病室の足音
黒月
第1話
病室の祖父は明らかにやつれきって見えた。前に会った時よりも随分と歳を取ったようだった。
祖父が倒れたと、母から下宿先に電話があったのは一週間前だった。心臓の発作だったらしい。命に別状はないが、これまで病気とは殆ど縁がない人だっただけに、かなり気落ちしているから、見舞ってやって欲しいと言われ大学の休みを利用して帰省した。
久しぶりに見る祖父は痛々しかった。これまで健康一筋で、仕事に酒にと、とにかくパワフルな人間だった。若い頃の武勇伝などもさんざん聞かされてきただけに、この変わり様に、俺はショックを隠せなかった。
「早く、退院したい…」
絞り出すような声で祖父が言う。医者の話ではあと一週間ほどで退院できるとのことだった。
あと一週間の辛抱だよ、と俺が告げると、祖父はどこか怯えたような顔をして「もっと早くはできないか。ここにはいられない」と言う。
どういうことかと尋ねると、
「聞こえるんだ…足音が…」
と掛け布団を固く握りしめて言った。
「足音?そんなのいくらでもするだろ?」他の入院患者や、巡回中のナースとか。
「違う。あの足音はそういうんじゃない。あの音は違うんだ。俺の方に近づいてくる。それからベッドの俺を覗き込んでくるんだ」
そして祖父は、ぽつり、ぽつりと話し出す。
若い頃とある技術者だった祖父はアジアの地方都市の工場に赴任した。言葉や、文化の違いはあるものの、持ち前の人柄で現地の工員にもあっという間に慕われ順調に仕事をこなすことができ、充実した生活を送っていた。
だが、慣れない異国での激務は身体に堪えたのだろう、赴任後3カ月にして体調を崩し現地の病院に入院することとなった。
そこで、ある入院患者と知り合った。20代前半の女性で、詳しくは分からないが心臓の病気で療養中だと言う。
若い患者は珍しく、祖父とその女性は顔を合わせたらたまに話をするくらいには親しくなった。
祖父の退院が二日後に迫った夜。
静まり返った廊下に足音が聞こえる。
スゥー、パタッ
スゥー、パタッ
スゥー、パタッ
消灯もされ、出歩く人もない廊下に、スリッパをはいてどこかに向かおうとしている音。
祖父は気になり、遠くなった人影を気づかれないように追った。
スゥー、パタッ
スゥー、パタッ
スゥー、パタッ
足音が止む。その場所は処置室だった。
何故か祖父は、「気づかれてはいけない」と思い、気取られない様に息を潜め様子を伺う。
足音の主は彼女だった。
彼女は、輸血用の血液パックをどこからか取り出すとおもむろにそれを口に含んだ。
祖父は息をのみその場を動けなかったのだが、彼女はなおも血液を飲み下す。
あまりの光景に、失神しそうになるのをこらえその場にとどまっていたのだが、ギシッと床が音を立ててしまう。
音に気づいた彼女は祖父の方に振り替える。
が、その姿は…口の回り、服、腕至るところに血液がベッタリと付着した、まるで幽鬼のようだったという。
祖父はその後本当に失神したそうだが、彼女がどうなったのかは誰に聞いても分からないまま退院の日を迎えることとなった。
「東洋医学でな、病気の部分と同じ部位を食べると治るってのがあるだろ。」
同物同治というやつらしい。例えば肝臓が悪ければ動物の肝臓を食べると治癒が早くなるという薬膳の考え方だ。
「あの女はそれを人間でやったんだ。…どうせやるなら人間の方が早く治るとでも思ったんだろうな。そうまでしてでも治りたかったんだろう。」
急な昔話に俺は付いていけず、
「それと、足音は…」
と尋ねた。
「あの時と同じ足音が、聞こえてくるんだよ。俺のベッドまで来て、俺の顔をあの血塗れの顔が覗くんだ。」
スゥー、パタッ。
スゥー、パタッ。
スゥー、パタッ。
スリッパを履いた女の、少し引きずった足音が聞こえてくるのだと。
「面会の方はそろそろ…」
巡回に来たナースが申し訳なさそうに俺に告げた。
今日もまた、祖父のところにあの足音はやって来るのだろうか。
スゥー、パタッ。
スゥー、パタッ。
スゥー、パタッ。と。
病室の足音 黒月 @inuinu1113
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