星に願いを 〜wish upon a star〜


 遥は崖の上に立っていた。


 足を引きずって、一歩踏み出そうとしたその時、手を掴まれて引き戻される。


「落ちるぞ」


 星だけがわずかな光を放つ深夜、暗く地と空の境界は曖昧。


 内藤は遥の手を引き、崖から少し離れた辺りに座らせると自分も隣に座り、上着を彼女の肩に掛ける。逝かせたりしない……しっかりと手を握る力には強い意志が現れ、遥もそれ以上あらがう様子はない。



 夜空を眺める遥、寄り添う内藤。交わす言葉もない二人は、瞬く星に何を思うのだろう。



 時が流れて星が巡る頃……冷え切った身体を抱きかかえ、内藤は洞穴へと戻る。この世にとどめられてしまった遥は抜け殻のまま、闇に作られた優しい寝床に横たえられた。



 夜が更けていく。



 暗闇の中、再び眠りについた遥の髪を優しく撫でる。その瞳は泣いているかのようで、もはや黒豹の面影はない。


「つらいな……」


 呟き、そっと唇を重ねた。







 その頃、海斗は遥と共に暮らした家で由茉と見つめ合っていた。


「愛してる」


 耳元に囁き、頬に口づける。


 髪を撫で、肩に掛かる服を滑らせ脱がすと首筋へ唇を進める。由茉から漏れる熱い吐息、しかし海斗の瞳に熱はなく、愉しむように軽薄な光を帯びている。



 そのまま事を済ませると、由茉を眠らせ海斗は一人、外を眺めた。


「もうすぐ……だな」


 欠けた月を見つめ、嘲笑うように微笑む一瞬、瞳の芯が赤く光った。







 内藤は首謀者を追わず山にとどまり、懸命に遥の介抱をした。ありったけの草やさらしで寝床を整え、顔を拭き、食べ物を与え、怪我の治療をし……夜になると山頂に連れていき、二人で星を眺めた。


 その甲斐あってか、虚ろな瞳は動きを取り戻して三日目の夜、星空の下でやっと声を発する。



「ありがとう……もう大丈夫です。全て忘れます」


 痛々しい微笑み、遥が大丈夫でない時ほど大丈夫と言う事に内藤は気づいている。


「無理するな。心を殺す必要はない」


 夜空を眺めたまま、傷ついた心をぎこちなく励ます。


「側にいられなくても、想うのは自由だ。現実が思うようにならなくても、己の心は誰に縛られるものでもない」


 それは内藤の生き方そのものだった。


 遠くから、想う事しか出来なかった。消そうとするほど募る想いを紛らわせるため研究に没頭し、何があっても壊れないロイドを開発した。それさえも、海斗を失いかけた遥の涙が原動力だった。


「側にいられなくても……」


 秘められた想いに気づかず、内藤の言葉をなぞる遥は何を思うのか。



 再び沈黙が流れる。



「星に……なれたらいいのに」


 ふいに呟く横顔は、なぜか今にも消えて本当に星になってしまいそうだ。


「そうしたら見守っていられるのに。どこに……誰といても」


 それで死のうとしたのか。愛する男が他の女と愛し合い、子供達と幸せになるのをただ遠くから見守るだけ……触れられず、言葉を交わす事もできない。それほどまでに、愛しているのか。


 逝くなと、強引に抱きしめて奪えたならどれだけ楽だろう。


 きっと壊してしまう、完全に。結局、出てきたのは大して役にも立たない台詞だ。


「そんなもんなるなよ、お前が言ったんだろ。花火も星も、遠くから見るから綺麗なんだって」

「そんなこと、言ったかな……」

「憶えてないのか」


 この女にどれだけ傷つけられただろうか。俺との時間も、あの日の星空も、プロポーズも……想いを込めたどんな言葉も届かなかった。


 これからも……きっと変わらない。



「内藤さんはどうしてこの街に? 」


 気まずさを紛らわせるように、話がそらされる。きっと何かの間違いだ、遥と海斗が別れるわけない。ましてや、想いが叶うなど……一生ないだろう。


「そんな事、知りたいか? 」

「何かあるから、ここにいるんでしょ」


 深く、鈍く、地が震え轟音。空が光り、燃えて煙が。


 星が見えなくなっていく。


「爆撃……だな」


 現実を忘れ、いつまでも遥とここにいたかった。星に願いをかけるなどガラでもない。内藤奏翔、その瞳が今一度鋭い輝きを放ち、夜空の先にいるただ一人の敵を睨みつける。


「終わらせる為、ここに来たんだ」


 次第に強くなる震動、西の地平線が赤く天地を侵し激しく燃える。


「終わらせるため? 」

「首謀者を暗殺し、戦争を終わらせる」

「そんなこと出来るんですか? 」


 遥は大きな目を見開いて、内藤を見つめた。強い自信と覚悟……死にたい気持ちが強すぎるあまり、周りが見えなくなっていた遥の心に初めて内藤が映る。


「戻るか」

「もう大丈夫、歩けます」


 背に回る手を断る遥、内藤は構いもせず抱き上げる。


「無理してひどくしたらどうすんだ。しっかり掴まってろ」

「えっ、あっ、ちょっと待っ」


 反射的に腕を回し、遥は内藤の太い首に抱きついた。驚きながらも愛おしそうに遥を包み込む内藤……その胸の奥には、以前より強い愛が生まれている。







 その夜、遥は夢を見た。目覚めると家の柔らかいベッドの中で、海斗が髪を撫でてくれている。


「遥」

「海斗……」


 昔のように優しい眼差しに見つめられ、そっとキスをする。



「いい歳して初めてかよ」

「旦那に相手にされなかったんだな」

「今頃、巨乳抱いてんじゃねぇの。抱いてもらえて嬉しいだろ」


 突如、天井から聞こえる声……景色は一変してあの収容所。好き放題言いながら私をおもちゃにして、いやらしい笑いを浮かべる男達。


 そうだった……私は。


 “離婚してほしい”


 海斗の言葉がリフレインする。思えば一度も求められた事なんてなかった。人間になった海斗は、私に興味なんてなかったんだ。


「海斗……」


 愛しい背中が由茉さんと微笑みを交わし……遠ざかっていく。




 目を開けると暗い洞穴の入口に陽が射していた。


 起き上がり、さらしとナイフを手に沢へ。何度拭ってもこの汚れが落ちることはない、私は……今までの私はあの日、とっくに死んでいた。


 ナイフを首に、髪をできるだけ短く削ぐ。これからは女でも、人間でもない。切った髪が水に流れていく。



「お前、その髪……」

「連れて行ってください、戦場に」

「だめだ」

「お願いします」

「北の海の街に、あいつらが疎開している。そこなら安全なはずだ」

「安全な場所なんてどこにもありません。戦争が終わらない限り」


 内藤がどれだけ説き伏せても、遥の意志は変わらなかった。


「離れていても想うのは自由……そう言ったのは内藤さんでしょ? 」

「それとこれとは関係ない」

「見せてあげたいんです。子供達に戦争のない平和な未来を」


 深く沈んだ瞳に意志が蘇る。


「あの子達にしてあげられる事、もうこれしかないんです。連れて行ってくれないなら……今ここで死にます」

「おい、やめろ……わかったから」


 こめかみに銃口を当て、引き金に指を掛ける遥の覚悟に、内藤は負けるしかなかった。



「食べ物と薬草がいりますね。包帯もさらしも洗わないと……」

「遠足じゃないんだ、身体ひとつあればいい」

「首謀者はどこにいるんですか」

「それは……まだこれからだ」

「長期戦になりそうですね」


 遥は敷かれていた布で簡易ポーチを二つ作り、荷物をまとめると手際良く腰に巻く。


「慣れたもんだな」

「病院に来る軍人さん達がよくこうしていたんです。下山したら配給所に寄ってもらえますか」


 柔らかく内藤に笑い掛ける、遥はまるで別人だった。


「薬草を摘んできます」

「待てよ、俺も行く」


 二人はまるでピクニックにでも来たかのように洞穴を出て、散策を始めた。


 しかし、山の天気は変わりやすい。







「それで? どんな奴なんだ」

「一人は小柄で華奢な長髪の男だ、もう一人は体格のいい黒髪の男、どちらも私服を着て市民に擬態している」


 山からそう遠くない地下の一室で、男二人があのビラを手に言葉を交わす。


「居場所は、目星はついているのか」

「市街地を南に進み、現在は市の南東部。この山に潜んでいるようだ」


 男の表情に驚きが生まれ、眼の色が変わる。


「住宅に忍び込み、食糧や衣服を強奪しながら逃走を続けている。早く始末しなければならん」


 白衣の男が銃を手渡すと、もう一人の男は受け取り弾を確認する。


「約束は必ず守ってもらう」


 言い捨てると男は部屋を出て行った。


「必ず殺せ、必ずだ。さすれば全ては思いのまま」


 不気味な低い声、男が出ていくとそれは笑い声に変わり地に轟いた。







「これは止血に効くんです。こっちは腹痛に」

「こんな草がか? 」

「はい。すり潰して塗ったり、煎じて飲んだりするんですよ」


 薬草を摘み、湧き水を見つけて喜ぶ二人は、怪しい影に狙われている事などまだ知る由もない。

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