8話 美術部②

 私達が中央棟の四階にある美術室に行くと、鍵が掛かっていて中に入れなかった。

「誰もいなそうですね」

 美術室はおろか四階の廊下は静まり返っていていた。今日はまだ吹奏楽部も休みなのだろう、平素は賑やかな中央棟四階が物音一つしない。

 知らずついた自分のため息が大きく聞こえた。せっかく美術室まで来たのに空振りというのはなんだか悔しいものだ。

「まあまあ、葉月君」

 ポンと両肩に水瀬先輩の手が置かれた。視界の中に映る手は女子にしては大きく、長い指先にある爪はマニキュアを塗っている訳でもないのに、ツルッと滑らかで桜貝のようだった。

 水瀬先輩が私の背中越しにドアについた磨りガラスを覗き込みながら言った。

「いっそ割って侵入してみるかい?」

 耳元で囁かれた言葉はひどく物騒なものなのに、相反して優しい響きを持っていた。

「テストも明けたのに、美術部はおろか吹奏楽部もいない。おかしいじゃないか」

「行方不明者も出てますしね」

「そう、これはだ」

 私は水瀬先輩の顔を仰ぎ見た。

「でも、どうしたら? 私達はしがないですよ?」

「その通りだ。だから、やってみるのはどうだろう?」

「というと?」

「台本の中に出てきたピストルは撃たれなければならない」

「『チェーホフの銃』ですね」

「そう。では、鍵のかかった扉なら?」

 私は考える。『チェーホフの銃』はロシアの劇作家であるチェーホフが提唱した演劇の技法の一つで、簡単に言えば舞台上に出てきたモノには全て意味があり、その役目を果たさなけばならない。

 銃が出てきたならば発砲しなければならないし、ジュースが出てきたならば飲まなければならない。鍵の掛かった扉が出てきたならばーー

「こじ開けられなけばならない、ですね」

「そうだ、葉月君」

「私、バミテ用のビニールテープ持ってます」

 私が鞄を開けようとしたところで、ガチャリと鍵の開閉音がしたが、その音は目の前の美術室からではなく、隣の美術準備室からだった。

 間もなく美術準備室のドアが開き、慌てた様子で「めてくれるかな、お嬢さん方」と美術部の顧問である桜井先生が飛び出してきた。

「これ以上ややこしいことは御免だよ」

 傍らにいる水瀬先輩を見ると、してやったりとほくそ笑んでいた。その姿は不思議の国のアリスに出てくるニンマリとした笑みを浮かべた猫によく似ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る