音楽小説 第二話 シューベルト 春の想い

@kuroiinu2001

一話完結

音楽小説 第二話 シューベルト 春の想い 


 

 実在しない友だちの記憶がある子供たちがいるそうです。本当はいない仲間と一緒に遊び、話をして過ごす。心の底から分かり合えていた友だちを、就学のころには忘れてしまう。そういうことは珍しくはないといいます。でも、私の場合は違う。そう言い切れるのです。わたしには、確かに弟がいたのです。そうしないと説明がつかないことが多すぎる。


 たとえば、家族のお弁当を作っているときに、四人分を用意してしまうのです。母と父、自分、そうして弟の分。あるいは、玄関に並んだ靴を見て、ずいぶんと少ないように思えるのです。通学に使う私のローファーの上に、乱暴に小さな靴が脱ぎ捨てられているさまがはっきりと思い出せるのです。


 時折、私は母や父に尋ねます、本当に自分には弟がいなかったのかと。

「いつもながら、おもしろい冗談だね」と父は言います。

「本当に弟がいたのなら」と母が聞き返します。

「なんという名前だったの?」

 私は答えられません。弟がいたはずなのに、名前が思い出せない。それどころか、顔さえはっきりとした記憶がないのです。


 私に少し抜けているところがあるから、子供のころのままの心で体だけ成長してしまったために、存在しない弟のことを信じ続けているのかもしれません。なにしろぼんやり生きてきたものですから、反抗期らしきこともなく高校生になり、そのまま家族とは仲がいいのです。

 私はありうる可能性を考えてみる。もしかしたら、幼くしてなくしてしまった弟の存在を、母や父は無理やり忘れさせようとしているのかもしれない。ひどくショックな出来事だったので、私の中にかけている記憶があるのかもしれないと。

 あるいは、何らかの事情である程度の期間預かっていた年下の男の子がいたのかもしれません。しかしそれならばなぜ、家族写真のアルバムにはその子の写った写真がないのか説明がつきません。私はいつもひとり、じぶんの部屋で寝起きしていた。その子の部屋はどこだったのでしょう。そうして、その子の持ち物はどこに行ってしまったのでしょうか?


 母曰く、私の想像力が逞しすぎるからだといいます。確かに今も空想の中に心を飛ばす癖があり、それを書き留めるノートは月に一冊の大学ノートを埋めるほどです。それでも、日々の生活はその違和感に浸っていられるほど暇ではありません。ファミレスでの恋の作戦会議。テスト勉強に、終わった後のカラオケでの打ち上げ。退屈な授業。家での受験勉強と、ぼんやりしている時間などごく限られている。いつしか心に引っかかる違和感は、遠いものになりつつありました。


 急展開を見せたのは、夏休みのある日、小学生時代の同級生にばったり出会った時です。喫茶店に入り、二人で思い出話をしていました。ふと、彼女が言ったのです。

『そういえば弟君は元気にしている? ずいぶん仲が良かったよね。近所の合唱部に行くときにはいつも一緒だったじゃない』

 私が住んでいる地域には本格的な合唱活動があり、声楽を本格的に習った夫婦が年代別の合唱部を指導していました。私『たち』は確かに一緒に通っていた。勉強が忙しくなってからは活動から離れたけれど、それまでは週に一度は、いっしょに市民会館に通っていたのだ。あの頃、市民ホールまでの片道十分の間、手を引いていたのは誰だったのでしょう?

 言葉に詰まる私を、懐かしい友人はいぶかしげに見つめていました。


 父が運転する車に乗って旅行をしたときに、並んで後部座席に座り、酔って吐いてしまったのは誰だったのか。祖父の葬儀でぐずり、ずっと泣いていたのは? 私は再び、記憶の迷宮へと引きずり込まれてしまったのでした。


 ある三月の比較的暖かい日。祖母が久しぶりに家にやってきました。四、五年前に転倒して骨盤を折ってしまい、それきり車椅子の生活が続いています。父の実家で伯父夫婦と暮らしていましたが、最近は軽い認知症を患い、施設に入所することにしたそうです。その前に私の家族に会いたいということで、急に訪ねて来たのです。食事会の準備でせわしない両親は、落ち着きのない狭い家のなかでは祖母の気に障るかもしれないと、私に散歩をお願いしました。私は近所の公園に、祖母の車いすを押して出かけました。そこでは祖母の好きな梅が咲いているのを知っていましたから。


 祖母は私がだれかわからない様子で落ち着かない表情を見せていましたが、梅の花を見るとその表情が柔らかくなるのがわかりました。梅の幹にそっと触れ、別れを惜しんでいるかのようです。

 少し気分が軽くなり、私は合唱部で習った曲を鼻歌で歌いました。シューベルトの『春の想い』です。少し風が冷たくなったので、私は祖母の膝に毛布をかけようとして、祖母の前に回りこみました。その時、やっと私のことを思い出したようです。


 祖母は優しく笑いかけ、こう言いました。

『あなたはその歌を、よく弟と歌っていたわね。確か合唱部の練習曲だと言っていたわ、違うかしら?』

 私は祖母の顔を覗き込みました。知らず知らずのうちに、涙がはらはらとこぼれます。

『あなたの弟の顔を今日は見ていないわね。ええっと、名前は……』

 私は固唾をのんで、祖母が名前を思い出すのを、じっと待ちました。


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