凶王の絶望

百瀬十河/ファンタジア文庫

女神の試練

 悲鳴と怒号が飛び交う城内に、無慈悲な鐘の音が鳴り響く。


 一つ、二つ、三つ……七つを数えて鳴り止んだそれは【試練】の始まりを告げるもの。牢番の青年は地下に続く階段を降りながら、腰に下げた鍵束の感触を手探りで確かめる。


 これから青年が行おうとしているのは、人道に背く行為に他ならない。しかし、選択の余地はない。家族の安全が保障されるには、もう、これしかないのだ。


「アズライル様」


 目当ての人物は、地下牢の最奥に囚われていた。見張りの兵士も逃げ出した地下牢は薄暗く、壁に掛けられた松明の灯りだけが、ゆらゆらと揺れて足元を照らし出す。牢番に名を呼ばれ、静かに顔をあげた青年の相貌は、薄汚れていても整って見える。年齢は、十八を数えた牢番と、そう変わらない歳頃だろうか。


「あぁ、君か。外が騒がしいようだが、何かあったのかい?」


 囚人の青年が投げかけた質問に、牢番は唇を噛んで答える。


「……女神の試練です。レイダ王城は、四方を連合軍に取り囲まれました」

「何だと??」


 アズライルは、驚きの表情を浮かべて叫ぶ。


「なぜ、女神の試練がレイダに……?? いや理由は分からなくとも、あれはができるものだろう?」

「それをできなくなるよう、ジブリール様が策略に嵌められた結果、だそうです」

「っ……何という、ことだ」


 低い、悔恨の呟き。眉根を寄せ、両手を額に当てて唸るアズライルの姿に不安を覚えた牢番は、再び彼の名を呼ぶ。


「……アズライル様」

「あぁ、心配しないで。友人になってくれた君の力になると誓った気持ちに、変わりはないよ」


 入っておいでと促す言葉に従い、牢番は鍵束に下げた鍵の一つで鉄格子の扉を開いた。冷たい石畳に申し訳ない程度に敷かれた草藁を踏み越え、鎖に繋がれたままのアズライルの元に近づく。


「先ほどの鐘は、試練の開始を告げる七つ鐘。既にレイダ城の包囲網は完成している……それに間違いないかい?」

「はい。押し寄せる敵軍から逃げてきた住民達を、可能な限り受け入れて東西の門を閉じましたが……既に、相当の犠牲は出ているかと」

「そうか……状況は最悪だ」

 牢番の青年はアズライルに頷き返しつつ、震える指で腰に下げた短剣の柄を握る。

「逃げ場はありません。一歩でも城から外に出ると、問答無用で殺される……そうですよね?」

「あぁ、女神の試練中は、それが許される……それでも、はある」


 ぺちぺちと指先で軽く自分の頬を叩き、アズライルは悪戯を見つかった子供のような表情で笑う。


の首を持って城外に出た人物とその家族は見逃される……幸いにして僕の顔は、城主のジブリールとだ。僕の首を持っていけば、君と家族は助かるだろう」


「っ……!」


 涙ぐむ牢番を、アズライルは静かに諭す。


「しっかりするんだ。それだけの覚悟があって、僕のところに来たんだろう?」

「っ、はいっ……」

「君の母親は女中のライムで、妹は七歳になるハンナだったよね。僕がティナス様の元に召された暁には、君と家族の加護を願うと約束するよ」

「アズライル様ぁ……!」


 ついに泣き出してしまった牢番に、アズライルは苦笑しつつ立ち上がり、腕を伸ばして頭を撫でてやる。

「ほら、君がしゃんとしないと、こっちが心配になってしまうよ。僕の首を取ってからの逃走経路は、頭に入っているね?」

「は、い。牢番だけが知っている、脱出路が……グスッ……あり、ます」

「……正しく覚えているか、ちょっと不安になってきたな。一回ここで、復唱してごらん」


 促されるままに、牢番は洟を啜りつつ、先輩に教えられた秘密の脱出路を思い浮かべる。


「城の地下にある五番倉庫の北端に、一つだけ色の違う石が嵌められている床があります。そこを外せば、堀の下に続く地下道への入り口になっているんです」

「へぇ、そんなところに……地下道は、何処に繋がっているんだい?」

「途中で東西に分かれて……東側は郊外にある森の中の洞窟に、西側は草原にある小川に架けられた橋の下に、繋がっています」

「成るほど」


 何度も頷いたアズライルは、青年の手からいつの間にか抜き取っていた短剣を、おもむろに振りかざす。



「そこまで聞けたら、もう良いな」



 え、と聞き返そうとした疑問の言葉が、音になる前に。

 牢番の喉は、真横に切り裂かれていた。



 †††


 かつてこの世界は、地平線の彼方まで、渇いた砂漠であったという。


 水と食糧を求め、砂漠を彷徨って生きるしかない人間を憐れんだ水の女神ティナスが、七つの聖なる水瓶みずがめを彼らに授けた。

 聖なる水瓶からは絶えることなく清浄な水が溢れ続け、それは長い歳月をかけて、熱砂の砂漠を緑豊かな大地へと育んだ。


 人々はティナスの慈悲に深く感謝し、彼女を唯一神と崇め、各地で奉った。世界で最も信徒の多い、水神ティナス教の始まりだ。


 女神が授けた七つの水瓶は、人間の中から選ばれた七人の代表者が一つずつ携えて世界の各地に散らばり、国家の礎を傷いた。これが、聖瓶七国の誕生となっている。


 やがて人間の数が増えてくると、七国以外にも多くの国が興った。しかし新興国家がどれほど栄えようとも、始祖の七国に敵対することはできない。七国には女神に与えられた聖なる水瓶が存在し、水瓶を持つ国家は聖域の一つと見做されるので、それを侵略する行為は神への叛逆に等しい。


 しかしどの国家も、聖瓶を欲するのは当然だ。新興国家の指導者達は、権利と機会の平等を求めて女神に祈りを捧げ、やがて神託が下された。それが、聖なる水瓶を保有する七国にのみ課せられる【女神の試練】であり、名実ともに、聖域を侵略する唯一の手段となっている。



「もう嫌だ……嫌だ……!」



 喧騒が飛び交う謁見室の中。玉座の上で耳を塞ぎ、身体を縮こませて震える、一人の青年。


 青年が身につける服は純白の絹地に金刺繍が施された壮麗なもので、頭に被った金の王冠は間違いなく彼が国王であると示している。しかし首から下げたロケットを握りしめて啜り泣くその姿には、為政者としての威厳が欠片も見受けられない。


「陛下! お心を定めてください」

「このままでは国民共々、侵略者に虐殺されるのを待つのみ」

「決死の籠城か門を開いて降伏するか……我らの運命は、陛下の決断に委ねられるのです」


 玉座の元に押しかけた家臣達は、若き王に詰め寄り、口々に決断を迫る。しかしそれは、仕方がないことだろう。この状況を招いたのは、間違いなく、この国王に原因があるのだから。


 聖瓶七国の一つ、草原の王国レイダに、ある日突然【女神の試練】が通達された。同時に、東西南北から四つの国が軍を率いてレイダに押し寄せ、あっという間に王城を取り囲んでしまったのだ。

 女神の試練とは、ティナスの聖なる水瓶に国家であるかを証明する試練を示す。敬虔なる女神の信徒たる国家であれば、四方から敵の侵略に曝されようとも六日を凌ぐことができるという、女神の神託に沿ったものだ。六日の間に他国の侵略を許せば、その国はティナスの信徒として相応しくないと見做され、聖なる水瓶を奪われることになる。それは正しく、国家の滅亡と同義だ。


 しかしこの試練には、回避手段がある。試練の通達から三日以内に、七日の精進潔斎を終えた無垢なる乙女の心臓を、礼拝堂の祭壇に捧げるのだ。乙女が正しい信徒であると女神が認めれば、試練の始まりを告げる鐘は鳴らない。乙女達は【ティナスの巫女】と呼ばれ、聖瓶七国は、常に複数名の巫女を擁するのが慣例となっている。

 レイダにも当然巫女はいたのだが、国王ジブリールが、姫騎士マリアベルに言葉巧みに唆されたのだ。


『ティナスの巫女は哀れです。少女としての日々を、精進潔斎と祈りのみに捧げねばならない。そもそも、レイダに女神の試練をと考える国家なんて、存在しません。レイダにはティナスの巫女など、不要ではないですか? ジブリール陛下はレイダを真の聖国に導くお方だと、私は確信しております』


 ユーア皇国の第三王女でもある美しいマリアベルの言葉に感化された国王ジブリールは、王妃ベアトリーチェと家臣達の反対を押し切り『ティナスの巫女』を全て解放してしまう。

 そしてジブリールが嬉々としてそれをマリアベルに報告した直後に、レイダに女神の試練が通達されたのだ。無垢なる資格はともかく、七日の精進潔斎を続けた乙女など、容易に見つかるはずもない。

 無情にも三日の時は瞬く間に過ぎ、レイダ王城の上に、七つ鐘が打ち鳴らされたのだった。


 そんな経緯があるものだから、若き王を擁護する家臣は誰一人としていない。王妃ベアトリーチェですら、夫に注ぐ視線は酷く冷めたものだ。衝動に駆られたジブリールは、味方が居ない謁見室の真ん中で、両親の形見であるロケットを握りしめて叫ぶ。



「もう嫌だ……! 国王なんて、嫌だ! 誰か! 誰か代わってくれ……!」



 血を吐くような慟哭に、応えるように。

 謁見室の扉が、乱暴に開け放たれた。



「いいだろう、弟よ。この俺が代わってやる」


 朗々と響く、張りのある若者の声。開かれた扉の中央に立っていたのは、粗末な衣服を身に纏い、片手に短剣を携えた青年だ。息を呑む家臣達を尻目に青年は臆することなく玉座に歩み寄ると、膝を抱えた姿勢のまま硬直している国王を見下ろし、片頬を歪めて笑う。


「いいざまだな、ジブリール。正しき国にと豪語しておきながら、結局はその体たらくか」

「あ、兄上……」

「えっ、兄上?」


 ジブリールの言葉に、ベアトリーチェは驚きの声をあげる。侯爵家出身である彼女は幼い頃にジブリールの婚約者と定められたが、王太子である彼に兄が居ることは知らなかった。生母の身分が低く、王位継承権が長子ではなく弟に渡るのは珍しくない話だが、存在そのものが秘匿されているとは。ベアトリーチェの呟きを聞きつけた青年は、彼女と視線を合わせ、打って変わって穏やかに微笑む。


「初めましてだな、麗しき白薔薇の君。俺はアズライル。ジブリールの、双子の兄だ」

「双子……!」


 改めて見れば、汚れてはいるが、アズライルの顔立ちはジブリールと瓜二つだ。金色の髪も、整った鼻梁も、紫水晶の瞳も同じ。ただ兄を名乗ったアズライルの瞳は、ジブリールの澄んだ紫より、幾分か緋に傾いだ色を宿している。


「どうやって地下牢を抜け出した??」

「牢番は何をしていた!」


 彼の存在を知っていた古参の家臣達は口々に喚き始めたが、アズライルが血濡れの短剣をひたりと弟の首筋に押しつけたことで、一様に言葉を無くす。


「牢番には、真面目で優しい人物を選ばないことだな。刃物を手に警戒せず俺に近づくなんて、自殺行為だ」

「な、何をなさるおつもりか……!」

「ジブリール様は、実の弟君ですぞ!」


「弟は王を『代わってほしい』と願った。俺は、それに応える。それだけのことだ」

「兄上……?」


「お前はで寝ていろ」


 アズライルはジブリールの首筋に押し当てていた刃をくるりと返し、剣の柄で弟の後頭部を殴りつける。

 ウッ、と短い呻き声と共に意識を刈られたジブリールの身体は、玉座の上からズルズルとずり落ちた。兵士の一人に弟の身体を運ぶよう申し付け、空いた玉座に腰掛けたアズライルは、悠然と足を組む。

 


「さぁ、時間は待ってくれない。四方を敵に囲まれたこの窮地、如何に乗り越えるか……軍議を始めるとしようか?」


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