クレセント・リバース 未来の猫と大罪人
亜空獅堂
序章:終着点
第一節 王女寝室にて
魔法の時代が終わる、一週間前────。
薄暗い馬車の中を、白の強光が包んだ。
目をつむったままの
「何事か!?」
荷台の席に座っていたクレセント王国の重鎮は、同席していた護衛の騎士たちに目で指示する。
急ぎ、彼らは窓の外を見た。見渡すかぎり草と木々。空は暗雲一つも無い夜。
だが、遠くには煙が上がっている。
帝国との戦争が続いている今、何が起きるか分からない。騎士たちは客席の扉を開き、一斉に抜刀。
黒ずんだ地面の近くには、この場から去ろうとしている三毛猫がいた。焦げた腹には明らかに傷があり、ふらついている。落雷の影響か、それとも魔法攻撃によるものか。
だが騎士たちは、猫を無視する。辺りを見回した後に剣を収め、馬車の方へと戻っていく。
その様子を、車内にいたもう一人の青き瞳が見ていた。
立ち上がり、金の長い髪を揺らめかせる。野良猫の姿に、自分たちと関係のない生き物であっても助けたいと思ったのだ。
彼女はためらうことなく扉を開けた。
「リリアーナ様! 勝手に出歩かれては困ります!」
背後から重鎮の声が聞こえた。
それでも王国の姫君、リリアーナ=クレセントムーンは猫のもとへ向かう。戻ってきた騎士たちとすれ違っていく。
猫の前で膝をついた。意識はあるようで、瞳孔の開いた
リリアーナはすぐさま、
それを猫の傷口に当てた。もう片方の手をかざし、集中力を高める。
ジェイドムーンに淡い光が
この魔導石には、風と水の属性による癒やしの魔力が込められている。緑の光が、猫の体を包みだす。
治療魔法ヒールは、魔法の中でも習得が困難とされる一つだ。リリアーナは勉学と鍛錬を積んできた。今がその成果の使いどころと言える。
腹の傷はふさがった。効果はでているようだが、息遣いは荒いままだ。
「猫一匹に何をやっておられるのです! 日が出る前にロマネ国へ入りませんと!!」
重鎮の罵声が、馬車の方から響き渡る。王族の職務として、ロマネ国での式典に出席する必要があった。
だがもはやリリアーナにとっては、猫の命を救うほうが優先事項である。
彼女は猫の体を抱え上げる。馬車の方へ戻り、馬をなだめている
「クレセント王国へ戻ってください。大治療室なら、この子も助けられるので」
大陸の首都クレセントなら、より安定した治療法がある。猫も助かる可能性は高い。
だが、この提案には全員が大口を開けた。
当然の反応だ。この馬車は、ロマネ国に向かっている最中である。歩みを止めるということがどのようなことか、誰もが理解していた。
重鎮が外へと飛び出す。目を
「なりませぬぞ姫君!! 今回の遠征は、貴方の堕ちきった名誉を回復するためのもの!! ここで戻るということは、またしても家を裏切ったという事実に!」
それは、今のリリアーナにとって、耳障りな声でしかなかった。
──また、家名を上げる為の道具にされるんだ。
そう考えると、腹の底から、ふつふつとした何かが沸いて出てくるようだった。同時に、猫の苦しげな顔を見て思う。
損をするのは、国の重鎮たちだけだ。この件で誰に罵倒されようが、自分の知ったことではない。目の前の命より、名声を優先させるような者の言うことなど聞きたくはない。
仮に自分が処されても……死にさえしなければどうでもよい。
腰に下げていたポーチから小袋を取り出す。彼に渡した。
その中を恐る恐る
自身の口を手で覆ってから、リリアーナはささやく。
「これで二カ月は遊んで暮らせちゃいますね?」
一般に出回っている、安い硬貨ではない。三日月の紋章がかたどられたこの金貨は、十万レント分の価値がある。
対して重鎮は、額に手を当てて荷台の中へと戻る。
壁を殴る、鈍い音が聞こえた。
王国へと戻ったその瞬間、リリアーナには、新たな罪が課せられるだろう。
本人はもはや清々しい面構えである。
家に縛られ続けるのはご免だ。自分が正しいと思ったことをやりたい。
リリアーナは席に戻り、猫を自分の膝の上に乗せた。優しく頭も
鼓動はどうなっているのか。確かめるために、耳を猫の胴体に近づけた。
ギ、ギ……ジ、ガガガ──。
きしんだ歯車のような音が、体内から聞こえてきた。
胸騒ぎを覚える。心臓の音ではない。
だが、生命活動を続けている証拠でもあると考えた。
なにより、まだ生きている。確かな事実が、彼女の
「ニャーちゃん。もう少しだけ……頑張ろうね」
かつての従者の顔が……。膝の上で死んでいった彼女の姿が思い浮かぶ。
どうしても涙が
☆☆☆☆☆
魔法の時代が終わる、一年半前────。
「リリアーナ=クレセントムーン。あなたを殺しに来ました」
見知らぬ女性に、ナイフの刃先を向けられた。
寝室で、適当な言い訳を考えながら反省文を書いていたときのことである。おそらく開けていた窓からだろう。
侵入者が入り込み、リリアーナはあっという間に接近を許した。
背後を取られたことにより、両手を上げざるを得なくなる。頭頂付近から生えている三日月型の癖毛がピンとハネた。
慣れていない状況に、思考回路がうまく働かない。
心臓が脈打ち、汗が流れ……逆に苦笑いが込み上げてくる。
国王の娘なのだから、このような展開がいつかは訪れると考えてはいた。こんなに早くやってくるとは想定していなかったが。
椅子から立ち上がり、振り返る。
その女性は、黒衣で頭から爪先までを隠している。感情のこもっていない瞳だけが露出していた。
対面にある視線は冷たい。緊張を与えるには十分すぎた。
「あのぉ……。なんで私なんかを……?」
首をかしげつつ、相手の次の言葉を待つ。
リリアーナはまだ十六歳。戦争への直接的関与はなく、王国内での権威もさほど高くない。狙われる大きな理由がなんなのか、見当もつかないのだ。
「ダガン皇帝直々の指令です。リリアーナ姫の命を奪い、帝国の為に尽くせと」
「いやぁ、私なんか殺しても──」
説得しようとした直後、彼女の持つ刃物がきらめく。
先端が喉元に突き付けられた。凄まじい速さの詰め寄りだ。
少しでも前に動けば、首に傷がつくだろう。それほどまでに絶妙な位置で攻撃は止められていた。
だがそれゆえに、リリアーナの脳裏に疑問が生じる。
「い、いま……殺せたよね?」
本気であることを感じ取れなかった。いくらでも自分を殺すタイミングはあったのにだ。
なにか理由があるに違いないと察した。
女性の瞳が少しだけ揺らぎだす。大きな変化ではないが、先ほどまでの無感情と比べれば雲泥の差があった。
ならばと思い、恐る恐る手を前に出してみる。
この動きに対して、特に反抗を示さず……。むしろ受け入れたように接触を許す。
リリアーナの指先は、暗殺者の胸元あたりに伸びた。人差し指だけで軽く突き飛ばしてみる。
相手は、踏ん張りもせずに後退。傍にあった天蓋付きベッドにスネ裏が当たる。
崩れ落ちるようにして腰を落とした。両手でナイフを握ったまま、うつむきがちになる。
リリアーナはいまだに事態が飲み込めない。不安定な視線で彼女を見つつ、寝室出入り口の方へ
「と、とにかく……君を衛兵に突き出します! 構わないですね⁉︎」
呼びに行こうと、一歩進んだその時。
「失敗すれば、死罪……」
言い聞かせるような、低いつぶやきの直後。
彼女自身の方に向けていたその刃を、頭上あたりまで持ち上げだした。
何をするつもりなのか、リリアーナは気づく。目を見開いてすぐ、床を蹴る。
振り下ろされるより速く飛びつく。凶気を持つ手首をつかんでから押し倒した。
ナイフが床に落ちる。馬乗り状態のリリアーナは叫ぶ。
「何してるの!? やめてッ!!」
これにも無言で応じられ、姫君は歯をきしませる。
すかさず女性の頭に手を伸ばす。覆うフードを取った。
黒く短めな髪がなびく。
端正な顔立ちの……少女が現れた。
年齢はリリアーナと同じくらい。長いまつ毛の下にある
だが瞳からは、確かに涙が流れ出ている。
そこからも一切抵抗せず、リリアーナに
帝国から送られてきたセツナ・アマミヤは、暗殺者にも関わらず、その対象を殺せなかった。
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「だからといって、どうしてこうなったのですか!?」
リリアーナ姫の寝室から物音がする。そうして警戒態勢に入った衛兵たちが、扉を開けた。
見えた光景に、多くの者がめまいを起こした。室内の床が水浸しになっていたからだ。
突然ネズミが現れ、捕らえるために水弾魔法を放った。……というのがリリアーナの証言だ。
母のルミナスが駆けつけた。現在は、彼女がぬれた床を拭き取っている。
「ネズミちゃんだって生きてるので。殺すのはイヤだから追っ払おうとー……」
「他にもやりようがあったはずです!」
ある程度拭き終えた彼女は、ベッドに座る娘の方へ向かう。
リリアーナはベッドの下を気にかけ、そわそわとしだす。
その態度にルミナスは首を傾げるも、両手を合わせて声を張った。
「一国の王女たるもの、もっとどっしりと構えなさい。魔導の上達も大切ですが、いつまでもこのような醜態を晒していては──」
「反省はしてるんですよー。あれももう少しで書き終わりますし」
指差すのは、机の上に置いてある反省文である。
両手を合わせて懇願する娘のしぐさに、ルミナスはため息をついた。
「あなたのやったことは、普通なら重罪ものです。そのことは忘れないように」
言い残し、ルミナスは部屋を出ていく。
扉が閉まると同時に、姫君はにんまりと口角を上げた。
ベッドのシーツをめくり上げる。中を
「もういいですよー」
そこには、うつぶせの状態で隠れている暗殺者の少女がいた。
まだ警戒心は解いておらず、室内の様子を伺っている。
「みんないなくなったから。話の続き……する? えーっと……」
「セツナ・アマミヤ」
「そ、そう。セツナ・アマミヤ……さん」
数秒の無言。その末に少女……セツナは、ベッドの下から出て床に立つ。
両目が腫れ上がっていることにリリアーナは気づいたが……あえて触れず。
そのまま動こうとしない彼女に対し、自分が座る隣をポンポンと
暗殺者は視線を逸らす。しばらく一点を見つめていたが、観念したようにそこへ座る。
「ギリギリセーフ……。けっこう機転は回るほうなんですよー」
部屋が水浸しになっていたのは、入ってきた衛兵たちを
城下町の景色が一望できる窓を正面に、リリアーナは、途中で終わった話を再開させる。
「……じゃあ、私を殺しにここまで来たっていうのはホントなんだ」
セツナは素直に首肯し、口を開く。
「足の指を
「死のうとしたのも命令!?」
「命令を遂行できなければ存在価値は無い。孤児だった自分が生きていられているのは、帝国に飼われているからです」
リリアーナは「はへぇ~……」と声を漏らす。
同時に、発言の矛盾にも気づいた。冷や汗をかきつつ、自分を指差す。
「なのに……な、なんで?」
そこまでの忠誠心がありながら、自分を殺さなかった理由が知りたかった。
セツナはそれ以上を言おうとしない。首を前に倒し、またうつむき気味になる。
何かを隠しているのは確かだ。彼女の表情を伺おうと、リリアーナは横目を向ける。
しかし、角度のせいで読み取ることができない。
どうしたものかと思案。するとある仮説が浮かんだ。今度は笑顔で自分を指差す。
「もしかして……私のファン?」
無感情な視線が遠ざかり、見当違いな発言だったと分かる。
とはいえ、それが彼女の閉口をやめさせるきっかけとなった。
「あなたのことは以前から知っていました。リリアーナ=クレセントムーン。国の規律に縛られず、自由気ままに生きようとするその姿は、帝国内でも再三と
それは良い意味でか、悪い意味でか。本人には分からず、
「さ、さすが私。ゆうめーじん、だなぁー」
「自由の象徴であるあなたを殺せば……」
話が一転したのを感じとる。
「アーガランド帝国の支配理念はより強固なものになる。クレセントの国民に恐怖を植え付けられるだけではない。帝国内にいる戦争反対論者も黙らせ、勝利への足掛かりにできる、と」
聞いたリリアーナは目を細めた。背を反らして天井を見上げる。
「私、なんにもしてないんだけどなー……」
セツナは立ち上がり、タンスの方に向かって歩き出した。
中央の棚を引く。そこには、衛兵が来る前にリリアーナが隠しておいたナイフが入っていた。それが本来の持ち主のもとへと返る。
刃こぼれがないかを確認すると、再び先端を姫君に向けた。先ほどよりも遠い位置から、その鋭い切っ先が光る。
またしてもな命の危機。リリアーナは両手を高速で左右に動かす。
「待って待って!? もうその流れ終わったよね!?」
「殺そうと思えば殺せます」
「な、なら……やってご覧なさい!」
セツナはわずかに呼吸を乱していた。額からは汗がにじみ出す。
「ほら! やっぱりできないんじゃん! だいたい、今まで人を殺したことあるの!?」
「人を刺すという抵抗を無くすため、罪人を切り刻んだことはあります」
「でも、おんなじくらいの歳の子を殺したことはないんでしょ!? そりゃ抵抗も出るよ!!」
「黙りなさい」
もはやその威圧も負け惜しみに思え、
「私を殺せない理由がまだ分からない?」
立ち上がったリリアーナは、自らその刃へ近づいていく。
◇
普通ならば、正気とは思えぬ行動。
その衝撃と強いまなざしに、セツナの暗殺者としての心は折られた。
思わず後ずさり、すぐ後ろのタンスにぶつかる。ナイフの切っ先は、リリアーナの胸元を捉えたままだ。
だが、そこから前へ動かすことができず。セツナ自身もなぜなのかと分からずにいる。
姫君が暗殺者の手をつかむ。そのままナイフは下ろされた。
震える息を吐き、セツナは、握ったままの柄を見る。訓練とともに何度も使ってきた道具だが、初めて見たときのような感覚に陥った。
そんな彼女をよそに、リリアーナはふうっと一呼吸を終える。
両手を背で組み、窓の外を眺めながら口を開いた。
「夢とかないの?」
「……
「そう教わった? 願うくらいはいいと思うんだけど」
リリアーナは、笑顔で両腕を広げる。
「私はね? いっつもお城かその近辺だけで窮屈だから、誰にも縛られずに世界一周旅行とかしてみたいんだ!」
「なにが楽しいのですか?」
リリアーナはガクッとよろけた。苦笑いを向けてくる。
「分っかんないかなぁ……。いろんな自然を見て回れて──」
「木などいたる場所に生えています」
微妙に口元を歪めた後、リリアーナは改めて窓の外を見る。
「だから……言うほどここも自由じゃないけど。それでも良いならなんとかしてあげるよ」
「……何が言いたいのか分かりません」
姫君は窓の外を指差し、セツナに問う。
「ここから誰にも見つからず出られる?」
「正気ですか? あなたを狙った暗殺者を──!!」
リリアーナは、人差し指をぴんっと立てる。
「じゃあ明日の朝、城門の前で集合ね」
一方的に告げられた約束に、セツナは目を見開く。
そのままリリアーナは話を進めた。
「なるべくフツーの格好をしてくること!」
勢いに圧倒されながらも、セツナは考える。
この姫君は、自分の身柄を、王国に突き出そうとしているのか。だがそれではあまりにも露骨。
そんな真似をするのなら、初めから取り押さえればいい。
そのため、彼女の言っていることが、少し気になってしまった。
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