースにアクセスするのはルール違反よ。当時の人間が、そんなことできるわけないじゃない」

「じゃあ、これを使うのは?」


 彼女の怪訝な目線が僕の手元に止まる。しばしの思案の後、スマートフォン、と、言語データベースにアクセスした時に起きる呟きがかすかに放たれた。僕は充電口を彼女に見せつけて続ける。

「USBtype:Cなら、君の電源から供給することができる筈だ。きっと、この時代の人はスマートフォンを見ながら高度なしりとりを遊んでいたんだよ」

「なにそれ、私たちより卑怯じゃないの」

「五十歩百歩だよ」

呆れながらも彼女はキャップを外し、束ねて隠していた、頭髪に結合させたUSB群の中から鍵を探すように合致する型を一つずつ確認していく。今やUSB規格はtype:Ωまであるのだから、探し出すのにはもう少し時間がかかる。その作業を横目に、僕はもう一度、窓の外に視線をやった。


 この海に沈んだ都市で文明的な活動を営んでいた【かつての支配者達】はとうに消え去った筈なのに、その残滓だけが輪郭さえも崩さずに屹然と立ち尽くしている。

 新たなる支配者達として、幾千回もの進化の過程で、電脳世界と結合することで生まれた僕たちでさえも、その姿かたちはほとんど見間違うことはない。今、僕たちがバスのシートに不快感をきたすことなく座っていられるのは、遠い先祖が形成した美しい二足歩行の姿であるが故なのだ。

 鼓動の停止と死はまた別の次元にあるかのようで、誰かの帰りをずっと待っているのだろうか。その再始をいつまでも心待ちにしているのだろうか。


 「電源がついたよ」


 強く差し込む光が街の底を青白く照らし、退廃の色をまき散らす回遊魚の群れが螺旋を描きながら、沈んだビルの一角、2階の窓に消えていった。

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かつて都市だった構造体 閂 向谷 @nukekannnuki

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