一夜の憩い 〜a night's rest〜
こめかみに冷たい感触、レーザーじゃない、本物の実弾の重み。
「もしかして……橋本君? 」
「さ……笹山さん!! 」
遥の一言が張り詰めた緊張を壊し、銃口が離れた。
銃口を向けた男は
過去に何度も読んだ捜査資料、その中にいた遥を慕う後輩の二人。確か、この男は警察の特命捜査員、妻の
結婚、していたのか。
「悪いな、このまま」
「わかってます」
再会した時、とっさに夫婦だと遥は嘘をついた。立場を知っていて機転を利かせてくれたのだろう。確か島に流された時、交友関係は断ち切られているはず。
「お待たせしました~」
「ありがとう、
「もう! そんなこと気にしないでください、ずっと待ってた日がやってきたんです。遥さんと再会できる日が」
「
立場や思惑など気にせず笑い合えるのは清々しい、いつも遥の周りはそうだ。
「それなのに、ぜんっぜん連絡してくれないんだから」
わざとらしく頬を膨らませ、むくれる彼女に申し訳なさそうな遥。思えばこれも、海斗のせいだ。
「色々あったんだよな。離島へ静養に出たはいいが電子機器は潮風で全滅し、手段を失くしてしまった。確か、その頃の事だろう」
「うん……」
お前のせいじゃない、視線を送ると浴びせられる視線がなぜか痛い。
「その頃からのお知り合いでしたか。私達も急に連絡が取れなくなったので探しましたが見つからず……でも安心しました。このような方が守ってくださっているとは」
「まぁ、そうだな。その頃、知り合った」
適当に話を合わせ始まる夕食。よほど嬉しいのか会話は途切れる事がなく、
優しい時間、この悲愴で残酷な戦場の中でこんなにも穏やかな時があるとは。
「お兄さん、干し肉嫌いなの? 」
「あ、いや……これ干し肉っていうのか。うまいな、嫌いなんかじゃない」
「だって、今お姉さんのお皿に移してたよ? 」
こっそりしたつもりが見られていたらしい。
「
「え、あ……いや……」
「そっかぁ! お兄さん、あのね、このお肉は
「
「すごいな、こんな美味いもんが作れるのか」
子供というのはこんな化け物にも、にこやかに笑い話しかけてくれるのか……あまりに慣れがなくて、こんな事しか言えない自分が情けない。
「肉は希少ですから、薄切りにしてスパイスをかけ干してみました。酒が呑みたくなるでしょう」
「あぁ、呑むのか? 」
「えぇ、日本酒を。
「くだらねぇな……戦争なんて」
不思議だ。昔なら敵、銃を向け合っていなければならない相手と、いや……俺が人間と食卓を囲み談笑しているとは。
「ほんと……早く終わればいいのに、戦争なんて」
戦争がなければ、この団らんに刺す影もなく、遥の表情が曇ることもなかった。
終わらせてやる、必ず。
干し肉や蒸した野菜、
「そういえば、お二人にお子さんは? 」
「いないの。お互い忙しいし、ね」
「あぁ、そうだな」
「いいものですよ、子供がいる暮らしも。時に心が逆立っても、いつの間にか和らいでいる事が多くなりました」
「そう、ケンカも減ったよね。遥さん、おすすめですよ! 」
曖昧な笑みでごまかす遥をなぜか、からかいたくなる。
「
「いいかもな」
「え? 」
「かわいいだろうな……遥によく似た子なら」
たった一言で赤面し俯く。毎日、あいつはこの横顔をどんな思いで眺めていたのか……俺だったら一秒たりとも離れたくない、ましてや別れるなんて考えるはずもない。
きっと、何かの間違いだ。
明日には海斗の元へ……横顔を眺めながら思う。たった一晩でも夫婦になれるなんて、俺は死ぬのかもしれないと。
“おやすみ”そんな暖かい言葉を交わして、遥は
「水ですみません」
「いや、何から何まですまない」
盃を持った
「ずいぶん穏やかになられましたね」
「バレてたか」
「去った後には死の風が吹く……黒豹としてのあなたは有名でしたから。我々、特命捜査員の間で」
互いに正体を、柔和な笑顔は全てを最初から見透かしていたのかもしれない。夫婦などという下手な嘘を。
「突き出すか、それとも殺すか」
大した男だ、
「足を洗いました。今はただ
警察にとって、何人も殺してきた俺は要注意人物だった。表向きには逮捕できないが必ず消さなければならない存在。しかしそれも、この戦争でうやむやになってしまったのかもしれない。
「お互い、牙を抜かれましたね」
空の盃にまた水が注がれる。
「俺はただ」
「どういう間柄であれ、想いは本物でしょう」
乾杯を促す眼に負け、盃を交わす。
「罪な方ですね、遥さんも」
「夫がいるんだ。もっと……のんきな顔した優しい奴だ」
よく眠っている遥の寝顔が、それでもどこか哀しげなのはあいつが原因だろう。昔も今も、俺は寝顔を見つめる事しかできない。
「戦場ではぐれたんだろう。家に送り届ける途中だ」
「そうですか……それは、神から託されたのかもしれませんね」
「神……か」
神がいるなら遥をなぜあんな場所に放り込んだか、水だと言うことも忘れて飲み干す。
どこまでも清々しい。
「安心しました。あなた程の強さがあればこの戦場でも、私達の恩人をしっかり守ってもらえそうです」
「ここは戦場、強さがなければ生き残ることはできません。ましてや、家族を守るのは……至難の業です」
まだ空襲はそれほどでもないと付け足しながら顔は曇る。
「何者かが、こそこそ嗅ぎ回っているようです。
聞けば、何度か娘達が危ない目に遭っているという。
「卑劣だな」
あんな無邪気で無防備な娘達を。
「この街は、私達にとって敵の巣窟。
視線は愛する妻と娘達に向けられる。
「大丈夫だろう、まだ勘は鈍っていないようだ。家族を守り、終わったらまたこの街に戻ってくるといい」
「その時は、本物の酒を酌み交わしましょう」
愛しい者達の寝顔を眺め、何度目かの乾杯をする。
「静かな夜だな」
「えぇ……このまま何もなく過ぎてくれるといいのですが」
夜が更けていく。
翌朝。ゆっくり朝食を摂り、旅の支度を整えて名残惜しい別れの時。
「
「遥さん……絶対、絶対また会えますよね」
「うん、また会おうね。必ず」
泣きそうな
「ご武運を。それと……私達の居所です。想いが叶うといいですね」
「そんな事より、道中気をつけろよ」
「はい、また必ず。今度は本物の酒を呑みましょう」
「あぁ、色々助かった。またな」
俺がもし本当に遥の夫だったら、昨夜のような憩いの時をこの先も過ごせただろうか。差し出された手を握る、初めて……友と交わす約束。
“また……”
戦時中に交わす約束は儚く、恐らく叶うことはない。いい夢を見た……手を振って旅立つ斎藤一家の背中を見送る。
俺達も。
「また、会いに行けばいい」
涙溜まる瞳、励ましても寂しさは拭えない。
「
「ん? 」
「あの子達より小さいの。それなのに私……怖くて寂しくて、泣いてるかもしれない。もしあの子達に何かあったら……」
うずくまり、たまりかねたように嗚咽を漏らす。
どうして思いつかなかったのか。五年も経てば子供の一人や二人いてもおかしくない、それなのに……遥に似た小さな娘を勝手に思い描き、浮かれていた。
遥と海斗に子供が……辺りが霞むような事実に大きく落胆する自分が恥ずかしい。
「行くぞ」
「どこへ……」
「言っただろ、送ってやるって」
あの病院の近くなら、相当の時間がかかる。泣きじゃくる遥の側にしゃがみ、そっと手を取る。
「今度は……本物の家族、連れて行ってやれよ」
そこに俺はいない。
所詮……夢は夢だ。
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