7-4
「わたしが死にたいと願ったのは、……本当のことよ」
「小春、どうして?」
由希斗が、悲しみと喜びのあいだみたいな、半端な表情で眉を下げた。小春の言葉だけ聞けば悲しいようだが、小春が微笑んでいるから、真意をはかりかねているようだ。
小春は、自分の心が、雨上がりの空のように澄んでいるのを感じた。
ユキ、と彼を呼ぶ。そうして、ずっと言えずにいたことを、声にした。
「わたしを生かしたことを、もう後悔しないで」
言葉だけなら、まだ自分のうちに秘めておくことができる。
声は、誰かに何かを伝えるためのものだ。言葉を声に出してしまえば、なかったことにはできない。小春は軽く息を吸い、想いを伝えることを選んだ。
「ユキに悲しい顔をさせてしまうわたしはきらい」
小春が由希斗の後悔に気づいていることを、彼も知っていただろう。なのに由希斗は大げさなくらい目を瞠って息を詰めた。小春は由希斗を見つめ続けた。
「あなたを後悔させるわたしが、いやだったの。だから、わたしが死んでしまえば、あなたは解放されると、そう思ったのよ」
顔を歪めた由希斗が、緩く首を横に振る。
「僕は……、小春に、生きていてほしかった……」
言葉を覚えたての子どもみたいな、たどたどしい口調だった。小春は軽くうなずいて先をうながす。
「初めはよかったんだ。でも、時間が経つごとに、村の人たちは小春を怖がるようになっていって……、小春の友だちがみんな死んでしまっても、小春は歳を取ることさえできなくて」
由希斗はそう言って項垂れ、けれど、すぐにまた顔を上げて小春を見た。
「僕が、小春から人間であることを奪ってしまった。それがどれほど酷いことだったか気づいても、僕は小春を死なせてあげられなかった。……君がいなくなるなんて……」
桃色の瞳が揺れる。彼は涙をこらえるように深く息をついた。
「……小春に生きていてほしい思いは、いつの間にか、僕のそばにいてほしいって気持ちに変わっていた……違う、最初からそうだったって、そのとき気がついたんだ」
苦しそうな由希斗の視線を受け止めて、小春は一つ瞬いた。
「ごめん、小春。ずっと君に謝らないといけなかったのに、君に死にたいって言われるのが怖くて、言えなかった」
「……ユキ……」
空いていた距離を、ゆっくりと歩いて詰める。その内心で、小春はずいぶん困惑していた。
由希斗の後悔の理由が、思っていたのとまったく違う。
始まりの舞姫とのことは?
疑問は浮かぶが、今は、由希斗を許すように微笑んでみせる。
「村の人たちのこと、べつに気にしていないわ。ユキがいてくれたから、それだけでよかったもの」
小春は柔らかな笑みを含む声音で告げた。由希斗が、道に迷った幼子のように、途方にくれた顔をする。
彼の気持ちがなんとなくわかって、小春は尋ねられる前に答えをあげた。
「あなたのそばにいられて、わたしは幸せなのよ。大切なひとがいるって、それだけで幸せだわ。そう思わない?」
「……うん。僕もそうだよ……」
由希斗のうかべる笑みは、どこまでも柔らかで優しい。そして子どものようにまっすぐだ。
彼の想いは、きっと小春が彼に抱くものとは違う。それを苦しく思うことも、またあるのかもしれない。
それでもいいと、今は明るいきぶんで思えた。
小春は、室井へと顔を向ける。
「ユキも幻想だと言っていたけれど、わたしはやっぱり、神さまは存在すると思うの。でもその恩恵を受けられるのは、彼の恵みを幸福と思える者だけ」
わたしの神さま。
心のなかに自然とうかんできたその言葉に、小春ははにかんだ。
今まで、何度となく思ってきたことだ。それくらい、由希斗から与えられるものに、幸せを感じていたということなのだろう。
「幸福だと思わされているだけだ、菅原、お前……」
室井が歯ぎしりの隙間から絞り出すように言った。
「この街の何もかも、そいつが支配しているだろう。幸福とか、幸運とか、そういう餌を与えられて、飼い殺しにされているんだぞ!」
室井の叫びに、小春は山の上から見渡したときの、この街の全景を思い描いた。
そこからは、高いビルも、豊かな田畑も、きらめく川も、ジオラマのように見える。それを神の箱庭と思うのも、間違ってはいないのだろう。
「それでも、ユキは人の心まで、支配しているわけじゃないもの」
室井から由希斗へと視線を移す。
神さまでも、何もかもを意のままにできるほど万能じゃない。もしそうだったら、由希斗は苦しんだり、悲しんだり、せずに済んだだろう。
「幸せかどうかを決めるのは、わたしに委ねられている。そしてわたしは、ユキのそばにいて、この街で生きることを、いちばんの幸せと思う。それが答えよ。決して変わらない」
「なんでだよ!?」
「なぜって、だって、そんなの」
言いかけて、小春は口を閉じた。室井に聞かせてやることじゃない。
由希斗にあげたい言葉だ。
代わりのように、由希斗が言った。
「僕はこの街の人たちを支配したいわけじゃないし、そんなことはしない。みんなが幸せだったらいいなとは思うけど、この街が気に入らなければ、出て行くこともかまわない。……でもね」
由希斗はゆっくりと小春に歩み寄り、手の届く距離まで来ると、そっと小春の手を取った。優しく引き寄せる由希斗に、小春は抗わなかった。
「小春だけは、だめ」
「わたしはどこへも行かないわよ」
「……」
見上げる小春に答えず、由希斗は小春の体を両腕で抱き込んだ。彼の胸に埋まりそうになりながら、小春が何とか顔を上げて由希斗を見ると、彼は桃色の瞳をぎゅっと細めて、何かに耐えるように唇を引き結んでいた。
「ユキ……?」
「ほんとうは……そんなことを言ったらだめなんだって、ずっと思ってきたけど」
「いいの」
小春はふっと息を吐き、体の力も抜いて、由希斗に身を預けた。
「あなたに生かされたからじゃない……わたしはずっと、わたしがユキのそばにいたくて、この街にいたわ」
ひと呼吸を挟み、彼にだけ聞こえるほどに声を絞って、ひそやかにささやく。
「ユキが好きだから……昔から、好きだったから」
今まで、由希斗の重荷になると思って、言えなかった。彼には愛する彼の舞姫がいるのに、小春を神嫁にしてしまって、優しい彼はずっとそのことを気に病んでいるのだと思っていた。
そうでないのなら、小春は、自分の何もかもを由希斗にあげたって、ひとつも惜しくない。
「小春……!」
由希斗は、差し出された小春のすべてに、少しだけ戸惑ったように瞳を揺らめかせた。そんな彼に、小春は少しの悪戯心も混ぜ込んで笑ってみせる。
「あなたが生かした命よ。もしも瀕死の鳥を拾ったなら、きちんと責任を取りなさい、って、今どき小学生でも知っているわ」
「小春は、鳥とは違う……」
「神さまにとって、人間なんて、小鳥と変わりないでしょう」
「小春は、小春だよ」
小春の軽口を生真面目に否定し、由希斗がもどかしそうに唇を噛む。もどかしいのは小春のほうだ。
素直に受け取ってくれたらいいだけなのに。
でも、それができないのが、由希斗というひとなのだ。
「ねえ、ユキ」
微笑みは残したまま、声音を少し変えた小春に、由希斗は息を詰めて、黙ったまま先をうながす。
小春は言い含めるように、ひと言ずつをていねいに、ゆっくりと話した。
「わたしを幸せにして。わたしを生かしたことを、あなたが後悔しないでいいくらいに」
由希斗が桃色の目を見開く。その目はやがて、光をいっぱいに吸い込んだようにきらめいて、ゆるやかに細められた。
「……うん」
泣きそうな笑顔を見せながら、由希斗はうなずいた。
「そうする。小春がいつも笑っていてくれるように。……僕、小春が笑っていると、嬉しいんだ」
由希斗の温かな想いを感じる。小春の胸の中のどこかで、柔らかな花びらがほころんだような気がした。
由希斗にうなずき返し、惜しく思いながらも少し体を離して、小春は室井へと顔を向けた。
「わたしはここにいるわ。わたしの居たい場所に」
「まやかしなんだぞ、この街、全部……! お前は外を知らないから満足できているつもりなんだ」
室井は絶望をあらわに、唸るように言った。
「ねえ、それって、悪いことかしら」
広い空を知らず、籠の中で生きる鳥は、大空を自由に飛べるものからすれば、憐れに映ることもあるかもしれない。
けれど、慈しむ手のひらから注がれる愛情がある。
空を飛ぶことよりも、小春は、愛されることを望む。そして愛を返したい。
「ユキがくれるもので、わたしには十分よ」
でも、愛を疑わずにいられないか、もしくは空へ憧れるものであれば、鳥籠に暮らすのを厭うだろう。
確かめるように由希斗へと視線をやると、彼は軽くうなずいた。
「ユキのことを認められないあなたは、この街では生きられない。だから……」
ひとつ深呼吸して気を落ち着かせる。由希斗の霊力の流れを操り、それを室井へと向けた。
小春と目が合った彼が口を開くより先に、小春は彼に語りかける。
『あなたはわたしやユキのこと、この街であなたがしようとしたこと、あの野良神と出会ったことや言われたこと、すべて忘れてしまうの』
小春の声を聞き始めたとたん、室井からはすっぽりと表情が抜け落ち、うつろな顔になった。視線を外さず、小春は続ける。
『そうしてこの街を出て、もう二度と戻らない』
小春が言葉を切り、術を終えると、室井はゆっくりとその場に倒れ込んだ。
「健太くん!」
絵里奈が彼を呼び、彼のもとへ行ってもいいか尋ねるように小春を見る。小春は、首を振って彼女を引き留めた。
「記憶を大きく整理するために、少し眠っただけ。目を覚ましたら、今日のことも、わたしたちのことも、多くを忘れているわ。はじめから、無かったこととして」
「そんな……」
「彼にとっては、そのほうが幸せでしょう。わたしとユキ以外のこと、絵里奈ちゃんや、家族や友人、この街で生まれ育ったことは、きちんと憶えているわ」
絵里奈は小春たちと室井のあいだで、視線を何度か行き来させた。そして、小春のもとに留められた自分を見下ろし、諦めたように半端に笑った。
「もう、この街の人じゃなくなったんだね、健太くん。トウキョウに行ったときは、有名になって、この街に戻ってくるって言ってたけど……戻って来ないんだね」
「そうね」
うなずいたとき、小春を緩く抱いたままでいた由希斗の手に、少し強めの力が加わった。小春は軽く首をかしげて彼を見上げる。
「三年前、小春ははっきり断ったのに、未練がましく僕から奪おうなんて、初めから無理なことだもの」
「そういえば結局、小春ちゃんと剣崎くんは、付き合ってるの?」
絵里奈の無邪気な問いに、小春と由希斗は顔を見合わせた。それから、由希斗がふたたび小春を引き寄せ、嬉しそうに言う。
「小春は、僕のお嫁さん」
「そういう契約なの。さっきユキが言った通り、わたし、生まれたのはもう何百年も前で、死にかけたところをユキが助けてくれたのよ。わたしを助けるために、ユキはわたしを彼の眷属――神嫁にしたの」
小春が改めて説明すると、絵里奈は酢を飲んだかのような、妙な顔をした。小春から由希斗へ、その視線が移る。
「今のって、剣崎くんの惚気だと思うんだけどな」
「え?」
「そうだよ。僕、小春は僕のお嫁さんだって、ずっと言いふらしたかったんだもの」
「……ユキ。今、そういう場合ではなかったでしょう」
小春がお小言を言っても、由希斗は「ふふふ」と機嫌よさげに笑うばかりだ。
そんな小春と由希斗を見て、絵里奈が「すごく仲が良いんだね」と、少し呆れている。
夕陽が山の向こうへ沈みかけ、空がだんだんと浅い紫色へ、そこから濃紺へと色を変えてゆく。周囲がやや暗くなったのを感じ、小春はもう一度気を引き締めた。
「絵里奈ちゃん、ご家族が心配しているわ。早く帰らないと」
「あっ、そうだよね。……怒られるかなあ」
「大丈夫だと思うわ」
言いながら、小春は由希斗をうかがい見る。家に帰す前に、絵里奈の記憶も消さなければならない。
ところが、由希斗は首を横に振った。
「え?」
きょとんとする小春を置いて、彼は絵里奈へ目を向ける。
「ねえ、これからも、小春と友だちでいてくれる?」
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