泥の底で眠り続けた私

吉岡直輝

第1話



 ……ときどき、怖い夢を見るんです。


 私が見ているものは、私の生まれた町でした。

 でも、その町は何かがおかしかったんです。

 夜に沈んだ街の中で、あちこちの家の車から火が上がっていたり、道路もぐちゃぐちゃに割れていたり、まるでひどい地震があったような爪跡が広がっていました。

 私は、泥の中で身動きが取れなくなっていました。

 泥、というか、黒いドロドロの何かのような。手も足も泥の中に沈んでいて、息もできないような苦しさの中、必死に口だけを動かしていました。

 お母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん。

 私の……家族を必死に呼んでいました。

 たぶんそうだったと思います。

 でも家族は私の前には現れませんでした。

 確かに私が家族と呼んでいた人たちは、私の体に感じられていたのに。

 私は結局、その泥の中でもがき続けたまま、夢はいつも突然に終わってしまうのです。

 

 でも夢から覚めると、どうしてもその夢の中が現実の出来事だったような気がしてたまらなくなって。

 だって私にはもう、その家族と呼んでいた人たちはいなくて。思い出すこともできなくなってしまったのですから。


————


「柚木梨香さん。はい、ではいつものお薬三十日分ですね。何か最近服用していて身体の変化などはありましたか?」

「いえ……特には何も」


 毎月通う、大病院近くの薬局はよく混雑している。

 三十分くらいカラフルなソファに座ったまま、ようやく名前を呼ばれてカウンターに向かうと、私はそこでいつも通りの会話をした。

 保険証と、お薬手帳と……領収書はない。最後は処方された薬を渡される。

 薬の入った紙袋には、調べてもよくわからない薬の名前がずらっと。朝と夜に二回、だいたい四種類くらいの飲み薬を服用して、もう三年くらい。

 袋と薬局の看板にも書かれた『クロックモール』の名前を交互に見て、私は今日も家に帰る。


 誰もいない、私一人の家に。


————


 最初にポン、と私の肩を叩く声があった。

「梨香おはよーっ‼︎」

 通学路を歩く私の隣に、茶髪のミディアムヘアがふわっと舞った。

「……朝から元気だねぇ、優奈は」

「いやぁそれがですねぇ〜。……聞きたい?」

「聞きたいんじゃなくて言いたいんでしょ?」

「あれぇ、バレてた?」

 段々と風が秋らしくなってきたね、なんて風流な会話ができない高校二年生の私は、今日もいつも通りの朝を友達と迎えていた。

 二学期が始まって数日、先月誕生日迎えた私は、十七歳になった。

 あいにく直接祝ってくれる人は誰もいなかったけど、優奈や学校の友達の何人かは、メッセでお祝いのスタンプを送ってくれた。

 ……それだけで何故か暖かい気持ちに包まれていたけど、風は少しづつ寒くなってきた。そろそろ体育の時間くらいは半袖をやめたくなってくる頃だ。

「実はねぇ……なんと、当たったんだよ‼︎」

 教室に着くと、優奈が突然そんなことを言ってきた。

「いや、何が?」

「観覧客の抽選‼︎ 今度八チャンでやる音楽祭にプリスタが出るの‼︎ しかも二枚だよ‼︎」

 ぶんぶん腕を回しながら嬉しそうに優奈はそう言う。

「プリスタ……って、優奈が好きなアイドルの、『プリズミックスターズ』だっけ」

「そーそー‼︎ 私の推しは、センターの館林紡‼︎ つむきゅんってばチョーかっこいいんだから‼︎」

「あぁ……この間月九ドラマにも出てたよね。知ってるよ」

 私はアイドルには詳しくないけど、三年前にデビューしてからあっという間に国民的アイドルと言われた『プリスタ』のことならなんとなく知っている。優奈もたまにその話をしてくるからだ。

「梨香も番組絶対見てね! 新曲披露される予定なんだから!」

「いいよ、どうぜ家で暇だし」

 ふとテレビのことを思い出して、最近ずっと晩ごはんの時間にやっているニュース番組しか見ていないのを思い出した。


————


 秋の夕日が学校のある丘の町を照らす頃、今日も授業が終わった。

 優奈と校門の前で別れて、私は学校最寄りの駅に向かう。家までは一駅乗るだけなんだけど。

 今日の学校は……なんて事ない素晴らしい一日だった。っていうのが丁度いいくらいちょっと退屈だった。

 でもそれはいつも通りのこと。普段の勉強はそれなりにできてしまうし、友達だって優奈とか、クラスで話し相手になってくれる子がいるだけで満足してしまう。欲がないのとは、少し違う気がする。

 駅のホームで電車を待ちながら、秋風に吹かれた私は夏の暑さのことを思い出していた。

 そういえば、夏休みもとても退屈だった。夏休みの課題を早く終わらせた私は、街の図書館に入り浸って読書をして……何の本を読んだったっけ。数日ぶりに家の外に出たら、あまりにも暑すぎて思わずアイスを買って……何を食べたんだっけ。あと暑くて、暑くて、暑くって——


「ブオオオオオオオオン‼︎‼︎‼︎」

「——⁉︎」


 電車の警笛に驚き顔を上げると、私はホームの黄色い点字ブロックから足をはみ出したまま、あと数歩で電車と衝突するくらいにまで近づいていた。

 自分でも全く自覚がなかった。

 ……また、だ。

 悪寒が走って足を一歩戻すと、電車は何事もなく駅に停まった。周りの乗客も私のことなんて全く気にせず、電車に乗り込んでいく。

 私も動揺を隠したまま、静かに電車に乗り込んだ。


————


『先日、東京都港区で変死体が発見された事件について、警察は三年前のS郡N町の事件と関連があるとして、クロックモール社と共同で捜査を開始したと発表しました』


 家に帰って、ご飯の支度をしている時だった。

 ピンポーン、とテレビの音声と鍋が煮える音を割ってチャイムが鳴ってきた。

「柚木梨香さん……でお間違えないでしょうか?」

「はい、私が本人です」

「では、こちらに印鑑を。……はい、どうもありがとうございました」

 ワンルームの部屋に高校生が一人暮らし。そんな宅配の若いお兄さんの訝しんだような顔を忘れて、私は受け取った段ボールの中を開けた。


『人口二百人ほどの小さな集落、S郡N町にて、三年前突如として起こったパンデミック。SARSウイルスの突然変異とも言われていたこのウイルスは、三日間にして住民の四分の三を死に至らしめたと言われていますが……』


「……またこんなに。自炊できるんだから、もう缶詰はいらないのにな」

 一緒に送られてきた封筒の中身を見ると、今月もまた二十万。

 バイトをするようになって、学費と合わせても絶対に使わないくらい余ってるのに。

 まるでそれは、私が失ったものと引き換えに送られてくるようだった。

 まぁ、実際それで間違いないのだけど。

 

『今回の被害者は、クロックモール社によって救助された奇跡の五十人と何らかの関連があるとして、警察は引き続き、世界保健機関から派遣された同社と連携を強めていくとしています』


 ゴトゴトゴト、とテレビの音を遮る鍋の火を消して、私はご飯を机に運んだ。

 やっぱり私以外、そこには誰もいない。

 空白の三日間で失った私の大切なものは、もう戻ってこない。


————


「……あ」

 気がつけば、あの薬がなくなってしまっていた。

 いつも欠かさずなくなる前に、大病院の薬局まで貰いに行っているあの薬。

 それを私はどういうわけか、もうすぐ薬がなくなることをすっかり忘れたまま、薬を飲み干してしまったのだ。

 今までこんなうっかりをすることなんてなかったのに、最近は一体どうしちゃったのだろう。

 ますます、ぼーっとしてる時間も増えてきた気がするし。

「……明日は薬局休みだし、明後日は一日中外だし……来週でいっか」

 あの薬を飲み忘れると大変なことになるとかは、特にお医者さんからも聞いたことがなかった。第一、薬だってあの日の症状の再発を抑える薬とか言われていたが、私にはもうなんのことなのかも思い出せないのだし、飲み続けて三年間そんな症状は一度もなかった。

 どうせ配給品や支援金と同じで、念には念を入れて大げさな薬を渡しているだけなんだろうと思った私は、とりあえず薬のことは後回しにしてその日は寝ることにした。


————


 その日、私はどういうわけか、優奈と一緒に今の家がある神奈川から東京の港区に来ていた。

「ねぇ、本当によかったの? 私と一緒で。プリスタの曲とか、全然わかんないけど」

「いいのーいいの! お母さん急なお仕事で仕方なかったし、せっかくなら梨香と来たかったし!」

 この間優奈が話していたプリスタが出演するテレビ局の音楽祭。観覧客として二人分当選していた彼女は元々お母さんと来る予定だったらしいが、都合が合わなくなってしまったため、急遽私を誘ってくれたというわけだ。

 申し訳なさそうな私のことなど気にせず、楽しそうに笑ってくれる優奈と歩いていたのは、あの特徴的な建物のテレビ局のすぐそばの跨線橋。地下鉄と新都市交通を乗り継いで、東京湾がすぐそばに見えていた。

 今日はその音楽祭が開催されることもあって、野外には巨大なステージが設置されていて、観覧客として当選した人たちか、あるいはこの地区の観光にきた人たちでかなり賑わっているようだった。

 今は大体お昼過ぎだけど、番組自体は夕方から始まる。観覧客の誘導もそれくらいから始まるので、まだ時間には十分余裕があるくらいだった。

「それで、お昼ご飯探すんだよね。どこか行きたい場所とはあったりするの?」

「うん! ここからちょっと歩いちゃうんだけど、ショッピングモールの中においしいパンケーキのお店があるんだって!」

「いいね、パンケーキ。私もお腹すいてきちゃった」

 そういうお店なんかは、私一人では絶対に行かないであろう、縁のない場所だ。そんな場所や体験をさせてくれる優奈や友達が、今の私にとって数少ない楽しみであり、温かい温もりのように感じるときがある。

 だけど。

 本当は私にも、お母さんとかお父さんとか、そんな大切な人ともっとたくさんの体験や思い出を作れたのかな、と思う瞬間が何度もある。もしかしたらそんな思い出がどこかにあったのかな、と考えにふける時間もある。

 その人たちと過ごしてきた思い出も、今では曇ったガラスみたいにぼやけたまま、なんとなくしか知らないから。

 これからの私の人生で、失ったものをまた一つづ取り戻していきたいな。

 そう願っても。

 あぁ。……やっぱり会いたいな、私の家族に。

 取り戻したいな。失ったあの三日間を……。


『——私は——ここだよ——ここにいるよ——』


「……え?」


『——おいで——早くおいで——こっちだよ——』


 ……誰の、声?

 咄嗟に当たりを振り返る。

 でも、声の主は見当たらない。


「……誰? どこにいるの?」

「……梨香? どうかした?」

 優奈じゃない。もっと大人っぽくて、優しくて……どこかで聞いたことあるような。


『——待ってるよ——私は「ここ」で待ってるよ——』


 まただ。

「違う……話しかけるんじゃない……」

「……梨香?」

 音が響いてるんじゃない。誰かの心が、誰かの想いが、私の心の中に無理やり割り込んできているんだ。

「テレビ局……?」

「何、テレビ局がどうかしたの?」

 優奈が私のそばに近寄ってきた。テレビ局。そうだ、誰かの心は必ず割り込んでくる方向がある。私の心に突き刺さる声には向きがある。それはあそこだ。あの建物だ。あの屋上の方から、弓矢みたいに狙い撃ちされたんだ。

「優奈、見て……」

 私はテレビ局の屋上の方を指差した。

「ん? ……えっ」

 優奈も何かに驚いていた。優奈にも誰かの心が刺さってきたの? いや、何かがおかしい。優奈はもっと上を見上げて驚いている。

「梨香ちょっと……ヘリが⁉︎」

「……へ?」

 バラバラバラバラバラバラバラ‼︎‼︎ と。

 音楽祭の様子を上空から撮影するために飛んでいたのだろう。テレビ局のヘリコプターが、何やら大きな変な音を立てて、どんどん海の方へ近づいていたのだ。

 まるで、墜落するみたいに。

 というか、炎上していないだろうか、あれ。

「キャ——っ⁉︎」

 悲鳴が響いた。それは優奈も、あたりを歩いてた人たちも同じだった。

「……嘘でしょ」

 ズン‼︎ と低く重い音が響いた。

 海の中でヘリが爆発したのだ。水柱のような高い波がこちらからも見える場所で上がっており、あっけないヘリの最後とは裏腹に、野外ステージのある方へ大きな波が押し寄せているようにも見えた。

「……ねぇ梨香、あれってまずいんじゃない……⁉︎」

「……」

 何かがおかしい。

 突然私の胸を貫いた誰かの声、そして堕ちたヘリコプター。声の方向はテレビ局の屋上、その上を飛んでいたヘリコプター。

 この間も港区は変な事件が起こっていなかっただろうか。それも三年前と関わりがあるとかないとか、そんなことをテレビは言っていた気がする。

 ……もしかして、そこにいるの?

 私の探している誰かも、あの三日間も。

「……優奈はここにいて。私、ちょっとテレビ局の様子を見てくる」

「えっ、梨香⁉︎」

 優奈の声を無視して、私は咄嗟に駆け出していた。黒髪のポニーテールがぐわっと揺れると、自分でも驚くくらい足は軽快に駆け出していた。

 ……そういえば私今日、こういう髪型をしてたんだった。

 できれば優奈を私の過去には巻き込みたくない。たぶん、なんとなくそう思ったんだと思う。あの子は私が三年前のあの町にいたことは知らないし、あの声も届いていないようだった。

 きっとあれは、私を呼んでいるんだ。

 それだけは確かだと思った私は、急いであの特徴的なテレビ局の前まで、気づけばあっという間に辿り着いていた。

 少しは予想していた通りだった。中からはすでに慌ただしく人混みができており、ヘリコプターが墜落したことに動揺した局の人たちか、あるいは観覧客の人たちが、どういうことなんだと言いたげな顔であちこちで声を上げていた。警備員の人たちも出てきて、集まってしまった観客をどうするべきか、戸惑っているようにも見えた。


 だから、その場には隙があった。


 人混みに紛れて警備員の人たちをすり抜けて、私はテレビ局の中に入っていた。低層フロアの一部は一般人でも入ることができるようになっているが、その先は違う。

 撮影でも使われるような大きなスタジオや、社員の人たちが出入りしているオフィスフロア、芸能人の人が入る控室など、普通の人たちの言うテレビの世界と呼ばれるエリアが広がっている。

 ……なんでそんなことが分かるのかもう忘れたけど、とにかくその先に屋上へ繋がるエレベーターなり階段なりがあるはずだ。

 低層フロアをある程度上がると、一般人が入れるエリアとは区切られたゲートがあった。おそらく社員の人が出入りするのだろうけど、今は下の階の騒ぎがどんどん大きくなっていって、警備のために立っている人も見当たらない。

「……ごめんなさい!」

 監視カメラか何かではバッチリ映っているのだろうけど、私は迷わずケードを飛び越えた。

 ゲートの先を越えると、細い通路といつくも区切られた部屋のようなものがいつくも並んでおり、やっぱりオフィスフロアの辺りに入ったことがすぐにわかった。ここで誰かにでも見つかったら、すぐに捕まってしまうのだろうなと恐ろしくなりながらも、私は真っ先にエレベーターのある場所へ早歩きをした。


————


「君、入館証も社員証も持ってないよね? どこから入ってきたの?」

「あ、いや、あの……」

 まずいことになった。

 上に上がるエレベーターを登っている途中だった。二十階くらい、あともう少しで最上階へ辿り着けるその直前で、エレベーターに警備員が乗ってきたのだ。

 警備員のおじさんはエレベーターの扉が閉まらないよう、遮るように立っていて、私は袋のねずみだった。

 おじさんは私の格好と今外で起こっていることを少し考えたような素振りを見せた後に、私にしつこく正体を問い詰めてきたのだ。

 まぁ、実際に不法侵入してしまったようなものだし、私が何か事件を起こしてやろうと思っていようがいまいが、私を絶対に上のフロアに行かせないぞという威圧感を全力で放っていた。

「ちょっとこっち来て。事情は後で聞くから」

「あ、違うんです、私……っ!」

「いいから来なさい!」

 ぐいっと腕を引っ張られて、私はエレベーターの外に連れ出されてしまった。

 このままだと最悪下の階に連れ戻されたり、もしかすると警察に突き出されたりなんて……そんなの御免だ。私は絶対に屋上に行かなくちゃいけない。そんな気分だけが私をこんなところまで連れてきたのだから。

 おじさんの手をなんとか振り解こうとして、私は大ぶりに腕を振ると、その手は案外すっぽりと抜けてしまった。驚きと同時に今しかないと思った私はエレベーターホールから通路の方に走り出したが、その先で何かとぶつかった。

 ぼすん、と柔らかい音がした。

「きゃっ——」

「うおっ」

 男の人の声だった。

 何やら硬いコートとジャラジャラした装飾物のような感触が私の顔を覆い、その人の胸に頭を押し付けてしまう形になった。それくらいその人は背丈が高かったのだ。

「すいませ——っ⁉️」

 謝らなくちゃ、と私は顔を上げると、一瞬思考が停止した。たぶんそれは、その人の顔立ちの良さに戸惑ったから、ということにしておきたい。慌てて後ろのおじさんの方も見ると、おじさんもとても驚いたような表情で私——というより、彼を見つめていた。

「あぁ、俺は大丈夫だから……君は?」

 その彼の顔はどこかで見たことがあった。そう、あれはテレビ……というか前に優奈が見せてきた雑誌の表紙を飾っていた……といか今日まさに見ることになっていたアイドルの……。

「館林……紡⁉️」

 その館林紡という人は、優奈が好きなアイドル、プリズミックスターズのリーダーではなかっただろうか。白を基調にしたきらきらのパール色に輝く衣装と、メンバーカラーと呼ばれる赤色の帯をたすきのように掛けて、彼はまさにこれからステージに立つアイドルの姿をしていたのだ。

「あれ……君は……?」

 彼は私の顔を見て何か疑問を抱いたような顔をしていた。スタッフでも出演者でもない私を見て、どうしてこんなの子がいるのだろうと思ったのだろう。

「館林さん! その子のから離れてください! 彼女は——」

 警備員のおじさんが大声で彼に呼びかけた。

 やっぱりおじさんはまだ私を事件に関係ある人か何かだと思っているらしい。

 だけど私はどうしても屋上に行きたい。行かなくちゃいけない。そのためには彼を押しのけてでも進まなくちゃいけない。

 私は彼をじっと見た。迷っていた。今目の前にいるアイドルの館林紡に迷惑をかけてしまうかもしれないことに躊躇いとか罪悪感を感じて、彼の顔を見続けてしまっていた。

 その私に彼は。


「いや、大丈夫です。彼女は俺の知り合いですから。……どこかで入館証を落としちゃったんだよね? なら一緒に行こうか」


「……え?」

 彼は笑っていた。ちょっぴり悪そうなにやけ顔で。

「さぁこっちだよ!」

「ちょっと……!」

 今度は彼が私の手を引いてちょっぴり強引に連れ出した。警備員のおじさんの抑止を無視して、私を非常階段のほうへ、重い扉を開けて暗がりの中に連れ出したのだ。

 踊り場の方までやってきた私は開口一番に言った。

「どういうことなんですか? 助けてもらったのは嬉しいですけど……どうして」

「どうしてって言われても……君の顔を見た時にふと思い出した……のかな」

 一体何を言っているのかと、私が一瞬困惑していると、彼はすかさず言葉を続けた。

「……君、S郡N町に昔住んでいただろ?」

「えっ……⁉︎」

 どうしてそのことを、と私が聞き返す前に彼はまたしても続けて、

「俺も昔あの街に住んでいたんだ。三年前まではね」

「三年前……?」

 三年前。あのパンデミックの後から街に住めなくなってしまったあの年。彼はそう言った。私はもしかしてと思ったが、それ以上口は言葉を発せなくなってしまって、彼の言葉に耳を傾けることしかできなかった。

「……三年前、あの場所で何が起こったのか……君は知ってる?」

「あ……」

 非常階段の灯りは絶対に明るいというわけではなく、ぼんやりと白い光が彼の顔を照らしていて。

 私の答え次第で、彼の表情は笑うことも怒ることも、泣くこともできるような不気味さを漂わせていた。

 でも私は、ありのままのことを答えるしかなくて。

「……テレビで流れていることくらいしか、知らないです……」

 私の声は震えていた。

「あの街に住んでいたのも、本当らしいんですけど……私、親ももう居なくて……どんな顔だったのかも……昔のこと全部、もう思い出せないんです……‼︎」

 私は必死だった。

 本当は言いたくなかったんだ。こんなこと。

 私の人生は空っぽ、というかボヤボヤだった。

 目が覚めて……ちゃんと自分を自覚できた時には、家族はみんな死んでしまって、お墓もみんな一緒の場所だった。

 生まれた町のことも、家族との思い出も、自分の幼い頃の記憶も、あの三日間の記憶も、それまでの私全部‼︎ 何もかも‼︎

 ……全部が全部、ぼやけたまま分からなくなってしまったんだ。

「……」

 必死に蓋をしていた私の感情は吹き出していた。

 親を失ったあの時以来、三年ぶりに泣いていた。

 アイドルの前で訳もわからず泣き出して、本当だったらめちゃくちゃ恥ずかしいはずだけど、今はそんなことにも構っていられなかった。

「……覚えていないのは、俺も同じだ」

 彼は泣いていた私に困ったような顔も見せず、少し悲しそうな表情で言った。

「医者から聞いていたでしょ? あのウイルスの症状で記憶に障害が残ってしまったって。俺も、あの三日間のことは何も覚えていない。ニュースでしか知らないんだ」

「え……?」

 あの館林紡もパンデミックの被害者だったなんて、そして私と同じ悩みを抱えていたなんて。そんな驚きに救われたのか、あるいは共感して悲しくなってしまったのか、まだ私の顔は涙で濡れていて分からなかった。

 彼は自分の手をじっと見て、それから私にまた問いかけた。

「……屋上からの『声』は聞こえた?」

「……はい」

「だったら、君はその先に来ちゃいけないよ」

「どうしてですか……?」

 私は私が何者であるのか知りたかった。あの日失ってしまったものも、私をこんなふうにしてしまった何かも、全部全部取り戻して、私を取り戻したかった。

 でも彼はその先を何か知っていながら、私を押しとどめた。

「……君の失ったものは多すぎるかもしれない。だけどそれを取り戻そうとするより、新しい思い出や大切なものを手に入れるために精一杯生きる方が、きっと誰よりも幸せになれる。俺はそう思うんだ」

 その言葉の意味は分かりかねたが、重みは感じ取っていた。

「……知らない方が、幸せなこともあるってことですか?」

「……そうだね。僕は君にそうなってほしい。せめて君だけでも」

 声色だけは優しいその声に、私は噛みついてもおかしくはなかった。

 だけど私の気持ちは、何かに強く縫い付けられてしまって、前に進むことを躊躇わせてしまった。

「……」

 それは恐怖。あの三日間の先に待っているかもしれない、とてつもない恐怖。

 まるで、あの泥の中でもがき続けた夢の中を思い出させるような、気持ち悪い感触が背筋を這った。

 ……あれは、本当に夢だったのだろうか?

 だって、あの夢で私は……家族を……呼んで……?

「俺は屋上へ行く。君はここに残って、俺が戻るまで大人しくしているんだ。問題はきっと解決してくるから。……いいね?」

 恐怖に縫い付けられた私は、館林さんの言葉にハッと我に返り、彼の方をとっさに振り向いたけど。

「待っ——!」

 私が躊躇した一瞬で、彼は非常階段を駆け登って屋上へ消えてしまっていた。

 たぶん、そういう気遣いだったんだと思う。

「……」

 私は、非常階段に座り込んで溢れ出そうな涙を堪えた。

 私の人生は、正直言ってめちゃくちゃだ。

 家族も失ってしまったし、その家族を失った日のことを思い出せないし、何も知らない病気のために薬を飲み続けているし、今度は人の心の声が聞こえるようになるし、私の過去を知ってるかもしれない人に出会うし。

 自分が生きているのか、死んでいるのかもわからない毎日。過去も家族も曖昧で、未来も決まってない。今でさえふわふわした感覚で生きて、少しづつ、楽しいことや失った何かの代わりを感じているだけ。

 館林さんは、それを追い続けていくことが一番幸せになる方法だと言った。

 でも、やっぱりそれっておかしい。

 過去は振り切らなきゃいけないっていう人の気持ちもわかる。だって何よりも辛いことのはずだし、私だってそうだ。

 でもまだ私は、本当のことを知らない。

 三年前のあの日。私の全てがおかしくなったあの日に何があったのか、たぶん館林さんは私より知っている。あのパンデミックの中で、私たちが忘れてしまった三日間の何かを。

 それを知ったら私は幸せになれないかもしれない。辛い現実と向き合うことになって、一度知った過去を振り切る決断を迫られるかもしれない。

 それでも。それでも私は。

「お父さん……お母さん……私……!」

 その声に応えてくれる人はいないのに、私は朧げな両親の前で決意するように呟いた。

 その時、だ。


『——梨香————私達はここにいるよ————待っているよ——』


 またしても、誰かの心が私の中に突き刺さった。

 だけど声の主は、私の名前を呼んでいた。

「お母さん……?」

 その声に聞き覚えはなかった。

 だけど私の声に応えるように聞こえたその声を、その人のもの以外の誰かだと考えることは全く出来なかった。


『——こっちだよ————早くおいで————梨香————』


 今度は暖かくて柔らかい男の人の声だった。私はそれを無意識にお父さんの声だと感じていても、はっきりと確信に至ることはなかった。

 だけど。

「……ああ」

 力を振り絞ったようにため息を出すと、私は階段を一歩登った。

「……そう、だよね。行かなくちゃ。……みんなが呼んでるんだもん」

 あまりにも気の抜けた、生きているのかも死んでいるのかもわからないような声だったかもしれない。まるで彷徨う亡霊のように、私は屋上へ続く階段を登り続けた。

 五階分か、十階分くらいか。登り続けてようやくたどり着いた先の見えない灰色の扉を、私は体全体を使って押しのけるように開けた。

 扉は重かった。暗い非常階段の中にしばらく居たせいで、東京の晴れ模様から入ってくる光が眩しかった。

 その目を一瞬瞑ってしまった瞬間の後だった。


 黒い水溜まりの中に倒れている館林さんと、それを見ている小さな男の子がいた。


「……え?」

「ん〜?」

「——きみ、は……っ⁉︎」

 目の前の光景は訳が分からなかった。

 ヘリポートのような屋上は視界が開けていて、その異様な光景以外に全く目に入って来ない。

 目の前の何から理解しようとすればいいのか分からなかった。

 でも館林さんのステージ衣装がボロボロに傷ついているのを見て、私はすぐさま駆け寄った。

「……館林さん‼︎」

「どうして……来ちゃダメだと言ったのに……‼︎」

 館林さんは震えながら屈み込んだ私の腕を握って、心底悲しそうな顔をしていた。

 やっぱり私に知って欲しくない何かがあったからなのか。それは今の彼の状態と関係があるのか。私はなんとなくそれを察していたけど、無知な顔で彼の衣装を見た。

 何やら刃物のようなもので切り付けられたような衣装の奥。彼の素肌が見えてもおかしくない先には、傷口のようなものはなかった。痛々しい血の滲みも一歳なくて、あるのは彼の体全体から流れ出たような、黒い水。血液の代わりにも見えるそれは、私もどこかで見たことがあるような色をしていた。

 館林さんは目だけを動かして、私の奥に立っている男の子を見て歯を食いしばった。私も彼を見た。

「……なになに、アイドルのくせに彼女なんていたの? ……それとも、そこの彼女も『関係者』なのかな、館林紡?」

 男の子はとても私の年下とは思えないほど落ち着いていて、不気味だった。

 館林さんのことを平気で呼び捨てにして、まるで自分が上に立っているみたいな話し方。何より不気味なのが、一瞬も彼のことを心配もしていないように笑ったその口の端だった。

「あなたは……」

「——君‼︎」 

 男の子のあまりの気迫に気圧されて話しかけようとしてしまった私を、館林さんは叫んで引き止めた。

「……ごめん、えっと……名前、教えてくれないか?」

 叫ぶのも命を削っているかのように息が上がってしまう彼は、動揺する私にそう問いかけた。

「……柚木、梨香です」

「梨香ちゃん、ね。……もう一度謝る。本当は君みたいな子を巻き込みたくなかった」

 突然彼はそう切り出した。

「でもこうなってしまった以上、奴をここで退けるには……君の力を借りるしかない」

 館林さんは水たまりの中から体を起こして、私に顔を近づけた。

「僕を恨んでくれたっていい。だけど僕は君に生きてほしい。だから君を——君の中の『S.E.A.L』を、引きずり出す……‼︎」

 彼は自分の体を支えていた右手を私のお腹に潜り込ませて、


 バンッ‼︎‼︎‼︎


 私のお腹から何かが爆発した。

「……あぇ?」

 ——びしゃ、びしゃびしゃっ。

「目覚めろ、真実の探求者……愚かなその身の進化を纏え……ッ‼︎」

 彼が何かを言っていたが、そんなもの私には何もわからない。

 それよりも、私の腹から出た『もの』だ。

 館林さんが力を抜いたように右手を引くと、そこには細長いL字型の、黒い塊のようなものが彼の手に握られていた。

 拳銃のようだとすぐさま思った。

「あっ——あ、あ……」

 あまりの驚きに私はパニックになってしまい、思わず立ち上がってしまった。

 それでも私の腹から出る『それ』は止まらない。

 ——びしゃびしゃ、どろっ。

 そうだ。『これ』を私は知っている。

 三年前のあの日。いや、夢の中で見たあの出来事だ。

 まるでこれは……。


「あっ‼︎‼︎‼︎ ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ‼︎‼︎‼︎」


 どろどろどろっ、と。

 私の意識は、黒い泥の中に沈んでいった。


————


 ——ようやく目覚めたか。

 秋の格好しては暖かすぎるであろう、黒のマフラーを巻いた中学生ほどの少年が笑った。

「へぇ……?」

「……くっ!」

 館林紡が後悔先に立たずと言わんばかりの顔で見ていたのは、少年と同じ対象物であった。

 一言で言えば、化け物。

 言葉を選ぶのであれば、人間だったモノ。

 全体的なシルエットは獅子に似ているようだが、厳密には人形に近い。肥大化した腕と上半身は、熊よりも凶暴な鉤爪のような形をして、足は四足歩行の獣のような短さと太さを持ち、皮膚は甲羅のように硬く、光を全く反射しない歪な質感と、所々に血管のような赤い光が走っている。

 それになりよりも、肥大化した上半身の先にある、まるで生き物を噛み砕くためにあるような大顎を持つ、鮫のような頭が見る者全てに衝撃か恐怖を植え付けてていた。

「梨香ちゃん……!」

 館林がその名を呼ぶ。目の前の先ほどまで人間だった彼女へ。その体から溢れ出た漆黒の泥を被って、内側から変異してしまった愚かな進化の姿に。

「————」

 返事はない。彼女の意識はとっくに沈んでいて、最悪の場合二度と浮き上がって来ないのかもしれないのだから。

「……すごいねぇ! 僕もいろんな形の『S.E.A.L』を見てきたけどさ、全身を変身させるなんて初めて見るタイプだよ‼︎」

 少年は年相応の子供のように無邪気に喜んでいた。しかしその興味の対象に惹かれる目つきには光がない。好奇心が猫を殺すような、勝手に道路の方へ走って行ったら、あっという間に自動車に轢かれてしまうような、危なっかしさを感じる無心の目つきだった。

「————」

 しかし少年の声にも彼女、というべきか、化け物のそれは応えない。

 何を考えているのか、どんな表情をしているのかもわからない。一見するとそれは、生まれたばかりで何も分からない赤ん坊のようにも見えるかもしれない。

 それはまだ戸惑っているのだ。自分という存在が何のために生まれたのかも知らなくて。どうしてこんなところで呼び出されたのかも分からなくて。

「じゃああれかな、今度は君が僕と遊んでくれるのかな! あははっ——」

 少年は楽しそうに笑っていた。

 楽しそうに笑いながら、彼は自分の掌を化け物に向けて。

「——じゃあ、まずは串刺しだっ!」

 びゅんっ、と黒い泥が飛んだ。

 次の瞬間、彼の掌から飛び出た泥が鋭い剣のような物体に姿を変えて、恐るべき速度で化け物の肩に突き刺さった。

 ドズッ、と。

「————ッ」

 化け物の体が一瞬震えるが、それでも痛がる素振りは全く見せない。突き刺さった剣の片手で引き抜くと、どろっ、という音とともに刺さっていた部分から黒い泥が湧き出る。しかし泥は一瞬のうちに皮膚と同じように固まって体の一部となり、何事もなかったかのように化け物は再びそこに佇んだ。

「自己修復——?」

 少年が疑問に思った瞬間だった。

 瞬、と化け物が足をバネのように縮ませた途端、先ほどの泥の剣にも勝るほどの瞬発力で少年の元に飛び込んだのだ。

「がっ——‼︎⁉︎⁇」

 それは少年が息を呑むよりも早かった。

 化け物が少年の身体を片手だけでいとも簡単に掴み取ってしまうと、その勢いを殺さずに屋上から地上に向けて真っ逆さまに飛び降りたのだ。

「梨香ちゃん‼︎」

 館林が叫んだときにはもうその姿はなかった。

 化け物は少年と共に空中の数秒間だけ飛んでいた。そのまま地面に叩き落ちるかにも思えたが、それはくるりと体を捻ると、肥大化した手につかんだ少年だけを、回転の勢いでテレビ局のビルの壁目がけて投げつけたのだ。

 それは砲弾のような速さだった。

 バガンッ‼︎‼︎ と、ガラスよりもコンクリートが容赦なく潰れる鈍い音が響く。

 化け物はそのままクルクルと体を回転させると、付近に立っていた商業施設の屋上に転がり込むように着地し、受け身まで取ってみせた。

 群衆のざわめきと共にパラパラとコンクリートが剥がれ落ちる音が聞こえると、壁にめり込むようにして先ほどの少年が咳払いをしていた。

「がはっ……。全く、これは……大したモノだよ、君は……‼︎」

 あれだけの速度で壁に打ち付けられておきながら生きている少年も、形は違えど化け物に変わりなかった。

 少年の体からもどろどろと黒い泥が流れ出ているが、彼はそれを再び剣のような形に、しかも二本分も形作ってみせた。今度は刃渡りの太く短い、刺すよりも切り落とす、さしずめ肉切り包丁のようなものにも見えた。

「その腕、その口、その身体……やはりそうだ。君が噂の……‼︎ ハハハ‼︎」

 少年はこれ以上ないというほどに愉快そうに笑っていた。目の前の化け物に力の差で圧倒されたにも関わらず、むしろこうしてあれと戦うことに喜びを覚えているかのような。

「ざっと『五十人』……‼︎ 蓄えるには十分すぎる口だものなぁ‼︎」

 目の前の化け物にそのことを理解させるつもりで言ったのではなかった。少年は他の同類よりも少し先のステージに進んでいて、この力を与えられた意味もわからずもがき続ける者たちと戦うことが好きなだけの、本質は年相応の少年なのだから。

 バシュン‼︎ と、彼も化け物に匹敵する瞬発力でビルの壁から直接あれに襲いかかると、化け物も剣二本には面倒だと感じたのか、肥大化した腕を盾にするように少年の斬撃を受け止めた。

 剣に斬られた程度では固い皮膚の腕は傷ひとつつかず、化け物は受け止めた腕を大ぶりに振りかぶり少年の身体を跳ね除けた。またしても爆発的な力で跳躍し、少年の懐に潜り込もうとするも、彼もそれを予期していたのか、化け物よりもワンテンポ早い対応で腕の拘束からひらりとかわし続け、斬撃を繰り返した。

 テレビ局の壁を簡単に破壊し、ビルによじ登っては壁に張り付いたり、目にも見えないほどのスピードで互いの体が衝突したかと思えば、コンクリートの煙を吐きながら違いを蹴飛ばしたり。

 見た目の違う化け物同士が本能のままに殺し合う、世界のルールを無視した争いが繰り返された。

「そこ————もらったァ‼︎」

 ドビュン‼︎ と。

 少年も幾度も壁に吹き飛ばされながらも化け物の隙をついて、ついにそれを海の方へ吹き飛ばした。

砲撃のようなスピードで吹き飛ばされた化け物が滝のような水柱を上げて海面に激突するのを見て、少年も多少は安堵した。

 あの重苦しそうな巨体が海を泳げる見た目には見えない。もし這い上がってくるようでも、水と陸からではこちらの方が圧倒的に優勢になる。水の中で再び串刺しにしてやれば泥の使った再生能力も鈍るはず。

 そう、考えのあまりにやけてしまっていた瞬間だった。

「何……っ⁉︎」


 そう、化け物は立っていた。

 水の上に立っていた。


「そんな馬鹿な……っ‼︎」

 どういう原理なのかはわからない。あれが反重力とかそういう類の反則技を使っているとしても、自分達同類にそこまでのイレギュラーを起こせるやつというのは存在するはずがない。

 しかし何度否定しても、目の前の現実ではそれは起こっている。

 それを起こせる奴はいる。

「ふ……ふざけるなあああああああああああああッッッ‼︎‼︎‼︎」

 少年が大ぶりに腕を振り回すと、泥がいつくもの形の剣を成し、そして横殴りの雨のように化け物に降り注いだ。正真正銘の串刺し。そしてゴリ押し。これをかわせるものはいない。それが少年の本気だった。

 しかし。

「ルガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアっっっ‼︎‼︎‼︎」

 化け物が初めて言葉を発した。それは咆哮だった。

 肥大化した腕を海面に叩きつけて水柱を沸き立たせると、その柱に自ら飛び乗る形で海面から飛び跳ねたのだ。

 それは槍の雨が降り注ぐ高さを簡単に避けてしまい、港区の晴れ模様に登る太陽と完全に重なった。

「う。うあああああああああああああああああああああああッッッ‼︎⁉︎⁇」

 少年が悲鳴をあげるがもう遅かった。

 バッコオオオオオオオン‼︎‼︎ と。

 彼はテレビ局のビルよりも高い位置から地面に叩きつけるような化け物の拳に完全に沈み、地面の大穴にめり込むような形で気を失った。


————


 目を覚ますと、私の目の前には大雨が降り注いでいた。

 上を見上げても空は晴れていたはずなのに、その雨は少し塩っぱくて、異様に冷たかった。

 そして私の下には、どういうわけか建物を突き破ってできた大きな地面の穴と、その中に埋まるさっきの男の子がいた。

 私のお腹に空いた穴も、流れていきた黒い泥も、全てが嘘のように無くなって。

 雨に濡れた髪が重たくって、私はたまらず頭を下に向けた。

「……私、何をした、の……?」

 そこに残された結果だけが、私を置き去りにしていた。

 泥の底で眠り続けた私は……いや、私の力は。

 大きな産声と共に目を覚まして、私を真実の世界へと誘った。

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泥の底で眠り続けた私 吉岡直輝 @YossyZN6

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