第五節 二つの寝室にて
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王国の最高裁判官、レーター=クレセントムーンには、朝起床してすぐの日課がある。
それは、壁にかけられている肖像画の前で行われる。
「おお、愛する息子よ。昨日も雄弁たる姿が
片膝を床に付け、現国王ジーニアス=クレセントムーンの肖像画に向かって語りかけるのだ。
これが彼特有の儀式である。あがまれている本人がこの場に居合わせようものなら、顔をしかめるだろう。
レーターは息子ジーニアスを溺愛している。彼の為とあらば、いかなることをしてでも解決へ導こうとする男だ。
しかし、息子や民衆の前では猫を被っている。厳格な父親としてだ。
「どうか今日も健やかであれ。そして民たちから慕われたまえ、偉大な王ジーニアス」
こうして毎朝、欠かすことなく祈っている。
誰だろうと邪魔は許さない。血族も例外ではない。
だからこそ、研ぎ澄まされた聴覚で、窓枠に着地した侵入者を察知した。
「誰じゃ!?」
風でなびくカーテンを背に、黒髪の彼女は、凄まじい平衡感覚でしゃがんだまま。人形のように美しい顔立ちながら、冷ややかな視線を室内に向ける。
彼女が着ているのは、黒鉄色のメイド服だ。侵入者としてはあまりに似つかわしくない装いだった。
「そこで何をしとる! 神聖な時間の邪魔をしおって……!!」
◇
怒声をものともせず、そのメイド……セツナは口を開く。
「一カ月前に起きた城下町での事件。裏で手を引いていたのはあなたですね、レーター=クレセントムーン」
スカートをめくり上げた。太ももに装備していたホルスターからナイフを引き抜く。
部屋に置かれていた
レーターは
「リ、リリアーナはワシの孫娘じゃぞ。なのに根拠も無しに──」
「犯人にオディアンを渡したのが誰なのかも検討はついています。帝国の黒魔術使い、ステラ・サンセットですね?」
レーターは指摘されると、言葉を詰まらせた。
セツナは、レーターを壁に押し付けるようにして追いつめる。
感触で老人をあおり立てる。
「二日前、
その追求に目を見開くものの、口の端も釣り上げた。
「は、はは……。そうか。帝国からの刺客というのは貴様か!」
視線をぶつけ合う。誰がそうなのかまでは、作戦が漏れないように両者とも知らされていなかった。
「今まで何をしておった? てっきり衛兵に見つかって処されたのかと……」
「セツナを殺すために、リリアーナ様まで巻き添えに遭うところだった」
「知るか!! ワシは王国内の情報をヤツに売っていたにすぎない。だがリリアーナが死ぬのもそれはそれで……」
セツナは瞬時に目を剥く。
血が流れ出る。床に零れ落ちていく。
刃は深く入り込まず、切り傷程度のものだ。
それでも、レーターの身体は震えを増してしまう。
逆らえば次はない。これ以上の流血が待っている……という脅しだ。
セツナの眉が釣り上がっていく。
「孫娘が死ぬのを……
「あの小娘が……好き勝手やるせいで、ワシの息子は毎度毎度頭を下げているのだ! あんな
「そもそもの原因は、あなた達が、リリアーナ様を必要以上に縛り付けていることです!」
「黙れ……! ステラのような
自分は悪くないと言いたげな様子に、セツナの脳内で、なにかが切れた。
彼の腹を、膝で蹴り上げる。
「うぼぇええ……!!」
「ご子息に迷惑をかけているのはあなたのほうです。クレセントを敗戦へ導くのが息子の為だと?」
レーターは、腹を押さえてうずくまる。
胃液を口から垂らしながらも、ニタリと笑う。
「この戦争のせいで、息子の気苦労は絶えない……。安寧の為には、帝国に勝ってもらうのが一番なのじゃよ!!」
「一人を優先し、その他国民の犠牲は考えない……。裏で全てを取り仕切っている人物が、こうも腐敗しているとは」
王国内にいる重鎮。レーターはその筆頭であり、彼の発言が全てを決するほどだ。
セツナは
「今後、リリアーナ様に危害が及ぶようなことになれば、容赦はしません」
背を向けて、ゆっくりと歩き出す。
◇
無防備な背中を見せた。
絶好の機会だと捉えたレーターは、横へ手を伸ばす。
タンスの上には
その魔導具を握り、足音を殺しながら忍び寄る。後頭部へ目がけて振りかざした……。
が、寸前で振り返られた。
攻撃の手を止めてしまう。なぜためらったのかは逃避したい事実だ。
目の前の、小柄な少女に対して……。信じたくなかった。
「た……立場が分かっているのか! いまに見ていろ、貴様を殺しに、また刺客が来るぞ!!」
「そうなった場合、先に死んでいるのはあなたのほうです」
一切の迷いがない脅し。この場でセツナを倒すのは不可能に近いと、レーターは理解した。
上げた
それを受けたセツナは、ナイフをしまって
メイドの姿が見えなくなると、レーターは震えた高笑いを始める。
愛する息子の肖像画へ、涙ながらの顔を向けた。
「申し訳ないジーニアス……!! お前の平穏は、約束できそうもないっ……!」
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アース・ワールドの気候は、西と東で大きく異なる。年中厳しい寒さなのは、アーガランド大陸のある東側で、もう雪が降り始めるころだ。
反対に、クレセント大陸は比較的暖かい地域が多い。とはいえ、四季の変化もある。
春には
そして今は秋の紅葉。一部の木々が赤く染まって彩りを与えるとともに、冷風が姿を現し出す。
冬を含めたここから六カ月の間は、二つの気温が入り交じる。複雑な環境に耐えきれず、葉も抜け落ちていくだろう。
閉めている窓がガタガタと揺れた。今日は一段と冷え込んでいる。
テーブルの前に座るリリアーナも、白い息を吐く。
リリアーナが食事を摂る際は、普段から母のルミナスと共にしていた。専用の部屋で、対面とは長さのあるテーブルに向かい合いながら、出来事を報告し合ったりする。
しかし今日は、母が来るのが遅かった。辛抱たまらなくなったリリアーナは、母の到着を待たずして、夕食のステーキを斬り始める。
途中であることに気づいた。周囲を見渡す。
いまこの部屋にいるのは、自分以外には、壁際で立っているセツナだけだ。彼女に手招きし、すぐ傍へ呼びよせた。
斬った肉の塊をフォークで差し出す。
この時間、メイドの彼女は普段から見ているだけなのだ。それがどうしても気がかりになっていた。
セツナの口に肉が近づくと、彼女は目を背ける。
「お気遣い感謝します。が……今日のディナーは、セツナ一人で調理したものです」
「そうなの!?」
「はい。なので……その……」
そのつもりだったが、照れ屋なメイドはなぜだか畳みかけた。
「すみません。まだ数カ月という日の浅い修練です。きっとあなたの舌を汚してしまう」
消極的すぎる姿勢だ。苦笑いが出るも、改めてリリアーナは、彼女が作った料理を見つめる。
特に悩まず口に入れた。
「あっ……!!」
引き止めの手を伸ばしたセツナに見つめられながら、じっくりと
それをどう受け取ったのか。突然セツナが両肩を
「吐き出してください!!」
「んぐぅ!?」
「いかなる処罰も受け入れます!」
「違っ……!! おいしいのッ!!」
「自分は料理初心者ですが!?」
正直な感想を聞いてくれない。そのため、わざと咳き込んでみる。
ようやく彼女の奇行は止まった。肉を飲み込んでから聞く。
「私の好みの味つけで……作ってくれたの?」
「いえ。あの、その……」
「ごまかさなくてもいいよ~。料理長から聞いたんでしょ?」
「……まぁ」
続けて、さまざまな野菜が入ったスープをスプーンで口に含んだ。
バランスの良い味わいが広がる。自然と
それを見たセツナは、両手を自分の背に回し、目をつむる。
「すみません。取り乱しました」
平静を取り戻そうとしているが、まだ恥ずかしそうだ。リリアーナはニヤけつつ、彼女の腕を
とここで、大扉が開いた。ルミナスが到着したのだ。
別のメイドと、なにやら慌ただしく話している。
よく聞こえなかったが、終わると、部屋の中心へ足早にやってきた。対面の椅子に腰かける。
「珍しいですね? 遅れてくるなんて」
「……処理しておかなければならない案件ができてしまってね」
リリアーナは、再びステーキを口の中へ含む。
うつむきがちな視線が妙に気になる。ナイフとフォークを持とうともしない。
「食べないんですか?」
ルミナスは、肩を跳ねさせてからこちらを見た。
「ご、ごめんなさい。いただくわね?」
「全部セツちゃんが作ってくれたんですよ! 初めてとは思えないくらいの絶品でー!」
「誇張にすぎません」
セツナとじゃれていると、ようやくルミナスも食べ始めた。サラダを一口する。
だが、すぐにフォークを皿の上に置く。コップの水を飲んでからまた手を止める。
「やはり不快な味でしたか……」
親子ゆえか。そういうわけではなさそうだとリリアーナは感じ取る。
「……何かあったんですか?」
不安になりつつも聞いてみると、ルミナスの表情が変わった。
冷や汗。そしてハッキリと瞳が揺れている。
答えようとしない母に
「お母さま! 黙っててもすぐにバレちゃいますよ!」
すると、ようやく視線が合い……ある事実が告げられた。
数分後、ルミナスが手渡してきたのは、白い
リリアーナは、手を震わせながらそれを開く。簡素な文面を読み上げた。
「リリアーナ=クレセントムーンの政略結婚を速やかに決定させよ。さもなくば、無実の民たちが一人ずつ
そしてその刑は、実際に行われたという。
朝方、住宅の壁に大の字で
「悪ふざけだと思って構わずにいました。それが……まさか、本当だったとは……」
秘密が露わとなったためか。ルミナスは恐怖を隠さず、全身を震わせる。
脅迫状は、タイプライターなる帝国の機械で書かれていた。ゆえに筆跡鑑定はできない。
リリアーナは、
なにが目的なのか分からないが、犯人の身勝手な主張で罪のない人が殺された。こんなことを許せるわけがない。
セツナがある提案を述べる。
「国中に警備を置き、二度と同じことが起きないよう徹底すべきです」
しかし、ルミナスは首を振った。
「多くの騎士たちが出兵しています。国内には、王城の警備を担当する者と、訓練兵のみ。対処できる状況では……」
戦争など起きていなければ、もっと円滑な策が取られていただろう。リリアーナの胸中に、どうしようもない暗雲が生まれる。
「リリアーナ。従うことはないのよ? あなたが嫌だと思うことを強要したくない」
「そうしたいですよ。けど……!!」
自分が結婚しなければ、もっと多くの人たちが死んでいく。黙って見過ごすなどできない。
するとセツナが、リリアーナの手の中にあった脅迫文を取り上げた。そのまま扉の方へ歩きだす。
微かに見えた彼女の目つきから、確かな殺意を感じとった。
リリアーナは立ち上がる。慌てて彼女の手首を
「どこ行くの!?」
「……やるべきことをやるだけです」
前に進もうとするも、リリアーナが力を入れて止める。
目を見開いたセツナ。振り返り、こちらを見た。
リリアーナはうつむきつつ、震える声でつぶやく。
「……二人きりで話したい」
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「……今なんと?」
寝室に戻ったすぐ後のことだ。机に前に座った主の発言を聞き、セツナは表情を強張らせた。
「だから、結婚するって言ってるの」
「脅迫に屈するつもりですか」
リリアーナは、深く話そうとしない。
先ほどの脅迫文が原因なのは確かだが、あれほど結婚を嫌がっていたというのに。
膝をつかむ彼女の両手は、震えている。ふと見下ろしたことでセツナは気づけた。
単純な使命感だけではない。そこには恐怖も含まれている。
堪らず、歯ぎしりをするセツナ。言葉を重ねる。
「あなたの命令ならば……いくらでも従います」
セツナは元暗殺者だ。城下町での一件により、人を殺すという経験もしている。
自分ならば彼女を救える。そんな自負すら湧いていた。
しかしリリアーナは、首を横に振る。
「セツちゃんに……死んでほしくない」
言われたのは、返り討ちにされる恐れだ。
今のセツナにとって、最も言われたくなかったことである。
「セツナの能力を見誤らないでいただきたい。罪人の一人や二人……!!」
「タイプライターってさ……。クレセントにはまだ流通してない……帝国の機械でしょ?」
その指摘に、セツナは息を
気づきつつも黙っていたことだ。その事実がもたらす意味とはなんなのか。
「私の結婚だけじゃない。セツちゃんを処分しようっていう狙いもきっと含まれてる。自分から飛び込むなんて危険だよ」
「だからあなたが犠牲になると……? それこそ、相手の思う
そもそもリリアーナの結婚を本当に願っているのは、王国の上層部だ。
そこと帝国の
瞳に闇を
「あの男を殺せば……!!」
「その誰かを殺しても、私の結婚を望んでる人はまだいっぱいいるよ!!」
「なら皆殺しにするまで……!!」
リリアーナが立ち上がり、セツナの肩を
「そんなのもっとダメ!!」
「あなたは……!! 自分の幸福さえ望んでいれば……!」
手を払い除け、振り返った直後のこと。
セツナの目に飛び込んできた。
涙を流すのを必死に堪えている、リリアーナの姿だ。
こうならないように護り続けるつもりだったのに。
自分の短気な振る舞いが、この現在を作ってしまった。
心が揺らぎそうになる。だが、もういっそ開き直るしかないとも思った。
不幸を止められるのは自分しかいない。彼女の気持ちなど考えず、己の地位と名誉の為だけに彼女をめとろうとする男たち。そしてそれを、快く迎える王族。
彼らに愛情などなく、虚ろな日々を送ることになるという未来は、目に見えて明らかだ。
「間違っています……」
いびつな構図だと改めて思った。
ここに来て人の温かさを知ったのに。主に待ち受けているのは非情に塗れた生活。
その現実に、再びセツナは語気を強める。
「あなたはセツナに自由を与えたかった! なのに気づけば、自分のほうが老人たちの言いなりになっている!!」
感情が先走り、姫君の身体を揺らす。
「それでいいんですか!? あんな愚劣共の道具になってッ!!」
膝を
それでも彼女は瞳を見つめ、やがてセツナの手に触れた。
「誰かの犠牲で成り立つ自由なら、私はいらない」
穏やかなほほ笑みを見せる。
今度は手を、セツナの
「それにこの決心ができたのは、セツちゃんがいてくれたからなんだよ?」
「え……」
「結婚した後でもセツちゃんはメイドのままだし……。私も、君を護るって仕事がまだ残ってる!」
励まそうという旨での発言だろうが、それは、逆にセツナの心を傷つけた。
自分の存在が、彼女に最悪の決断をさせる決め手となったからだ。
「だから充分! 私にとっての一番がずっと一緒なんだから!」
なぜ、この笑顔に出会ってしまったのか。巡り会ってしまったのか。
ひどく胸が張り裂けそうで、当に死んだはずの感情があふれ返った。
「嫌です……」
リリアーナの指先にしずくが落ちた。
それを見て、自分が泣いているのだと知る。
止めようとすればするほどに零れていき、もはや隠す術もなかった。
「そんなの……間違って、ます……ッ」
涙声でつぶやきながら、また彼女の肩を強く
こんな結末は認めない、認められない。
彼女の人生が壊れてしまう。こんなにも優しく、
けれども自分は、その選択肢を選び取らせてしまった張本人だ。どうにもならない現実が、より息を引きつらせる。
リリアーナ王女は自由人だと、帝国にいた時から目にしていた。彼女のように生きてみたいという細やかな願望も心の中にはあった。
しかし、身が軽くなったのは自分だけで……。申し訳なさから声が漏れる。
「ごめんなさい……。ごめんなさい……」
それを見たリリアーナは驚いていたが、すぐにまた表情を柔らかくする。
泣く赤子をあやすかのように頭を
「あの日……君を救えてよかった……」
なぜ、まだそんな言葉をかけられるのか。
分からぬまま、強く抱きしめられる。
「私のところに来てくれて……ありがとう」
流されるがまま、その胸の中で泣き続けた。
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