夏の悟り

譜錯-fusaku-

なんでもない私

 夏休みが転換点だ。よくそう言われる。

 受験生なんて特にそうだ。毎年やってくる夏は、同じことを聞き、同じことで悩み、同じことを決意し、同じことで挫折して、同じように虚しく去っていく。

 そう。私はただの受験生だ。何も特別なことのない十把一絡げで数えられる人。




夏期講習が終わって、もう九時半。

誰にも見上げられることがない空。そんな星ひとつない空の下、歩く人は皆家路を急いでいた。雲が分厚いのか、ただ単にビルが明るいのか、それさえもわからない。ただ夏のいやらしい暑さと雨を予想させる湿った空気がただ私にまとわりついていた。

 なんの変わり映えもない。

駅に入る前の路上に漂うタバコの匂いも、最寄駅から家へと歩くことを想像した憂鬱さも、全部一緒だ。

 肩にかかる鞄の重さを意識しないまま、私は定期券を取り出し、駅構内に入る。地下への階段に足をかけると、冷房の涼しさが一気に覆いかかってくる。


 束の間の休息を吹き飛ばしたのは男性の怒号だった。

「おい、ちゃんと立てよ!」

「立って歩けよ!」

「甘えてんじゃねよ」

 四、五人の男性に囲まれているのは、髪をオシャレにハーフアップにした女性だった。ピッタリとしたジーンズを履いている。彼女は今にも倒れ込みそうだった。

 酔っていた。男性たちの顔はあからんでいて、彼らの気分は異常に高揚していた。

 周りの男たちは彼女の腕を掴み上げた、ように見えた。何か良くないことが起こっている。それがよく伝わってきた。

 それだけでなく、フィクションに毒された私の頭は、犯罪の絡む幻想的な匂いも感じていた。

「ほら!」

 黙り込んで俯いたようにふらふらと立っている女性と、その周りを囲んで恫喝の声を上げる男たち。

「あ、の」

 耐え切れなくなった私は、ちょうど前を歩いていたサラリーマン風の衣装の男性に声をかけた。

「へ?」

 振り向いたその人の男性の顔がどこか赤らんでいて、口端を引き攣らせて笑っているように見えた。

「え、や」

 すぐさま目を逸らして私はその人から遠ざかった。

 酔っている。

怒鳴っている男たちと同じく。彼らに関係があるのかは知らないが、その男性を見ただけで、私の周りが全て敵に回った気がした。

 助けを求めようと、改札横の窓口に寄る。営業時間外で当然のように駅員はいない。困惑した私の目にその時、制服警官の姿が映った。

 パトロール中だろうか。誰かと話をしていた。

 さっきの喧嘩かもしれない。

「あ、あの」

 そもそもうまく声が出ない。その上、警官たちはこちらに気づく様子もない。いくらか目があった気がしたのだが、淡い希望は霧散した。

「あ」

 そうこうしているうちに話が終わったのか警官はスタスタと歩いていき、私の視界から消えた。

 自覚はある。

 何かものすごく悪いことをした。でも。

 後悔に緊張が緩まない。背中の罵声はそれをさらに増幅させた。呼吸はどんどん浅くなる。

「そんなに甘やかすから、こいつは歩かねえんだよ!」

 女性の腕を掴んだ人に、他から罵声が飛ぶ。

「早く帰るぞ!」

 大勢の怒号に支えられ、女性はヨロヨロと地下への階段を降りて行った。

 ふらふらとよろめきながらも集団の先を歩いていく。

 彼女をしばらく目で追って、私はようやく乗り場へと歩いていった。



 アナウンスと共に電車がホームに入ってくる。私とホームにいた乗客は、ドアが開いた瞬間足早に車内に入った。体を冷やす冷房の風は、幾らかの抗不安薬の役割も果たさなかった。

 先程のシーンを回想しているうちに電車は動き出した。対面の座席の後ろには、黒い中にぽぽぽっと家々の光が灯っている。そこに映った車内の乗客に目を止めているうち、景色は反対に流れ始めた。

 電車は先ほどと逆に動いている。あまりにもスムーズな変化に反応もできないでいると、他の乗客の異変に気づき始めたようで、ザワザワと騒ぎになっていった。携帯を見つめ、呆然とする者もいる。試しに開けてみると、21時38分、37分、36分、時間は遡っていた。      

当然のように腕時計もである。

「えっなに」

「なんかあった?」

 皆、ありえない現象を前にして呆然としている。私も他の乗客も、一様に戸惑い、不安を共有していた。

 騒ぎは他の車両にも伝播した。電車全体が困惑に包まれる中、乗務員は何もなかったかのように運転しているようだった。アナウンスもない。

 細かいことに頭が回る前に、電車は出発駅へと舞い戻った。乗客は皆、一斉に電車から駆け出した。

 騒ぎは必ず外に伝わった。そう確信できるほどの音の洪水が起きた。

 私も取り残されないように急いで電車から出て、振り返る。やはりなんの変哲もないいつもの電車だ。格別古いということもない。違和感など微塵も感じなかった。それだけに、急変した空気は気持ち悪かった。

 誰も電車にまた戻る気は無いようだったので、ホームは人で溢れかえった。実際はそれほど多くもなかったし、歩行にも困らなかったのだけれど、渦巻く混乱が人の気配を増大させていた。

 そんな中を私はなぜだか改札へと向かっていた。

 無心に階段を登り、たどり着いた時に背後でまた声がした。

「おい、ちゃんと立てよ!」

「立って歩けよ!」

 ビクッとして振り向くとそこにさ先ほどと何も変わらない人がいた。酔っ払った勢いで怒鳴り散らす人。取り囲まれる無言の女性。

 心臓が縮み上がる。

 先ほどと同じように女性の腕が乱暴に掴まれた。すでに知っているはずなのに声はやはり出ない。そのことが怖かった。

「なにやってるんですか」

 毅然とした声で止めに入ったのはサラリーマン風の男性だった。前と違って彼は酔ってなんかいなかった。息が少し上がっていて、顔が赤く見えただけだ。以前は浮かべていた君の悪い薄笑いもない。腕を掴んでいた人に詰め寄ると、「なんで腕なんか掴んでるんですか」と言った。

「は? お前には関係ないだろ。なんだよ」

 あちらも負けてはいない。酔いが歯車の潤滑油になっていた。逆につかみかかる。

「や、めてください。警察呼びますよ」

「あ? いい加減にしろよ。このっ」

 言われた酔っ払いは手を振り上げる。その後を想像して私は思わず目を逸らした。

「ちょっとちょっと何やってるんですか?」

 そこに割り込んできたのは先ほど改札の前にいた警察だった。流石に声が大きくなって騒ぎに気づいたようだ。

「手を下げてください。で、なにがあったんですか」

 落ち着いた様子で一人、整理していく警官は私の昂った心を鎮めた。

 酔っ払いたちと真ん中でしきりに「なにもありません」といって話を拒む女性、それから止めに入った男性と警官を横目に私はまた乗り場へ向かった。

 今度は長く見ていられなかった。

 止まっていた電車に乗り込むと、先ほどまでの騒ぎはなかったかのように乗客が静かに車内で座っていた。それはそれで異質だった。

先程までの騒がしい状態の方が、よっぽど気が休まっていた。私が乗り込んだ瞬間、ドアが閉まった。ゆっくりと動き始めた。窓の外の景色も、電車の刻むリズムに沿って流れていった。



『次は——』

 目的駅直前のアナウンスでハッと目が覚めた。

 勢いよく顔を上げた。目に映るのは、赤の他人。黙々と携帯をいじっていて、こちらを見向きもしない。

——本当にそうなっていたらよかったのに。

 先ほど見た夢が現実であれば。

 せめて、“女の人は酔っ払いたちと同じグループで、偶然今日は彼らの気が立っていただけ”であってくれ。

何も、無ければ。

 得体の知れない他人に、理解してほしかった。知人に解られるのは嫌だけど。

 私以外誰も知らない感情。

 この人間の中の誰も知らない、何もできない私なんか。

 客に向かって発せられるアナウンスを聞き流しながら、独りで先をふらふら歩いていく女性の背中を思い起こし、私は電車から降りるため、席から立ち上がった。



 駅のホームは湿気たっぷりの嫌な空気に満ち溢れている。車内はちっとも快適じゃなかったくせに、車外は圧倒的に不快だ。どこかから雨の音も聞こえてきた。

 改札を出たところで不幸にも雨音は激しさを増した。もちろん傘など持ってきてはいない。昼頃、家を出た時は少し曇っているだけだったのだ。

「はあ」

 積み重なる憂鬱に仕方なく駅舎の屋根の下から一歩踏み出した。

 生ぬるい雨が足に当たる。冷たくもない。流れ落ちる感触にが気持ち悪い。

 諦めてもう一方の足も踏み出す。全身が雨に打たれ始めたところで私はどうでも良くなり、俯いたまま家路を辿り始めた。

 小道の脇では家の光と街灯が弱々しく光っている。

バシャン

 足元に生ぬるい感触。

 ぼおっとしていたから気づかなかった水溜りに、私の右足は見事に浸かっていた。

 そこで私のボケた頭はようやく覚めた。水に浸った不快感など無視して、私は水たまりの表面を注視している。

 街灯の明るさの近く、水滴の波紋に揺れる水面には歪んだ私の顔が映っていた。喜怒哀楽のいずれとも表現し難いその表情に私がひどく苛立った。

 なんでもないくせに、何もしないくせに。いなくても何も変わらないくせに。

 何とも形容できない、何でもない表情が醜く映っていた。

「なんでもないものになりやがって」

——何もできないなら、何にもならないなら、いなくてもいっしょ。ならば、消えて。

 いつの間にか口には鉄の味が広がっていた。

 これは、私だけの、私だけが感じる、特別な味。

「そんなこと」

 自ずと言葉は漏れ出てきた。

「私以外の誰も望まないっ!」

 所詮、私以外にとって私は他人でしかない。他人のことなんて、どれほど仲が良くても誰も真剣に考えない。私を左右するのは、何でもない私。それだけ。

私が良ければ全ていい、というのとは少し違うのだけれど。


 私が幸せになるために、私はなんでもないものであり続ける。

 そう決めた。


 雨は相変わらず降っていた。でもそれは、私だけに感じさせる祝福の雨だった。

 この夏、私は初めて私になった。

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