第2話

「んなーぉ」

「うわっ」

 僕は飛び起きた。何やら体が重いと思ったら、僕の胸の上にゲンキがいた。部屋は真っ暗だったのでゲンキを目視はできなかったが、猫の鳴き声に起こされたのでそれが分かった。そりゃあ重たいはずだ…この猫、今何キロあるんだ?なんともだらしない体型の猫を、僕は両手で僕の上から下ろした。長毛種であるゲンキの真っ白な毛は、いつも僕の布団の上にたくさん落ちている。今もその毛が増えたろうが、まあそんなことはどうだっていい。

 それにしても、高校が夏休み期間に入ってからゲンキに起こされてばかりだ。ゲンキは、四人いる僕の家族の中で一番ゲンキの世話をしていない僕に、一番懐いている。なんだか家族に申し訳ない。そしてこの猫は夜中に僕を起こすのだ。

「今何時だ…」

 僕は掠れた声で呟き、枕元のスマホを手探りで探した。スマホらしきものを掴むと、それは待ち構えていたかのように強く発光した。

「まぶし…」

「んなぉー」

 目をやられた僕の苦しむ声に答えたゲンキは、ドスドスと足音を立てて僕の部屋を出た。だんだん目がスマホの明るさに慣れてきた頃にもう一度時刻を確認して、僕はまた目を閉じた。

「一時…」

 僕の体内時計は、完全にイカれてしまっていた。もとより夜行性の体質ではあるが、長期休暇中は社会の時間と自分の時間を合わせる必要がないから、毎回のごとく昼夜逆転の道を辿る。

 十二時に寝てみたが、やはり一時間で目が覚めてしまった。当然だ、昼にしっかり睡眠をとっているんだから。つまり今のは普通の人の「昼寝」のようなもの。昼夜逆転生活は、一度そうなってしまえば抜け出すのがかなり難しい。

「腹減ったな」

 正直、食事は好きではない。寝ることにしかエネルギーを使っていないような僕でも、なぜ腹が減ってしまうんだろう。生命維持活動が面倒だ。でも、睡眠は嫌いじゃない。「何もしない」に限りなく近い活動だから。

 ぐぅ、と腹から音がした。好きではなくても、やはり今は腹が減っている。僕はゆっくりと立ち上がり、ぐんっと伸びをした。まず電気をつけた僕は、ぼやける視界の中のメガネを探す。ああ、あった、あった。

 僕はベッドの脇にあったメガネをかけて、部屋を出た。家族は皆もう寝ているようだ。出来るだけ音を立てないように階下へ向かうが、僕の意に反して階段はギシギシと鳴く。リビングに到着すると、机の上に千円札と何か書かれているメモが置かれているのが見えた。僕は電気をつけてそのメモを覗き込んだ。

『優くんへ

 ごめんなさい。優くんの晩ご飯まで亮くんが食べてしまったから、お腹が空いたら私を起こしてください。簡単なもので良ければいつでも作るからね。食べたいものがあれば、買ってきても構いません。夜道に気をつけてね。

 母より』

 僕は机の上にあった千円札をズボンのポケットに入れた。亮くんというのは僕の弟だ。亮は僕のような何も考えていないような人間とは正反対の人間で、常に目標や目的のために行動しているし、実際にその行動や努力の成果は人より優れていて、僕は弟を尊敬している。まあ、僕がこんな生活をしている今のような期間は、全く口を利かないのだけれど。

 僕は静かに家を出て、コンビニへ向かった。星は幾つか見えるが、そんなことよりも暑くてたまらない。コンビニなんて家から徒歩三分もかからない場所にあるのに、僕はその時間をひどく長く感じた。気温もだが、何よりも湿度が鬱陶しいな…。

 やっとコンビニが見えてきた時、早くあの涼しい場所へ…と駆け出そうとして、僕は立ち止まった。

「え…何…」

 僕は一人でそう呟き、コンビニの前にある大きな物体に近づいた。近づきながら、もしかして…と、僕の頭の中をある言葉が過ぎった。

「し…死体?」

 思わず声に出してから気づいた。これは、人間だ。夏だというのに、黒色のパーカーを着て、フードを被って地面に倒れている。僕に背を向けているような形になっているため顔は見えないが、体格からして、男だろうか?死んでるのか?何でこんなところで?見たところ刺し傷などは見受けられないが…?僕はその人間を間近でじろじろと見た。

 とりあえず、コンビニの中に入った。扉が開いたことで音楽が鳴り、レジでうとうとしていた店員が咄嗟に「いらっしゃいませ」と声を出した。申し訳なくなりながら、僕はいくつか商品を購入してすぐに店を出た。

 例の人は、先程と同じ体勢で倒れていた。やはり死体のように見えるが…

「あの…水、いります?」

 ぴくっ、と死体らしきものが動いた。ああ、良かった。生きてた。僕は安心して、もう一度声をかけた。

「今買ってきた、冷たい水」

 のそのそと黒い物体が動いて、パーカーの男は上半身を起こした。それから、ゆっくりと僕を見た。

 その瞬間、十七年の人生で初めての感覚に陥った。心臓が止まってしまったかのように呼吸を忘れ、心臓が暴れているかのように爪先から頭頂までがひどい熱を持った。そのとんでもない矛盾を表す単語を、僕は知らない。

 僕は為す術なく、彼の動きを見つめていた。意志の強そうな大きな目が、ゆっくりと細くなり、口元が弧を描く。彼は笑っているのだと、しばらく気がつけなかった。とても人間とは思えないほど美しかったから。

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