踏切

明里よしお

踏切

 高一の夏、俺は親の仕事の都合で住み慣れた街を後にし、県を二つ三つ跨いだ先の田舎に引っ越した。初めは友達や都会の喧騒を恋しく思ったものの、いつの間にか田んぼが広がるこの村も好きになっていた。気の合う友人ができたことも関係しているのかもしれない。

 唯一不満があるとすれば学校と友人の家が遠いことだろうか。

 この村は田舎と呼ぶにふさわしく、田んぼと田んぼの間に家があるようなものだった。お隣さんが数百メートル先などということはざらである。

 その遠いお隣さんには黄色い帽子を被り、真っ赤なランドセルを背負って、いつも綺麗なお洋服を着ている娘がいた。風の噂によると彼女の家は昔、大地主だったそうで、今もそこそこ裕福らしい。その子は白い雌猫を飼っており、いつも猫と共にいた。彼女が友達といるのを見たことがない。

 電車が朝夕に三本ずつ、それ以外は二時間に一回だけしか来ないため、俺は必然的にその子と居合わせることが多かった。最も、彼女は猫と本にしか興味が無いようで、俺が認識されていたかどうかは疑問が残るが。

 面倒なことに行きのホームは線路の向こう側にあり、いつも乗る電車の前には必ず貨物列車が通る。つまり、毎朝踏切で待たなければならないのだ。

 今の生活にすっかり馴染んだ残暑の日、俺はいつも通り家を出て最寄りの無人駅へ向かった。まだまだ蒸し暑いものの、秋風が心地よく吹いていた。のんびり空を見上げながら歩く。学校に向かうのが勿体無く感じる程の良い天気だった。

 なんとなく、今日は何か良いことが起こる気がしている。

 カンカンカンカンと踏切が降りる合図をした。

 タイミングが良い。あまり長く待たずに済みそうだ。早速、良いことが起こったと喜んだのも束の間、俺はバッグを放り投げて全速力で駆け出した。

 あの女の子が、既に降りている踏切を潜ろうとしていた。

 俺は素早く彼女を線路から引き剥がすと、大声で怒鳴りつけた。

「何を馬鹿なことをしている!死にたいのか!」

 男子高校生の怒声に彼女は一瞬竦んだが、その瞳はすぐに怒気を孕んで俺を睨みつけた。泣き叫びながら自分を拘束する腕を振り解こうと俺の手に噛みつく。鈍い痛みが指を突き抜けた。それでも俺はジタバタ暴れるこの怪獣を決して離さなかった。

 一体なぜ彼女はこうも錯乱しているのだ。

 何を言っているのかわからない喚き声を解読しようと耳に神経を集中させると、なんとか一言だけ聞き取れた。

「猫ちゃんが」

 猫?

 線路を見ると子猫が一匹見えた。足を溝に絡め取られているのか、身動きが取れないようだった。向こう側にいた母猫が異変に気づき、子猫を救おうとしているが、上手くいっていない。

 このままでは二匹とも。

 そこで俺はやっと、なぜあの娘が線路を潜ろうとしたのか理解した。その猫は、彼女がいつも一緒にいて、大切にしていた、白猫だった。

 だが、どうすればいい?

 非常停止ボタンの存在を思い出す。

 あたりを見回すと確かにあったが、ここからでは届きそうも無い。しかし、この子を離したらきっとすぐに線路に飛び込んでしまう。

 そもそも、猫を助けるために非常停止ボタンを押しても良いのだろうか?仮に押したとして、果たして間に合うのだろうか?

 次から次へと浮かぶ疑問が決断を鈍らせる。

 俺は、どうすればいい?

 冷たい汗がつーっと背筋を伝った。緊張で息が荒くなる。

 どうすればいい?

 全ての感覚が遠くなる。自分の呼吸しか聞こえない。それでもこの腕はさらに暴れるこの子を決して離さなかった。

 どうすればいい?俺はどうすれば。

 母猫と目が合った。

 毎日聴き慣れた音と共に強い風が押し寄せる。遠くなった意識の端で、悲鳴が上がった。

 それは小さな女の子の声に覆いかぶさった俺の声だった。


 カンカンカンカンとずっと鳴っていた耳障りな音が消え、鈍く軋ませて踏切が上がる。

 先ほどまでの阿鼻叫喚とは打って変わって、辺りは静まり返っていた。泣き叫んで暴れていたこの子も押し黙り、力無く項垂れている。

 突然、脛に鋭い痛みが走った。何をされても決して緩ませなかった腕があっさりと解かれた。その子は無惨な姿になった猫の破片を服が血で汚れるのも気にせず抱き抱えると、おもちゃの人形が動くようにぎこちなく歩きだした。

 すれ違い様に光を失った二つの瞳が俺を睨みつけた。この世の何よりも憎いと言わんばかりに。

 俺は、金縛りにあったかのように動けなかった。気付くと、あの女の子はいなくなっていた。

 母猫の目が忘れられない。

 その目には憎しみも、怒りも、何も無かった。ただ、俺と一瞬視線が交わっただけだった。

 後悔ばかりが募る。俺には他にできることが、しなければならないことがもっとあったはずだ。

 か細く力弱い声が聞こえた。

 まさか。淡い期待が立ち上る。

 音の主を探してあたりを見回す。微かに、子猫の鳴き声が聞こえる。

 どこだ、どこにいる。

 線路沿いの草陰に、母猫と同じ色の瞳を持つ小さな猫が転がっていた。まだ息はあり、目立った外傷も無い。しかし、線路に足を絡め取られていたあの子猫とは明らかに毛の色が違う。目だけが母猫と同じだった。

 そっと子猫を抱き抱えると、俺はその子の毛を優しく撫でた。雨は降っていないのに、頬に雫が伝っていく。

 俺が乗るはずだった電車が前を通り過ぎても、俺は子猫とそこに立っていた。学校に行く気など、到底起きなかった。かといって、家に帰りたくも無かった。

 俺が押せなかった非常停止ボタンが視界に押し入った。目が大きく見開いて、歪む。

 それを踏切の外から押すためには、ある程度の身長と腕の長さが必要だった。小学生の女の子が到底持ち合わせていないような長さを。でも、線路の内側からなら?


 まっさらな俺の手が、醜い赤色に染まった気がした。

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