雄突強

猫太朗

雄突強



硬く、踏みしめられた土の上に、細かな液体が染みを作っていた。

その水滴は人間の体液。

主に汗と血である。

この場所は戦いの場である。

男と男が己の肉体と精神を比べ合う儀。

今日、ここで二人の男が相対する。




東北のとある小村。

この村には古くから伝わる奇祭がある。

鍛え抜かれた偉丈夫同士による徒手格闘。

その名も雄突強(おうつごう)という。

褌一丁の男が一対一で行うこの試合。

攻撃の手段は殴る。蹴る。投げる。極める。なんでもありの謂わばバーリトゥード。

実に危険な競技だ。

この戦いの特殊さはその勝敗の決し方。

相手の褌を剥ぎ取った方が勝ちというなんとも変わった物である。

褌を一方が脱がされた時点で勝負は終わるため、取られた側にまだ戦意があったとしても負けである。

この祭の起源は遥か昔に遡るそうだが、現在では文献がほとんど残っていないため、詳細は不明。

しかしその極限までシンプルな力比べは村に生まれた男たちの原始的な本能を刺激し、今日まで愛されてきた。

一年に一度、その日のために己を磨き抜き、昂った真の男たちによる決戦。

それが雄突強である。




全裸の中年男が砂埃を飛散させて地に転がった。

倒れた中年男は息を切らしながら叫ぶ。

「んだぁ〜っ!負げだ負げだッ!」

その様子を眺めていた半裸の男たちは笑いながら野次を飛ばした。

「小坂さん手も足も出ないじゃないのっ!」

「しょうがねぇべ、歳には勝てんて!」

「俺たちも爺いになっちまったなぁ〜切ねぇなあ〜」

倒された全裸の小坂は若干照れ笑いを浮かべながら立ち上がった。

「小坂のおっちゃん!ほれっ!」

若者が小坂に向かって裂けた、くすみがかった白い布を放る。

小坂が穿いていた褌だ。

彼が今しがた小坂と対戦していた者だ。

褌を受け取ると、全裸の小坂は微笑みながら若者を讃える。

「いや〜、てっちゃんにはもう敵わんな〜!強くなった!」

若者ははにかみ、胸を張った。


雄突強の参加者は競技の性格上男しかいない。

観戦するのもほぼ男だ。

昔は由緒ある神事として扱われ、厳かに盛り上がった祭だが、近年では過疎化が進んで村人も減り、廃れつつある。

都心から離れた小村ながら、村人たちの意識も昔とは変わり、蚊帳の外の女たちからは「馬鹿げた男たちの小競り合い」と、些か白眼視もされている。

しかしながら村の男たちからは今なお愛される祭だ。

この祭の数ヶ月前から食事量を増やし、身体を鍛え込む者も少なくない。

年老いても参加しようとする者もいたが、「こんなことで怪我されたら困る」という家族からの要望があり、数年前から参加出来るのは四十代までと年齢制限が設けられた。

参加者は主に三十後半から四十代。

前述の通り過疎化が進んでいるため、村には若者が少ない。

しかして数少ない十代から二十代の参加者こそ肉体の盛りであり、大抵は彼等が勝ち残る。

先程、小坂を下した三田哲治(みたてつじ)は二十四歳。

普段は農作業に励む青年だ。




「さぁて、今回もいよいよ大詰めだなぁ〜」

「やっぱり若ぇもんが残りましたねぇ」

雄突強はトーナメント戦。

戦い、勝ち残った者同士で対戦し、最後に勝った一人がその年最強の村男となる。

農作業で日常的に身体を動かし、中高では柔道部だった哲治はなんなく勝ち上がり、決勝へと駒を進めた。

哲治は褌を固く締め直し、土俵に入る。

土俵と言っても本来の相撲のように境界が設けられているわけではない。褌を奪うことのみが勝敗の決し方だが、便宜上、皆土俵と呼んでいる。

土俵は槌で叩き、固めた地に細かな砂を表面に撒いてある。

土の質感は本物の相撲さながらである。

哲治は肩を回して、対決前に軽く身体を解す。

「さぁ〜て、やっぱり残ったかぁ〜サクちゃん!」

哲治は土俵に佇む男に向けて微笑んだ。

この村で唯一人、髪を染めている男。

金色の髪が鈍く光っている。

「サクちゃんとやるのは五年ぶりか?」

「…おう」

「都会暮らしで鈍っちゃいねえだろな?」

「試してみろよ」

「…おっしゃ!やろうぜ!」

和太鼓の音が轟く。

それをきっかけに、二人の男が互いに向かって突進した。




滝本朔太(たきもとさくた)は五年前に上京するまで毎年雄突強に参加していた。

哲治とは同い年の幼馴染で、朔太も中高では柔道部であった。

部活の練習で度々二人は組み合ったが、柔道の腕は哲治のほうがやや上手で、朔太はなかなか勝てなかった。

しかし雄突強では違った。

基本的に戦法はなんでもありで、褌さえ奪えば勝ち。

このルールだと朔太は強い。

朔太は村にいる間、毎年勝ち残り、決勝の常連であった。

この時ばかりは哲治相手にも分がある。

負けた者は裸に剥かれて地に転がる。

それを見下ろした時の快感、優越は他の競技では得難いものである。

朔太は雄突強が好きだった。


朔太は恋をしていた。

同じ村で育った長谷部結花(はせべゆか)は幼い頃から人より大人びた雰囲気があり、年齢を重ねる程に美しさを増した。

思春期を迎えた中学生の朔太はある日から結花に特別な感情を抱くようになる。

初恋であった。

しかして十代特有の初心さから朔太は結花に近づけず、結花もまた成長と共に男性への苦手意識を感じ初め、幼い頃にはよく遊んでいた男子たちを遠ざけるようになった。


高校三年生、それぞれが進路に悩み始める時期、朔太は結花が東京の専門学校に進学するのを知る。

長年募らせた想いを告げずに別れるのはあまりにも切なかった。

切なさに身を千切られん程に悶えた朔太は思い切って結花に告白した。

「結花!ずっと前から好きだった!付き合ってくれッ!」

「は?嫌だけど…」

結花は冷徹に答えた。

都会に憧れ、近々上京する結花は自分の住まう田舎村が嫌いだった。

そしてそこに暮らす垢抜けないどころか垢そのもののような同級のダサい男には全く魅力を感じていなかった。

手痛い返事に朔太は呻きながら項垂れた。

予想はしていたが、振られる痛みとはこれ程の物か…と、身悶える。

そこでなにを思ったか、朔太は次のようなことを言った。

「…じゃあ、雄突強!今年の雄突強で勝ったら付き合ってくれッ!」

「いや…だから、嫌だけど」

「約束だ!約束だからな!」

結花の言葉も聞かず、朔太は勝手にそう決めた。

十代は人間の最も愚かな季節である。


その年の決勝は朔太と哲治が残った。

朔太はこれまで以上に張り切っていた。

これに勝てば結花と付き合える。と、相手の了承を得ていないのに一方的に昂っていた。

「サクちゃんには毎回負けてっからなぁ〜、今回は勝つぞ〜!」

「…」

朔太の眼中にもはや哲治は映っていなかった。

頭の中は結花のことばかりである。

不意に、下腹に異常を感じた。

「っ!」

朔太の男根が硬く膨れ上がり隆起し、褌を押し上げている。

若い男、特に十代の恋は性欲に直結している。

不覚にも朔太は己を勃たせてしまった。

その時、開戦の太鼓が鳴った。

「行くぞ〜!サクちゃん!」

「ちょっ!?ちょっと待てッ!待てったらッ!」


朔太はあえなく敗北した。

褌を奪われ、地に転がり、怒張した己を村人たちに晒した。

「はぁ〜!サクの奴おったっとるぞ!」

「なぁに考えとるんだあん坊主はっ!」

その場は笑いに包まれた。

朔太は自分のあまりにも惨めな醜態に、仰向けで天を見つめながら静かに泣いた。


結花は翌年初めに村から出て行った。

朔太は惨めな惜敗から立ち直れず、雄突強の日以降、結花と言葉を交わすことは無かった。

「よぉ〜、サクちゃん。今日もアッチは元気か?」

「…」

あれ以来村人たちは朔太に会う度に揶揄うようになる。

小さな村故、あの日あの場にいなかった者たちにもたちまちに朔太の醜聞は知れ渡った。

恐らく結花の耳にも届いたことだろう。

そう思うと朔太は死にたくなった。

「サクちゃ〜ん!とろろ芋もらったからやるぞ」

「テツ!お前殺すぞっ!」

「なんで…」

高校を卒業してから哲治は実家の農業を手伝うようになった。

朔太はその頃働いたり働かなかったりと親に睨まれながらもフラフラと暮らしていた。

「俺が結花と上手くいかなかったのお前のせいだからな…!」

「いんや…関係無えと思うけどな…」

「…」

朔太も薄々そうだとわかっていた。

初めから自分は結花の眼中に入っていない。

今更冷静に考えると、なぜ自分は褌の脱がせ合いで彼女の心を射止められると思ったのか、急にバカバカしくなってきた。

そんなことよりももっと彼女の気持ちを振り向かせられることはあったのでは無いか。

「テツ、俺は決めたぞ」

「なにを?」

「俺は東京行く」

「なんで?」

「なんでも!」

朔太は結花のお眼鏡に適う男になるため、自身も東京に行き、己を磨くことを決意した。




両親と大喧嘩した末、逃げるように家から出た朔太は上京するも、その暮らしは冴えなかった。

学も、これと言った資格も持たない朔太に出来る仕事はシンプルな肉体労働くらいな物で、給料が良いとは言い難いが生活のためにバイトに勤しんだ。

日中働き、家賃3万円の古ぼけた風呂無しアパートに帰って眠る日々。

煎餅布団に横たわって天井の染みを見る度に思う。

「これが華の東京での暮らしか?」と。

今頃結花はどこで何をしているのか、確認する術は無く、時々悶々と悩む。

夜、どこからか聞こえてくる気の狂ったような怒声。

出勤途中、駅ですれ違い様に肩がぶつかった相手からの舌打ち。

地下から這い上がってくる下水のなんとも言えない悪臭。

なにかと田舎者と馬鹿にしてくる職場の嫌な先輩。

上京してからしばらくすると、それまで抱いていた都会への煌びやかなイメージは瓦解した。

都会は便利だし娯楽に溢れているが、なんだか皆余裕が無くて息苦しい。

朔太は次第に東京での暮らしに疲れ始めていた。

めげずに都会人らしくなろうと、思い切って髪を金に染めてみた。

全く似合っていないが、彼はなんとなく高揚した。

しかし朔太の都会人のイメージはそこまでであり、それ以上なにをすればシティボーイに近づけるのか、わからなかった。

今の俺を結花が見たらどう思うだろうか。

少しは気を引けないだろうか。

職場が男ばかりだったこともあって、都会に出ても異性と知り合うことはほとんどなく、朔太はいつまで経っても初恋を引き摺った。


上京してから5年経ったある日、実家から電話が来た。

「父が腰を痛めて動けなくなったからこっちに来てほしい」とのことだった。

無理を言って上京した手前、今まで地元に帰っていなかったが、東京の暮らしに疲れていた彼は帰る良い言い訳が出来たと内心安堵し、職場にしばらく休むことを告げた。


実家に帰ると父が庭でアイスを舐めながら犬と遊んでいた。

「心配して帰ってきたのに…」

「んなっ、お前ぇなんだその頭!」

朔太はひとしきり小言を喰らったが、予想していたよりも家族は快く迎え入れてくれた。

林業を営む父は以前から腰を痛めていたが、この前とうとうそれが爆発した。

今は多少良くなり、日常生活を送る分にはさほど不便しないが、また以前のように働けるかはわからない。

「お前、またこっちで暮らさねえか?別に東京でやりたいこととかねえべ?」

図星である。

なにか大逸れた野望があって上京したわけではない。

破れた初恋の未練から、力有り余る若者が暴走しただけだ。

しかしそれを簡単に認めてしまってはこの5年が無駄な時間だったと認めてしまうような気がして、朔太は言葉を濁した。

「まあ、すぐにとは言わね。お前も色々あるだろうしな」

「…」

特に無かった。


久しぶりの実家の飯は美味かった。

ここで初めて両親と酒を飲み交わしたが、それも美味かった。

東京で酒に纏わることと言えば、居酒屋で虚言癖のある先輩から延々真偽不明の武勇伝を聞かされた思い出と、職場で不当に扱われて、帰り道で自棄になって涙ながらに呷ったストロング系チューハイだ。

苦い酒ばかり飲んできた朔太は今更初めて酒の楽しさを知った気がした。

実家の空気に凝り固まった精神が柔くなりつつあった朔太。

その時母が不意にこんなことを言った。

「そういえば、結花ちゃんも最近こっち帰ってきたらしいな」

「あぁ〜、朔太と同い年の…」

「…っ!」

朔太は久しぶりに聞いた結花の名前に、思わず動揺した。




「よぉ、久しぶり…」

「…サク?」

結花の家の近くまで自転車で走り、偶然を装って朔太は再会を果たした。

「どこ行くん?」

「スーパーまで、散歩がてら」

「チャリの後ろ乗ってくか?」

「いや、いい…」

二人並んで、畦道を歩く。

結花はすっかり大人になっていた。

美しく、落ち着いた雰囲気。

しかしどこかそれには翳りがあった。

「俺もよ、東京行ってたんだよ」

「うん、お母さんから聞いた」

「大変だよな〜、東京」

「そうだね」

「…また戻んの?」

「…さぁ、まだわかんない」

「…」

会話はさっぱり盛り上がらなかった。

朔太は同じく都会で苦労したはずの結花に一皮剥けた、一回り大きくなったはずの自分を見てもらいたかった。

少しでも、振り向いてほしかった。

「…東京でなんかあった?」

朔太は問う。

「…別に」

結花はやはり冷徹である。

「…俺も東京行って、それなりに苦労したからよ…なんでも話聞くぞ」

「だからなんもないって…」

「なんかあったそうな顔してるって!俺も大変だったからわかるんだって!なんでもいいから話そ…」

その時、結花が朔太の自転車を思い切り蹴り付けた。

「うぉおおおッ!?」

自転車と共に倒れた朔太は田んぼの沼に転がり落ちた。

「うるさいわお前っ!人の内心にズケズケと踏み込んでくんなっ!あとその金髪ムカつくわボケッ!」

結花はそう吐き捨てて立ち去った。

「…」

朔太はゆっくりと沼から這い上がる。

シャツの中で蛙が暴れていた。




「父ちゃん、田んぼに落ちて自転車壊れたわ」

「なにやっとんだお前ぇっ!」

車輪が歪み、走れなくなった自転車を押して、泥に塗れた朔太は帰宅した。

帰るなりすぐに風呂に入る。

いくら頭を洗っても泥が滲み出てきた。

頭に湯を被りながら朔太はなんだか無性に泣けてきた。

俺は俺なりに苦労して、昔よりは成長したつもりだった。

しかし結花を振り向かせるどころか、デリカシーに欠けた振る舞いでむしろ怒らせた。

俺は醜態を晒して敗北したあの頃とまるで変わっちゃいない。

朔太は掻き毟るように頭を盛んに洗った。


風呂から上がると居間から談笑が聞こえる。

向かうと見慣れた懐かしい顔が胡座をかいていた。

「おぉ!サクちゃん!久しぶり!」

「テツ…」

仕事終わりの哲治が採れたばかりの野菜を持ってきていた。


「サクちゃん元気してたか?」

「まぁなぁ…」

縁側で涼みながら二人はビールを開けた。

朔太は先程ポケットに入れていて泥に濡れたハイライトの中身を確認したが、とても吸えそうにはなかった。

小さく舌打ちをすると、哲治が横から何かを差し出す。

「ん」

エコーが一本、箱から飛び出ている。

朔太はそれを抜き取り、線香に使うマッチで火をつけた。

「サクちゃん、東京行って嫌な奴になってたらどうしようかと思ったけど、変わって無さそうで安心したわ」

「変わってねぇか、俺?」

「田んぼに落ちて自転車壊すのはサクちゃんらしいよ」

「うるせえ…」

哲治も以前と変わらない。

だが、昔の印象そのままにより逞しい青年に成長していた。

「そういや、結花も最近こっち戻ってきたぞ」

「知ってる…」

「よくわかんねえけど、あの様子だと向こうでなんかあったっぽいな」

「あぁ…」

「あぁって…結花に会ったの?」

口を滑らせた。

「サクちゃんもしかしてまだ結花のこと好きなんか?」

「ちがうちがうちがう!たまたまの偶然だ!」

哲治はその様子を見ながら笑い、酒を呷った。

「狭い村なもんで、みんな人ん家のこと気にすっけんども、人それぞれ色々あんだから放っときゃいいのにな」

「…」

哲治がやけに大人びて見える。

東京で己を磨くはずが、田舎に残った哲治のほうが一段と大きくなったような気がして、朔太は若干気落ちした。

「お、そうだ。サクちゃんせっかく帰ってきたんだからあれ出るべ?」

「あれ?」

「雄突強よ」

「…」

その言葉も久しぶりに聞いた。

もうそんな時期だったか。

「…出ねえ」

「なんでよ?」

「お前ぇ、俺にどデカいトラウマ作っといてよく誘えるな…」

「俺のせいにすんなよ〜、サクちゃんが助平なだけだべ?」

「うるせえ!」

都会に出て知った、雄突強の異常性。

同じ職場にも田舎出の者はいたが、故郷でこんな珍奇な祭りをやってる者はいなかった。

幼い時から身近にあったため気づかなかったが、この祭はよく考えたら変だ。

「テツ、お前知らないだろうけど、この祭、他んとこの者から見たら大分変だぞ?」

「そうかね?祭なんて楽しけりゃいいべ?」

「これを楽しいと思ってんのが変だっての!」

朔太は思わず声が大きくなった。

哲治は釈然としない様子である。

「そうかい?まあ、無理にとは言わんけども、俺ぁサクちゃんとまたやりたかったなぁ〜」

「お前ぇは最後に勝ったんだからいいだろ…」

「いんや、俺ぁあれを勝ちとは思ってねぇよ。サクちゃん明らかに油断してたもん」

「…」

「今度ばっかは真剣にやって、ちゃんと決着つけたかったんだがなぁ〜」

哲治は自分もエコーを一本咥えて、火をつけた。

「サクちゃんも結花も、東京行って、色々経験して、意識が変わった部分あるんだろうけどな。でもな、生まれ育った土地の良さってのも忘れねえで欲しいけどなぁ…」

「…」


布団にくるまって、朔太はこれまでのことを反芻する。

結花に見合う男になるため踠いてはみたものの、結局自分は変われたのか、それともなにも変わらなかったのか。

高三の雄突強に負けた時にこのままでは駄目だと思ったが、本当にそうか。

地元の全てを捨てて、新しい自分を作り上げたら結花は振り向くのか。

そうではない気がしてきた。

少なくとも自分は、今の半端な自分よりも十代の頃、褌の奪い合いという馬鹿げた競技に真剣になれたあの時の自分の方が好きだ。

この際、結花は関係ない。

俺はまた、俺のことを好きになりたい。

半端なままでは嫌だった。




「結花!」

「…また来たの」

翌日、再び結花を待ち伏せて朔太は現れた。

「もう来ないでくれない?迷惑だから…」

「ちょっと待って!ちょっとだけ話を聞いてくれ!」

朔太の心拍が昂る。

高三の時、結花に告白したあの日を思い出していた。

「一週間後、雄突強やるだろ?俺も出るから見にきてくれないか!」

「…は?」

「勝ったら付き合ってくれとかもう言わね!だけど見にきてほしい!」

結花は溜息を吐いた。

「行くわけないでしょ、あんな変態みたいな祭…あんたも東京しばらく住んでたからわかるじゃん、あれおかしいよ…」

「あぁ、おかしい!現代の倫理観じゃ一発アウトだと思う!」

「…そうでしょ。馬鹿みたいじゃん…」

「だけど俺にはきっと価値あることだ!」

「…」

「俺は馬鹿みたいなことを一生懸命やる!その一生懸命を結花に見てほしい!」

朔太の額から汗が流れ落ちた。

結花は目元に垂れた前髪を鬱陶しげに払う。

「…なんでそんなにアタシに絡むの?」

朔太は無意識のうちに拳を握りしめていた。

意を決したように、言葉を発する。

「…結花がいい女だからっ」

「…」

「東京にもいっぱい綺麗な人がいたけど…俺にはやっぱり結花が一番だからっ!だから…………あぁもうよくわかんねッ!」

朔太は踵を返した。

「とにかく見にきてほしい!来たくなかったらしょうがないけど…待ってるから!」

「…」

朔太は遮二無二畦道を走り出した。

久しぶりに心からの高揚を覚えた。




一週間の間に出来る限りのトレーニングをし、感覚を僅かに取り戻した朔太は久々の雄突強に臨んだ。

ブランクはあったが、東京でも肉体労働で鍛えられており、身体の動きは悪くない。

対戦者は衰え始めた中年ばかりで、苦戦することなく勝ち進んだ。

危うげだったのは準決勝。

相手は村一番の巨漢、東上功輔(とうじょうこうすけ)。

年齢は三十五歳。

体重無差別の雄突強ならではの体格に物を言わせた豪快な戦法を取る猛者である。

対戦中、東上の分厚く巨大な平手が朔太の顔面に直撃した。

強烈な張り手に鼻血を噴き出し、意識が飛びかけたところをギリギリで堪えた。

受け身を取りつつ倒れ込みながら、爪先で東上の股座を蹴り上げる。


どぢゅっ


「んがァッ!?」

東上は苦悶の声を上げた。

雄突強はほとんど喧嘩と違わない危険な祭である。

大抵の格闘技ならば禁じ手である攻撃も雄突強ならば許されるのだ。

朔太は蹴りと共に足の指先で褌の布を絡め取り、引き摺り下ろした。

東上の赤く腫れ上がった睾丸が露出した。

強烈な金的に戦意を失った東上はそこからの逆転を諦め、半ば自ら褌を脱ぎ捨てた。

そこで和太鼓が激しく叩かれる。

朔太の勝利が確定した。




決勝戦。

朔太は足腰を軽く捻り、最後の戦いへの準備をする。

「サク〜!お前またおったってんじゃねえのか〜!」

ギャラリーから野次が飛ぶ。

「うるせぇっ!」

と言いつつ朔太は笑みを浮かべた。

昔は死にたくなるほど嫌だったが、今は笑えるくらいに余裕がある。

ちんぽくらい勃つさ。

まだ若いんだから。

勃たねえよりかよっぽどマシさ。

「…」

朔太は周囲を見回した。

結花どころか女性はほとんど来ていない。

男同士が褌を奪い合って全裸になる醜い催しなぞ、誰が見たがるだろうか。

しかし朔太は落胆しなかった。

声をかけたのはダメ元で、結花が来るとはハナから思っていない。

今日自分が戦うのは何より己の納得と満足のためである。

哲治が準備を終えて、土俵に入る。

岩を粗く削ったような、無骨で逞しい哲治の肉体。

彼の試合を見てきたが、以前よりも更に力を増したように感じた。

今日こそは五年前の失態を払拭する。

リベンジだ。

向かい合う、朔太と哲治。

「サクちゃんとやるのは五年ぶりか?」

「…おう」

「都会暮らしで鈍っちゃいねえだろな?」

「試してみろよ」

「…おっしゃ!やろうぜ!」

この戦いに全力を尽くす。

これを終えた時に俺は、今度こそ何かが変わる気がする。

そんな予感を胸に、朔太は地を踏み、蹴り出した。




同時に相手へと突進した二人は同じ形で衝突する。

相撲のようにがっぷり四つに組み合う。

互いに互いの褌を掴んだ。

雄突強は脱がせれば勝ちである。

戦いが終わった後の褌の状態は問題にならない。

引き裂いてでも奪い取れば勝ちだ。

双方両腕に渾身の力を込めて、褌を引く。

力が拮抗し、静止した。

その時、朔太の褌が微かに唸った。


びっ…びしっ…


褌が裂かれはじめている。

哲治の方が若干腕力が上だ。

このまま行けば負ける。

直感した朔太は次の攻撃へと移る。


ぐごっ


「…っ!」

地を踏み蹴り、右膝を哲治の腹へと叩き込んだ。

僅かに弛む、哲治の握力。

更に朔太は、哲治の額へ頭突きを加えた。


ごぅっ


哲治の眼前に光が散る。

朔太は両腕で哲治の胸を押し退けると、二人はようやく身体が離れた。

「痛ちぃーっ!サクちゃん容赦ねえべっ!」

哲治が額を手で摩りながら叫ぶ。

「全力でやりたいんだろ!お前ぇも本気で来いっ!」

朔太は膝を軽く曲げ、前傾姿勢で両手を正面に出す。

恰もそれはレスリングの構えだ。

褌を奪われたら終わるこの勝負。

相手から褌を遠ざけつつ攻守共に転じやすいこの構えは雄突強に於いてオーソドックスな形である。

朔太が優勢に思えた先の展開。

しかしここで朔太が更なる攻撃を加えなかったのは哲治のタフネスと極め技を知っているからだ。

哲治が最も得意とするところは寝技。

一旦地に引き込まれればまず逃れられない。

高校時代、練習中にうっかり失神させられたことも多々あった。

気絶して行動出来なくなればその時点でほぼ負けだ。

それだけは喰らうわけにはいかなかった。

「くっそぉ〜!頭きたぞサクちゃん!俺ももう容赦しねっ!」

哲治は頭をぐるんっと振ると、朔太へとのしのし歩み出した。

農作業で節くれだった太い指を広げて、徐々に間合いを詰めてくる哲治。

掴まれたら哲治に引き摺り込まれる-


不意に、哲治の身体が一気に迫り来た。


速い。

だが。


ぱぁんっ


「…っ!?」

哲治の顔面が強か弾かれた。

朔太の左拳が哲治の掴みよりも素速く動き、顔を叩いていた。

東京のバイト先の先輩がボクサーで、無理やり自主練に付き合わされた経験が活きた。

見様見真似のジャブ。

思いの外上手く決まった。

一瞬意識が逸れた哲治の脇腹に、朔太は鋭い蹴りを喰らわせた。

「ぐぬッ!?」

哲治は蹌踉けながらも腰を引き、褌を身体で隠す。

雄突強で最大の急所は頭でも首でも鳩尾でもない。

褌だ。

朔太は若干後退し、間合いを広げる。

いい調子だ。

哲治の鋼の肉体。

本格的に打撃を学んだわけではない自分の技では大したダメージにならないだろう。

しかし一定の間合いを保ちつつ、掴まれないように警戒しながら攻撃し続ければ、いずれチャンスは生まれる。

雄突強に時間制限は無い。

かつて三時間にも及ぶ死闘を繰り広げた益荒男もいたという。

じっくりと攻め、頑強な哲治の牙城を崩し、ここぞという時に一気に動く。

持久戦だ。

「いいぞ〜!サク〜ッ!やったれ〜ッ!」

「止まんな〜ッ!面白くねえぞ〜ッ!」

ギャラリーは今日一番の盛り上がりであった。

「うるせぇ…」

朔太は小声で呟く。

遊びでやってるアンタらと一緒にするな。

軽率に攻めたら負けるのだ。

負けたくない。

今日誰よりも雄突強にマジなのは俺だ。

「…!」

哲治は腰を落とし、両腕で頭を守りながら朔太を睨む。

「…」

哲治のあの眼。

あの眼になった時の哲治は本気だ。

柔道部時代、あの眼の哲治に朔太は勝ったことが無い。

ここまでの朔太の立ち回りに、哲治は彼の真剣さを感じ取り、そしてそれは伝播した。

「しッ‼︎」

短く、鋭い呼気を吐くと、哲治は構えたまま猛烈な勢いで走り出した。

「ッ!?」

不味い。

朔太は即座に左に跳んだが、避け切れず、哲治の肉弾に衝突した。


ぐぼぅっ


「…ッ‼︎」

視界が反転し、地に叩きつけられる朔太。

倒れた朔太に向きを変え、迫る哲治。

体勢を立て直そうとするが、それよりも哲治が速い。

「んらぁッ!」

朔太は哲治の左膝関節を横から蹴りつけた。

ガクンと、体勢を崩す哲治。

そのまま転がり、朔太は逃げようとするが、


どうぅっ


「ッ!?」

哲治は倒れ込みながら朔太に覆い被さった。

「捕まえたぞ…サクちゃん…!」

避けたかった状況に陥った。

朔太は全身に力を漲らせ、踠き、抵抗するも、哲治は冷静に、着実に朔太の可動域を潰し、抑え込みにかかる。

その動きはまるで不定形の粘菌のように絡みつき、朔太の自由を奪う。

いつの間にか左腕に哲治の両腕が交差し、固められた。

目の前には哲治の分厚い岩肌のような胴体。

朔太の顔面が、その厚い肉壁に、強引に押しつけられる。

これは、腕がらみ。

柔道の鬼 木村政彦が発明したことから通称キムラロックとも呼ばれる関節技だ。

左腕に走る、激痛。

「んぬぐッ‼︎」

手首を掴み、自身の腕と相手の腕の間にもう一方の腕を差し込んで、捻り、締め上げる。

この状態が続けば、腱、靭帯が千切れ、脱臼もあり得る。

ただでは済まない。

右腕で攻撃しようと試みるが、両脚で押さえつけられてしまう。

更には胴体で口元が塞がれ、上手く呼吸が出来ず、余計に体力を消耗する。

完全に哲治のペースに嵌った。

朔太は必死に暴れるが哲治の密着は剥がれない。

「サクちゃんっ!腕がイカれちまうぞッ!降参しろッ!」

降参?

この場合の降参ってどうなるんだ。

褌を奪うのが唯一の勝敗の決し方。

なれば、降参というのはつまり自ら褌を脱いで対戦者に渡すことになる。

なんだそれは。

間抜けにも程があるだろう。

ある意味勃起した己を晒すより惨めな姿だろう。

というか、哲治。

全力とは言ったが全力で殺しにかかり過ぎではないか。

久しぶりに帰ってきた幼馴染に花を持たせてやろうとか、そういう気遣いが出来ないのか。

そんな思考が脳内で巡っている内にも左腕は更に極まり、痛みはもはや痺れに変わる。

「んむぅうッ!!!」

口を塞がれて、言葉にならない悶絶の叫びを上げる朔太。

どうしよう。

痛すぎる。


…負けちゃってもいいんじゃないか。


俺が東京でグダグダとよくわからないことをしている間に、哲治は以前よりも強くなった。

この哲治に敗北したとて恥ではないだろう。

むしろ五年のブランクがあってここまでやれたのは誇っていいのではないか。

痛みと酸素の不足により、理性を失いつつある朔太に「健闘したが惜しくも準優勝」という選択が甘い響きと共に発生した。

そうだ、負けても準優勝。

しかも決勝がこいつ。

負けても仕方ない。

寝技に持ち込まれるまでは接戦だった。

あれだけ頑張ったんだ。

もう諦めても充分格好はつくだろう。

まぁでも、あとちょっと耐えよう。

もうあと20秒、いや、10秒くらい頑張ったら偉いと思う。

あと10秒。

あと10秒だ。

朔太の中で敗北までの謎のカウントダウンがはじまった。

9秒。

8秒。

10数えたらタップしよ…

7秒。

6秒。

5秒…




その時、朦朧とする朔太の視界に意外な人物が現れた。

薄汚れた半裸の中年男たちに紛れて、場違いなくらい美しくて、冷ややかな目つきの女が佇んでいた。

「…ッ!?」


結花!


朔太は幻覚だと思った。

クールでリアリストな結花が俺なんかの誘いに乗ってこんな物見に来るわけが無いのに。

参ったな、期待してたつもり無かったけど、やっぱり結花を待ち望んでいたらしい。

都合よく幻なんか見やがって、馬鹿野郎…






いや、それでも。

例え幻だったとしても。


ベタ惚れした女が見てるとこでは負けたくねえッ!






「痛ッ!?」

突然哲治の胴に激痛が走る。

「ッ!?」

朔太が、哲治の腹に歯を食い込ませ、噛みついていた。

「バッカっ!?お前ぇ何噛んでんだッ!犬かコラッ!!!」

哲治は怒鳴りつけるが、朔太はむしろより強く噛みついた。

皮膚を破り、血が溢れ出し、肉へと深く、突き刺さる。

「痛ぇよッ!バカタレッ!」

その時、僅かに哲治の力が弛んだ。

瞬間、朔太は全身のバネを駆動させ、全力で跳ねた。

腕がらみが、外れた。

「のぉらあぁッ!!!」

朔太は哲治を押し除けて、身体の自由を取り戻す。

その時朔太の前歯がへし折れて、哲治の腹に突き刺さったまま二人は離れた。

今度は自分が地に転がされた哲治。

すかさず朔太は右手で哲治の褌を鷲掴んだ。

「あッ!てめぇッ!」

強引に引っ張る朔太。

「離せ畜生ッ!!!」

こうなったら技も駆け引きもない。

ひたすらに哲治は目一杯朔太を殴打するが、朔太は手を離さない。

今掴んでいるのはただの褌ではない。

こいつが俺の未来だ。

強靭な意志が、朔太に限界を超えた握力を与えた。

「てめぇッ!この野郎ッ!!!」

哲治の岩石のような拳骨が、朔太の顔に正面から直撃した。

鼻が潰れ、血を噴き出し、目から涙、口から血混じりの唾液が飛散する。

だが、朔太は止まらない。

止まるわけが無かった。

一つの目的を定めた馬鹿は世界一強いのだ。


「だりゃあああああッ!!!」


強引に引っ張られ続けた哲治の褌はついに耐え切れなくなり、引き裂かれた。

試合終了の和太鼓が響き、地を震わせる。

それと同時に、朔太の気力と体力は底をついて、意識は彼方へと飛んだ-






「よぉ、元気?」

「…アンタよりはね」

朔太は三度、結花の元に現れた。

左腕には包帯が巻かれ、顔面は痣だらけ。

前歯も一本抜けたままだった。

哲治の腕がらみにより靭帯を軽く損傷したが、二週間ほどで治ると医者からは診断された。

雄突強の後、失神して自宅へと担ぎ込まれた朔太は目覚めた後両親からこっぴどく叱られた。

たかが祭りでなにをそこまで無茶してるんだ。

馬鹿かお前は。

酷い言われようだったが、朔太は何故かそんな自分が誇らしかった。


雲が僅かに浮かび、太陽照りつける晴天の元、肩を並べて畦道を歩き出した朔太と結花。

「…この前さ、見にきてくれたよな」

「…うん」

「どうだった?」

「………馬鹿だと思った」

その言葉に朔太は笑った。

結花も朔太につられて少し笑みを浮かべる。

「俺さ、ここでまた暮らそうと思う。親父は大分ガタきてるみたいだし、東京はあんまり肌に合わなかったし…俺にはここが合ってるよ」

雄突強の後、朔太の気持ちは自然とその方向に落ち着いた。

それが一番良い選択に思えた。

「…結花は、どうする?また東京に戻る」

「…」

結花は目元にかかった前髪を鬱陶しげに払った。

「…いや、もう東京はいいかな。飽きたし、疲れたから…」

「…そうか」

しばし二人は黙って、歩き続けた。

遠くから鳥の雄叫びが微かに聞こえた。

「…」

朔太は俄かに口角を歪めた。

それを見た結花は眉を顰める。

「なに、気持ち悪い…」

「いや…結花もここにまた居てくれるのかと思ったら…ちょっと…」

「本当に気持ち悪いなお前…いつか訴えるよ」

「いや、ごめん…本当にごめん…」

しおらしく頭を下げる朔太に、思わず結花は笑った。

「サクって昔から馬鹿で気持ち悪いけど…でも、面白いわ」

「…………それって、付き合っ…」

「付き合わないけどね」

朔太は肩を落とした。

「…でも、まあたまには構ってやるよ」

「…マジで?」

結花は無言で頷いた。

「…!」

朔太の心に、穏やかな風が吹き抜けた。

少年時代から抱き続けてきた想いが、なんだかようやく、報われた気がした。

「じゃあさ!どっか遊びに行こうぜっ!」

「気が早いっての…そういうとこホント無理…」

「ジャスコ行こ!ジャスコ!俺ジャスコでデート夢だった!」

「発想がかっぺなんだって…あと、もうジャスコじゃなくてイオンだから…」

「え、マジ?」

一人で盛り上がる朔太を見ながら、結花は微笑んだ。

「…まあ、いいよ。今度行こ」

「よっしゃあっ!」

「その前に…」

「…?」

「お前その金髪剃れ」

「………はい」


ひたすらに広がる田圃の合間を、二人は歩き続けた。





(了)

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雄突強 猫太朗 @nktro28

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