エフォート(No.15)
ユザ
(1)
ペダルを漕ぐ足が重たい。最近の朝はとくにそれを感じる。乾燥した冷たい空気は容赦なく僕の耳を攻撃し、無断で制服の袖口から中へ侵入してきた。サドルに座ったまま軽く身震いを起こし、鳥肌がたつ。僕は今朝のニュースで「今日は一日を通して冬らしくない暖かい気温となりそうです」と、自信たっぷりに告げていた女性の天気予報士を早速恨んだ。この前買ってもらった厚手のカーディガンを着てこなかったことを後悔する。だって、暖かい気温となりそうですと言っていたから。いまさらどこにぶつけても自業自得だと跳ね返ってきそうなやるせなさを舌打ちに乗せ、口元周りの空気を濁した。それからふと今朝の星座占いもあまり順位が良くなかったことを思い出す。どうでもいいが、ラッキーカラーはむらさき色だった。悩んでいたことが少しだけ解決するかもしれません。そんなことを言われても、慢性的に積み重なったそれが今すぐに片付くとは到底思えなかった。
国道沿いにある、緑色の看板が目印の床屋を通り過ぎて、コンビニの脇道を右折し、なだらかな坂道をのぼった先に四階建てのビルがある。半透明の屋根に覆われた駐輪場には、すでに十台ほどの自転車が停まっていた。
荷台下の泥よけには様々な学校の名前が記されたステッカーが貼ってある。僕はそれを見て、あいつとあいつとあいつがもう来ているのかとその顔を頭の中に思い浮かべた。ちなみに、僕と同じ学校のステッカーが貼ってある自転車は今のところない。少なくとも、同じ学年の中に、この塾に通っている生徒は一人もいなかった。理由は明白。ここが校区外だからだ。
自宅から一時間近くもペダルを漕いだところにあるこの塾は、毎年、僕が志望している難関高校へ数多くの合格者を輩出していた。その進学率は県内でも随一だった。いままで習い事というものに馴染みのなかった僕は、ネットの口コミだけを頼りにこの塾に通うことを決めた。いずれにしろ、親からは塾に通うことを軽く勧められていた。ただ、まさかそれがこんなにも遠い場所にあったとは、思いもしなかったらしい。どうしてもこの塾の冬期講習に通いたい、と親に説得を試みたところ、それならせめてもの運動だと思って自転車で行きなさい、という条件付きで了承を得ることができた。自分から言い出した以上、車で送ってよ、とはさすがに気が引けて言いえなかった。
両開きの自動扉の入口からビルの中へ入り、受付の女性事務員に挨拶をする。
「おざます」
「おはようございますっ」
僕は軽く頭を下げながら彼女の大きな胸に目をやった。これで顔がよかったら好きになってたんだけどな、と思いながら正面の階段をのぼった。途中の自動販売機に硬貨を投入し、迷った末にグレープジュースを買った僕はそれを手に忍び足で四階の自習室に入った。
開放的な室内に三列で並べられた長机は、等間隔で仕切り板がたっており、およそ三十人ほどの個人空間が確保されていた。すでに五人の学生が、あちこちに散らばって黙々と勉強に励んでいる。僕はその邪魔にならないように息を潜め、彼らの後ろを通り、入口から一番遠い観葉植物の隣の席に移動した。それから椅子の上に荷物を置き、トイレへ向かった。
とくに尿意を催していたわけではなかったが、個室トイレの中に引きこもり、そのまましばらくスマホの漫画アプリを開いて時間を潰した。自習室では基本的にスマホの使用が許されていなかった。勉強漬けの日々に息が詰まることも少なくない中で、こうした現実から遠く離れたところに意識を逃す行為は、僕にとって必要な時間だった。それがたった五分でもずいぶんと気が楽になる。
自習室へ戻った頃には、さっきと比べて生徒の人数がずいぶんと増えていた。いつの間にか席はほとんど埋まっている。人口密度の高さに比例して、空気中の酸素がさっきよりも幾分か薄くなっているような気がした。それでなくとも、さっきまでの静寂とは打って変わった騒々しい空気感のせいで、もはや勉強するような雰囲気は室外へと押し出されていたようにも思えた。最初からいた五人の生徒も潔く自習を諦めていたようで、他の生徒たちと楽しげに談笑していた。
誰に声をかけられることなく席についた僕は、壁時計を見上げ、リュックのファスナーを開けた。その中に手を突っ込み、やがてその手は行き場を失ったように止まる。
朝イチの授業が始まるまで、あと三十分は残っていた。そのあいだに、昨日実施された実力テストで間違えた箇所を復習しておきたかったが、僕はその場の空気感に耐えられそうにないと悟った。それからはとくに何かをするわけでもなく、グレープジュースをチビチビと飲みながら、人知れず周りの会話に耳を傾けていた。そのほとんどは実力テストについての話題だった。ここが難しかった、あの問題は簡単だった、全然時間が足りなかった、思っていたよりも解けた、その他にも云々かんぬん──。
僕はあちこちで飛び交う会話の端々から、自分以外の学生の学力についての情報を収集し、それを独自に分析し、現在、自分の実力がこの塾内でどれくらいの位置にあるのかを推し量った。四日に一度のペースで実施されていた実力テストにより、生徒はその成績順に三つのクラスに割り振られていく。上位者から順に、特進クラス、総合クラス、努力クラス。下位二つのクラスについては、生徒たちのあいだでは一般クラスと一括りに総称されており、とくに進学校への受験を志望していた生徒たちは、特進クラスと一般クラスの二つしかないものだと認識していたところがあった。
この冬、僕は冬期講習に通い始めてから、いまだ一度も特進クラスから落ちたことがなかった。だからこそ、その地位をこの中の誰かから脅かされることを密かに恐れていた。学校と比べて、この塾に通う生徒たちは総じて学力的な平均値が高かった。うかうかしていれば、簡単に足元を掬われてしまう。
僕は自然な成り行きで、いずれは良い大学に入って、有名な会社に勤めるのだろうという人生設計を構築していた。たかが高校受験くらいで躓くわけにはいかない。いつしかそんな使命感を背負いながら、勉強と向き合うようになっていた。頑張った人にだけ相応の報いは訪れる。小学三年生にもなると、そういった観念が薄らとしていた僕の輪郭を色濃くなぞった。呑気におしゃべりしている人たちになんか、意地でも負けるわけにはいかない。とくに、勉強とはまったく関係のない話題で盛り上がっている人たちには、絶対に負けたくなかった。
ってか昨日のニュース見た?
見た見た。『タツの子』の狩野が結婚したってやつだろ?
相手は一般人だってな。昔のバイト先が一緒だったとか言ってた。
羨ましいよなその一般人。だって相手はあの狩野だぞ?
まあな。去年のキン漫で優勝して以来、テレビで見ない日はないし。
あの時のネタめちゃくちゃ面白かったよな。俺、クソほど笑ったもん。
わかる。それにあいつらコントも面白いんよな。
今年のコントワングランプリもあと一歩で優勝だったからな。
惜しかったよな。来年こそは、前人未到の二冠を達成してほしいんだけど──。
僕はダイヤルを回してラジオの周波数を合わせるように、後ろから聞こえてくるその会話から意識を遠ざけた。それからリュックサックから単語帳を取り出し、手書きの英単語に目をやり、自分でも聞き取れないほど小さな声でその意味を唱え、カードの裏面を見てすぐに答え合わせをする。それを淡々と五分ほど繰り返したあと、僕は壁時計で時刻を確認して席を立った。特進クラスの授業は三階の教室で実施される。早めに行って、いつもの定位置を確保しておきたかった。
すぐ横の席に座っていた男子二人組は、いまだにお笑いコンビ『タツの子』の狩野が結婚したというニュースについて、和気藹々と語り合っていた。彼らはどちらも緑色のブレザーを着用していた。中高がエスカレーター式で繋がっている私立校のものだ。受験シーズンなんてものには縁のない人たちだ。こちら側の苦労や緊張感など知らない呑気な人たちだ。しかも、噂によれば彼らは高校卒業と同時に、お笑いの養成学校に入学する約束を交わしているらしい。きっと勉強なんてどうでもいいと考えているに違いない。僕は彼らに対してそんな印象を抱いていた。
将来への期待感で満ち溢れたような彼らの姿を見ていると、なぜだか自然と胸の中で濃い影が伸びていった。それは瞬く間に僕の光を蝕んでいく。すれ違いざまに、僕は彼らの頭上で唾を吐き捨てるように小さく舌打ちをした。なんで僕がこんな奴らに──。しかし彼らがこちらの舌打ちに気付く様子はまったくなかった。きっと僕は彼らの眼中にもないのかもしれない。そんなことを思うと、影はさらに僕の肉体を蝕んでいった。
自習室を出る直前、あろうことか彼らは僕に声をかけた。
「ねえねえ、真面目くんっ」
二人のうち天然パーマの方の声に、僕は足を止めた。振り返ると、今度はもう片方のサラサラヘアの男がその会話を引き取るように、「真面目くんも『タツの子』の漫才って観たことある?」と尋ねてきた。
「まあ、少しだけなら」と僕は小さく肯いた。
「ちなみに何のネタが好き?」と天然パーマは言った。
「あの釣りのやつ……」
「わかるわかる。あれ面白いよなっ」とサラサラは弾けるような明るい声で同意する。やがて束の間の沈黙が訪れた。
普段から人と目を合わせる習慣がなかった僕は、さっきからずっと足元に目を落としていた。やがてその沈黙に耐えられなくなり、僕はそそくさと彼らから逃げるように自習室を飛び出した。
足早に階段を下りながら、僕は先ほどの会話についてひとしきり反省していた。呑気にお笑いの話なんかしている場合ではない。彼らと戯れるために、わざわざ一時間もかけて塾に通っているわけではないのだから。むしろ、彼らは僕にとって敵も同然ではないか。
たしかにお笑いコンビ『タツの子』のことは、月並み程度に知っていた。そのボケ担当である狩野が業界で「天才」と呼ばれていることも、なんとなくは認知していた。昨年のクリスマスイブに開催された、キングオブ漫才(通称『キン漫』)の決勝戦で披露した釣りのネタは、素人目に見ても天才的だと衝撃を受けた。
大学在学中からコンビを組み、それから九年が経って初の決勝の舞台に立った彼らは、それほど前評判が高かったわけではなく、周囲からもまったく期待されていなかった。それでも二人は大御所の審査員や大勢の観客に臆することなく、出場者の中で最も楽しそうに、そして誰よりも胸を張って漫才を披露していた。その姿が僕の目にも輝いて映った。そのあとのことについては、先ほど二人が喋っていた内容に合致する。狩野が結婚したというニュースに関しては、昨夜遅くに一人でご飯を食べている最中に、テレビを見て知った。
とはいえ、そのニュースが僕の中で一大スクープとして扱われることはなかった。受験生というのは、他人の色恋をいちいち気に留めるほど暇じゃない。ましてや、これから一生関わりを持たないであろう芸能人の結婚なんかに一喜一憂できるほど、僕の頭の中には誰かを祝福できるだけの余白は残っていなかった。そんな暇があるなら、英単語のひとつでも覚えた方がいい。
三階の第二教室に到着すると、僕はまっすぐにホワイトボードの真正面の席へ向かい、机の上に荷物を置いた。室内には他に三人の女子がすでに窓際の席を陣取り、身を寄せ合いながら談笑していた。
それから程なくして先生が入室してくる。先生は今年の夏から、この塾で働き始めたという新任の講師だった。担当科目は数学で、生徒からは教え方がわかりやすいと評判だった。それに加えて、自身の学歴についても申し分なかった。難関大学を卒業しているというだけで、その人の言葉には不思議と説得力が増すものだ。以前は大手企業に勤めていた経歴もあるらしく、社会人として経験が豊富なところも、生徒から好感が持たれる要因であった。僕は授業の準備に移ろうとしていた彼に声をかけ、前日のテストで間違えた箇所についての解説をもらった。人気者の彼を独占できる時間はここくらいしかない。
授業が始まる三分前になると、特進クラスに在籍しているほとんどの生徒が、一斉に教室へ雪崩れ込んできた。その中には緑色のブレザーを着た芸人志望の二人組も混ざっていた。天然パーマの男は、授業の直前まで先生に解説をもらっている僕のことを一瞥し、隣のサラサラヘアの耳元で何かを言った。それが誰に向けられた行為だったのかは判然としなかったが、決していい気はしなかった。
彼ら二人はホワイトボードから遠く離れた位置に座った。誰がどこの位置に座ろうが、授業の妨げにならなければ何の問題もない。それなのに僕は、何かに囚われたように、彼らの動向を無意識のうちに横目で追いかけていた。
彼らはいつも授業に集中していなかった。唐突に関係のない話を持ち出し、他の生徒が真剣に勉強しようとしているところを平気で妨げる。邪魔するくらいなら来ないでほしい。そう思っていたのだが、周りは意外と彼らのことを容認していた。中には僕と同じように迷惑がっていた生徒も一定数いたようだが、その中に彼らを注意するほど度胸のある者は(僕を含めて)一人もいなかった。
やがて定刻になり、先生は合計二十人ほどを収容した室内を見渡し、生徒が揃っていることを確認すると、早速授業を始めた。真っ白なホワイトボードの上部に今回の学習テーマを大文字で書き出し、前日の実力テストで出題された問題をいくつか例に挙げながら、まずは復習から取り掛かる。そこには先ほど僕が授業前に、個別で解説を受けた問題も含まれていた。
「山岸くん、ここの問題わかるか?」と先生は天然パーマの男に尋ねた。
「そこっすか? まじ余裕っす」、天然パーマの男はそう返事をして、難なく正解してみせた。「基本中の基本じゃないっすか」
「解けるからって調子に乗らない」と先生は彼に言った。教室の中にさわさわと好意的な笑い声が広がる。山岸はみんなから人気があった。
おそらくこの中で、僕一人だけが上手く笑えていなかった。後ろを振り返り、得意げな表情をしている彼と不意に目が合った。反射的に僕は前を向いた。ホワイトボードに問題の解説を書き写す先生の後ろ姿が目に映る。よりによって、どうして山岸にその問題を解かせたんだ──。やり場のない苛立ちがどこかしらにできた亀裂から顔を出し、僕はたちまち胸の中でぐるぐると渦巻く居心地の悪さに飲み込まれていった。その渦は次第に大きくなり、手に負えないほど胸の中を散らかした。先生の背中は細くて頼りないものだった。それをじっと眺めていると、僕はなぜだか無性に腹が立ち、その背中に思い切り石をぶつけたくなった。
先生は山岸がいとも簡単に解いた問題の解説を、もう一度丁寧に披露してみせた。その解説を聞くのはすでに二度目だった。
僕は奥歯を噛みしめる。
「何か聞きたいことあるやついるかー?」
先生はそう言って教室の中をぐるりと見回した。まるで、授業のスピードについてこれていない生徒をこの中から見つけ出すかのように。あるいは、このクラスに相応しくない生徒をあぶり出すように。
やがて後ろの席でサラサラヘアの男が手を挙げた。
「せんせーっ」
「富永くんか、どうした?」
はい、と返事をして富永が立ち上がった。「俺、高校卒業したら山岸くんと一緒にお笑いの養成学校に通うつもりなんですけど」
「ああ、聞いてるよ」と先生は穏やかな表情を浮かべて肯いた。「それがどうかしたのか?」
「はっきり申し上げますと」となぜか富永はかしこまった口調で話し始めた。「この先の将来が不安でたまりません。だから何か金言をください」
「おい、それどういう意味だよっ」と山岸はすかさずツッコミを入れる。彼の言葉で、教室の中がどっと沸いたように好意的な笑いが起こった。
どうやら彼らはいまのうちからボケとツッコミの担当を決めているらしい。あまりに自然で流暢な二人のやりとりには、授業中にいまの掛け合いをしようと、事前に打ち合わせしていたような雰囲気すら見受けられた。
「ってか、先生いつの間にか結婚してね?」と今度は山岸が、またさらに授業とはまったく関係のない話題を放り込む。それに教室内の生徒たちは次々に反応を示した。
ほんとだ、全然気付かなかった、おめでとうございますっ、とあちこちから驚きや祝福の声があがる。山岸が何気なく池に小石を放り投げてできた波紋が、みるみるうちに教室の中で広がっていく。もはやそれは収拾がつかなくなるほどに騒々しく、そして同時に通り雨にでも見舞われたかのように、彼らの意識の中から数列や公式の数々を一瞬のうちに洗い流してしまった。
先生は教室内の異様とも言えるその光景をじっと見守りながら、困ったように苦笑いを浮かべ、左手で頭の後ろを掻いていた。そして、参ったなあ、とおそらく僕にしか聞こえない声量で心の声を漏らした。
僕はやはり周囲ほど、他人の色恋には興味を持てなかった。それよりもむしろ、周囲の勉強に対する熱意の薄さにほとほと呆れ、苛立ちさえ覚えた。
直後に先生は胸の前で手を叩き、それから口を開いた。「よしっ。じゃあ先生がこれまでの人生で学んだ教訓を、いまからみんなに贈ってやろうじゃないか」
なにそれ、聞きたいっ、と誰かが言った。その声に追随するように、あたりから大きな拍手が鳴り始める。僕のため息は、押し寄せる波にいとも簡単に回収され、なかったことにされた。人生の教訓よりも、受験で役に立つ公式のほうがよっぽどいまは役に立つ。そう思いながらも、不思議と先生の言葉を受け止める準備はできていた。なにせ彼の言葉には説得力がある。聞いておいて損はない。そんな気がした。
「静粛にっ」と先生がこの場を制すと、荒波にのみ込まれていた室内からたちまち音が消え、今度は凪のような静寂が訪れた。
この時、おそらく僕は何かに強く期待していたのかもしれない。身体には不自然なほど力が入り、視線は引き寄せられるように先生の口元を捉えていた。
「努力は必ず報われる──」、先生は穏やかな声でそう語り始めた。
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