5話
21時54分
秀は病院の手術室前で待機していた。叶向が手術室に入ってから1時間半が経とうとしていた。綺麗に洗ったはずの両手には、まだぬるっとした血の感触が残っていた。
自動ドアの開く音に顔をあげると、そこには執刀医と思われる医師が立っていた。
「あいつは、あいつは無事なんですか!?」
黙ったまま医師は首を横にふる。
「無事、なんですよね……?」
秀の声は震えていた。
「残念ですが、傷が深く臓器の損傷が激しかった——」
「それを治すのがあんたらのすることだろうが‼︎」
医者の胸ぐらを掴むと、秀は怒りをあらわにする。その怒りは叶向を救うことができなかった医師にではなく、助けることができなかった自分自身に向けた怒りだった。
「我々も最善を尽くしました。ですが、救えない命もある——」
「なんで、何であいつばっかり……」
怒りのままに壁を殴りつける。
「おつかれさま」
「お疲れさまです」
壁を殴るために伸ばしたはずの手は、いつの間にか壁にかかったタイムカードへと伸ばされていた。
初めてではないこの感覚を州は知っていた。タイムカード機の時刻を見る。
6月10日(木) 18時40分
「お疲れさまでした!」
タイムキーをきるやいなや、秀は車に向かって走り出す。急いでエンジンをかけると、自宅アパートへと車を走らせる。
「真っ直ぐ帰れば間に合うはずだ‼︎」
コンビニから帰宅してすぐに、男たちは逃げ去っていったところからするに、叶向が刺されたのはその直後だろうと言うのが秀の推測だった。
駐車場に車を停めると、時間を確認する。
18時59分
前回よりかなり早い時間に家に着くことができた。車から降りると急足で階段を駆け上がる。
「あっ、お帰りなさい」
スーパーのレジ袋を両手に抱えた叶向がそこには立っていた。
「ごめんなさい、約束破っちゃって。でも、どうしても秀さんと一緒にご飯食べたくて」
照れ笑いを浮かべる叶向に、秀はずんずんと近づくと勢いよく両手を叶向の肩に置く。
「ケガは!? 何もなかったか?」
「え……っと、うん。何もなかったよ?」
驚きたじろぐ叶向とは反対に、秀は安堵で膝から崩れ落ちる。
「ちょっと、秀さん? どうしたの?」
「何でもないんだ、お前が無事なら……」
「もう、秀さんは心配性だな。俺なら大丈夫だよ」
「お前だから心配なんだよ……」
「なにそれ、おかしな秀さんだな」
安堵と同時に二人の男の後ろ姿が頭をよぎる。
「今何時だ!?」
「えっと、今は19時07分だよ」
ポケットからスマホを取り出して叶向が答える。
「時間がない……!」
そう言うと秀は急いで玄関の鍵を開けると叶向を部屋の中へと入れ鍵とチェーンをかける。
「ど、どうしたの?」
「いいから、じっとしてろ。電気はつけるなよ」
外は薄暗く、部屋の中は電気を付けなければ尚暗かった。にも関わらず、電気をつけるなという秀の言葉に違和感を感じつつも、切迫した秀の様子から叶向は黙って従った。
しばらくすると階段を昇ってくる足音と、男二人の話し声が聞こえてきた。その声に秀は自身の体が強張るのを感じる。
綺麗に拭いたはずの汗が再び額をつたう。
「なにがあっても声も、音も立てるなよ」
小声で叶向に言うと、叶向は小さく首を数回縦に振る。
「なあ、ほんとにここに居るのか?」
「昨日あいつにつけたGPSがここで切れたんだ。このアパートにいるに違いねえ」
「でも部屋まではわかんねぇじゃん?」
「確かにな、しばらく張ってるか……」
二階フロアをひとしきり歩いた後、足音は一階へと降りていった。緊張の糸が解けて秀は大きなため息をつく。
「ねえ、今の人たちって……」
二人の声に聞き覚えがあったのか、真っ青な顔で叶向は秀を見つめる。
「多分、昨日お前を襲った連中だと思う」
「さっきGPSって……っ!」
二人は洗濯機の中を確認する。そこには水没し、乾燥機にかけられたGPS機器と思われる小さな機材があった。
「……これのことだろうな」
「そんなっ……」
二人の自身に対する執着心に叶向は身震いする。
「とにかくここから離れるぞ。悪いな、食材買ってきてくれたってのに」
秀の言葉に叶向は大きく首を横に振る。
「とりあえずこれ着ろ」
そう言って秀が渡したのは、自分の作業服だった。
「このまま家にいるのは危険だ。制服だと目立つし、車までそれ羽織っとけ」
静かに家から出た二人は、秀の車に乗るとアパートを後にした。
しばらく無言で車を走らせる秀は、助手席に座る叶向の方を盗み見る。
怯えているのか、叶向は俯き一言も言葉を発さない。いてもたってもいられず、秀は口を開く。
「なあ、あいつらとはどんな関係なんだ?」
「……」
「……」
車内には再び沈黙が流れる。
「……お客さんなんだ」
俯きながら叶向は話し始める。
「俺さ、家族と上手くいってないって言ったでしょ? それも当然でさ、いま戸籍上母親と父親になってる二人って……俺とは血が繋がってないんだよね」
「……」
「父さんと母さんが離婚した時にね、俺は父さんについていったの。付いていったって言っても、母さんに拒否されて仕方なく父さんに親権が行ったって感じだったと思う。その後に父さんが
「お前……」
「それでね、色々あって俺も一人暮らししてるんだけど、学費に家賃に色々お金かかるじゃん? だからバイトで……パパ活のお客さん。あの二人は太客なんだけど、ちょっと面倒でさ……ごめんなさい、秀さんを巻き込んじゃって……」
やっと顔を上げた叶向の目には大粒の涙が溜まって今にも溢れそうだった。
「俺のせいで秀さんに凄い迷惑かけちゃってる……ほんと、ごめんなさい」
ついに溜まった涙は溢れだし、叶向の頬をつたっていく。秀は無言でハンドルをきると、近くの大型スーパーの駐車場に停める。
「……ありがとうございます。ここまで送ってくれて」
泣きながらドアを開けようとする叶向の腕を秀は掴む。
「まあ待てって……お前そのバイトはなんてとこなんだ?」
「……カルファン・チェリーってお店」
「店長には相談したんか?」
「したよ……出禁にしてくれたんだけど、それからしつこくて」
「店長が認知してんならいいか……客の名簿にある程度の奴らの個人情報は載ってんだろ。あとはウチにあるGPSを警察に持っていけば何とかしてくれる」
「うん……」
「未成年捕まえてそんな商売してんだ。店側もとばっちりだろうが知ったこっちゃねえ」
「……うん」
秀の言葉に叶向はただ頷く。
「とりあえず証拠になるGPSを取りに行きたいところだが、今日はもうあの家に帰る気にはなれないし……」
ちらっと叶向を盗み見る。
「かといってお前を一人にするわけにもいかないしな」
「えっ……」
面食らったような表情の叶向を見て秀は思わず吹き出す。
「何だよその間抜けなツラは」
「だ、だって……俺を一人にしないって」
「当たり前だろ。こんな状態のやつ放っておけるわけねえだろ」
「でも、俺……秀さんに迷惑かけちゃうだろうし……」
「あのなぁ、子供は大人に迷惑かけるもんなんだよ」
秀の言葉は本心であり、秀自身の願望でもあった。秀の母親はシングルマザーで男を取っ替え引っ替えするほど、酒癖と男癖が悪かった。頼れる大人が周りにいない環境で大人になった秀にとっては、子供が大人を頼ることに強い思い入れがあった。だから、叶向を救うことで、自分の願望、理想を叶えようと本人ですら気が付かない思いがあった。
「子供って……俺と秀さんは一個しか年齢違わないですよ?」
「は? なに言ってんだ? お前高校生だろ?」
「そーですけど、俺一個ダブってるんで今19ですよ?」
「……マジ?」
「……ふふ、マジです」
いつの間にか叶向には笑顔が戻っていた。
「お前なぁ、笑うとこじゃないだろ……」
「すみません……でも、すっごく嬉しかったです。迷惑かけても良いって、秀さんが言ってくれて」
満面の笑みの叶向に、照れ臭くなり秀は居心地の悪さを感じる。
「かけても良いけど、ほどほどにな……」
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