異世界の物語
@atumenarabe
第1話
僕は、日本で男子高校生をやっている。名前を竹山青人という。ごくごく平均的な、ありふれた家庭環境で育った。家はそこそこ都会にあり、いわゆる核家族というやつで、僕は一人っ子。両親は共働きで二人の仲はまあまあ、特別裕福なわけでもないし、貧困してもいない。僕と両親の仲も、僕の平均的な反抗期を経て、今は落ち着くところに落ち着いた。六月現在、公立高校の二年生で、学校での成績は中の上ほどだ。友人関係は狭く浅くのスタンスで、学校生活を送るために必要最小限の人間関係は築いている。これといった趣味はない。基本的にインドア派で、小説、漫画、アニメ、映画、音楽、それぞれにそこそこの興味を持っていて、とくにやりたいことがない時は動画投稿サイトなどを見て暇をつぶす。我ながら、紹介する甲斐の無い人生だ。まぁ、大した不満なく過ごさせてもらっているし、取り柄もないしとび抜けた努力もしない自分に相応の、それなりの人生だと思っている。このままいけば恐らく、今のままの成績を維持し、親や教師の言う大学を志望し、無色透明な大学に入学し、面白くもない講義で単位を稼ぎ、入れる会社に入って、ごまかしごまかし生きていくに違いない。それ以外の道が見当たらない、そんな人生であるし、僕はその程度の人間である。俯瞰する価値もない僕の人生を俯瞰するとそんな感じ。そして現在に焦点を当てれば、今僕は平日の朝、いつも通り、やかましい目覚まし時計を叩いて黙らせ、体を起こし、眠い目を半開きにしつつ、顔を洗いに一階に降りる。
「おはよう、青人」
「うん」
うちの平凡な両親のうちの片方である父親と出くわし、朝の挨拶を交わす。彼は通常通り、僕が起きて一階に降りる頃には出る支度をしている。歯を磨いて顔を洗い、食卓に行くと父はもう出ていて、母親はパンにウィンナー、スクランブルエッグを準備し終えていた。僕と母は同じくらいのタイミングで食卓につき、一緒に朝食を食べる。
「最近、勉強はどうなの?」
「普通だよ」
よくもまあ、飽きもせず勉強の調子などを聞いてくるものだ。朝の頭が回らない時間に、誰も興味のないことについて質問して、何か面白い情報が返ってくるとでも思っているのだろうか。いやまぁ、特別喋ることのない空白を埋めるために適当にした質問か。僕も飽きもせず普通だとかまあまあだとか答えているし、この気まずい時間を削減する努力を怠っている。うちにはテレビがないので、我々の食卓からは家族同士の内容のない会話くらいしか聞こえてこないのである。などと、いつもと同じようなことをいつも通り頭の回らないまま考えながら食事を終わらせる。
「ごちそうさま」
部屋に戻り制服を着て、学校の荷物を持って玄関に行く。家を出る準備を終えかかっている母親を尻目に靴を履いて、
「いってきます」
「いってらっしゃい」
とやり取りして、家を出る。学校までは徒歩十五分ほど。毎朝この間、取り留めもなく考え事をしながらとぼとぼ歩く。「正しい」とはどういうことなのか。例えば、道徳の教科書の言うことは正しいのだろうか。そんなわけがない。ヤツが言うには、善悪を判断し、自分を律し、自由と責任を持つべきだし、節度を保ち、正直で、誠実であるべきだし、個性を尊重すべきだし、親切心や思いやりを持つべきだし、感謝の心を持つべきだし、礼儀を重んじるべきだし、規則を守るべきだし、生命を尊ぶべきだし、自然には畏敬の念を払うべきらしい。馬鹿が。善悪をないまぜにし、他を思いのままにし、自由のみを謳歌したいし、節操を捨て、他者を欺き、裏切りたいし、自分以外の個性は潰したいし、親切心や思いやりは時間の無駄だし、感謝はめんどくさいし、礼儀を守ってもらえると思っている上の立場に立っているつもりのカスどもの鼻を明かしたいし、規則は無価値だし、生命は凌辱せざるを得ないし、自然に畏敬の念を払ったところでなんなんだ。やはりだめだめだな、道徳の教科書なんざ。あんなのは全くもってあてにならない…と、冗談はさておいても、知らないどこかの誰かの利益を保証することと、正しいという概念が関わりあるはずもない。では、例えば目の前に起こった事実を述べたら正しいことを言ったことになるだろうか。人間の、事実を記述する言葉は正しいといえるのだろうか。これも怪しいところである。そもそも人間の、事実を記述する言葉というのは基本的に、正確には「事実を記述したつもりになっている言葉」であり、実際には、そういうふうな記述が事実だったら都合がいいな、くらいの意味しか持っていなかったりする。目の前に車が通ったから「私の目の前に車が通った」と言っても、当然本当のことかどうかは分からない。知らないうちに幻覚剤を飲まされている可能性も無きにしも非ず、である。しかし、目の前に車が通った程度のことすら、正しいかどうかわからないからといって言葉にできないんじゃあ困る、都合が悪いから、「私の目の前に車が通った」という言葉は正しい、としてしまう。まあ、「くらいの意味しか」などとは言ったものの、皆さんご存じ科学なんかはそのスタンスで大成功を収めている。ただそうは言っても、科学の言葉も、「正しい」というよりかはやはり「人間を物質的に豊かにする」といった類のもので、確かに役立つが、しかし正しさとは違う。そして聡明な皆さんはもうお察しのとおり、正しいとはどういうことなのか、なんてのは朝登校中のボケっとした高校生が足りない頭で考えたって――――――――――ゴッ。―――――――――何の役にも立ちそうにないんだよね、って、え?何だ、思考の途中に妙な擬音語があったぞ。しかも急に光が失われた。現在、目の前は真っ暗だ。何が起こった?あ、視界全体がなんとなく明るくなった。視界というか、今は目を閉じているようだから、まぶたを光が透かしているらしい。何か、人影のようなものがぼやっと、上下さかさまに見えている。これはどちらかというと自分が上下さかさまになっているみたいだ。
「おんぎゃあ」
自分の喉から、赤子が発するような音が漏れ出た。それになんだか全身、濡れている感覚がある。どういうこと?何が起こってんの?
「〜〜〜〜〜〜」
「〜〜〜」
「〜〜〜〜〜」
人間の言語であろう音が聞こえるが、何語か、どの地域の言葉か、見当もつかない。どんな感情が混じったものなのかもなかなか分からない。はーあ、何だ何だ?読者の皆様方の時間を無駄に奪うためだけの言葉を必死につづりながら歩いてたら、角を曲がった時に車に気づかずに跳ね飛ばされて死んで、生まれ変わっちゃったとかか?勘弁してほしいね、一応僕は最初に取り留めもなく、って断っておいたはずだし。勝手に取り留めたのはそっちじゃないか。……まじか、人生ってこういうこともあるの?もしかして、ゴッ。とかいう妙な擬音語は車にぶつかった音?ふーん、痛みを感じる間もなく、ってことか。恐怖も感じる暇がなかったから、死に方の中でも相当すっきりした死に方だったのかもな。運が良い。良いのか?まぁいいや。前世(まぁ、この世界の特殊な事情でこの脳みそにそういう記憶が生まれた時から備わっているだけで、実際には今僕が前世だと思っているような事実はなかった、みたいな線もあるけど、なにしろ訳わかんない現象ではある)に特に未練はない。前述の通りだが、特に何も無かった人生だった。この生まれ変わりによって失ったものなど大して無い。今世で何かしらがあることを期待しよう。…誰かに抱き上げられたあと、別の人物に手渡され、抱かれる感触があった。恐らく母親だろう、なんとなくの直感だが。やけに筋肉質だ。まだ目ははっきり見えず、体が思うように動かない。怖い。が、謎の安心感もある。なんだか眠いし、このまま寝てしまいそうだ。
本当に寝ていた。呑気すぎる。こんな未知の環境で。僕が前世で赤ちゃんだった頃もこんな愚かしい有様だったのだろうか。今はどうやらおんぶ紐のようなもので人に負ぶわれているらしい。僕を背負っている人からは、母親に感じた筋肉のゴツさを感じない。引き締まった感触ではあるが、どこか柔らかく、背中もそこまで広くない。赤ん坊の世話を見させられている子供だろう。そういえば目もはっきりと見える。はて、生後何か月間か赤ちゃんは目が完全には機能しないと聞いたことがあったが、これも生まれ変わりの影響だろうか。しばらく周囲の観察に努めよう。
どうやら、文明の発展のレベルが日本と全く異なっているようだ。まぁ、何をもって文明の発展と呼ぶかははっきり定まったものではないかもしれないが、少なくともここの文明には電気、水道、ガスは無いようである。人数規模2、300程の山間部の小さな集落といった様子で、人々は湧き水を利用し、薪で湯を沸かし、植物からとった油を照明としている。衣服は麻のような質感の質素なものだ。履物は動物の皮で作られている。住居は木造で、日本の雪が多い地域の伝統的な家屋と雰囲気がどことなく似ている。里の周囲は山に囲まれ、里全体が山の斜面に存在しているようだ。家などの建物は段々を作って平らにされた地面に建てられている。季節は元居た世界よりもゆっくりと巡るようだ。食料は自然から採れる植物や木の実、狩りで得た獲物、そしてわずかな栽培物である。そしてその多くが、僕には馴染みのないものばかりだ。まぁそもそも、僕は野菜が嫌いなので植物のことは元の世界のものだって良く分からないが、動物に関しては明らかに見知らないものだらけである。根本的にどの獲物もサイズが大きく、牙や爪が見るからに発達しているものが多い。イノシシに似ているかと思えば牛のような角が生えていたり、クマに似ているかと思えば頭部はイノシシにそっくりだったり、虎に似ているかと思えば額に長い一本角が生えていたり、と様々である。人々はある程度年少の者も含め皆、狩りに行く時も行かない時も、ダガーナイフと呼べそうな小さな諸刃の刃物を常に右腿に縫い付けてある帯にくくっており、狩りにはそのナイフや、槍、弓矢、更には棒手裏剣のようなものを使っているようだ。そして、この世界の人間達の身体的特徴はやはり元の世界の人間と多少異なっている。まず、母親にも感じたことだが、全体的に筋肉質な体つきをしている。男女問わず、年齢問わず。それに、平均身長は日本よりもかなり高めのようだ。顔立ちは元の世界のどの人種とも違った感じ。強いて言えば東アジアの人々に近いか。髪は皆黒く、瞳の色は深い穴が開いたような黒色だ。長髪の者がほとんどで、その多くは後ろで様々に結っている。ただ…先ほどから男女問わず、年齢問わず、とか、平均身長、とか言っているが、ひとつ不自然なことがある。ある一定以上の体格の男性が極端に少ないのだ。僕がここへ来てかなり経ったが、長期間どこで何をしているのだろう。まだここの言語を習得していないので情報を集めるにも限りがある。うちの家族構成は母と僕だけだ。兄弟はいないようで、母が狩りか何かでいないときによく面倒を見てくれる女の子は近所の子のようだ。女の子、といっても体格は中学生女子くらいある。そして個人的にはお留守番くらい一人でできるもんとでも言いたいところだが、まだそれを伝える術は持っていない。ごめんよ…、すっごい猫なで声で遊び相手になってくれているが、僕は本来そんな風に接してもらえるような未来ある幼子じゃないんだ…。もう精神の成長の見込めない(最悪だ)、手の施しようのないカス野郎なんだよ…。わざわざ時間をかけてまでこんなカス幼子の相手をさせてしまってごめんなさい…。あっ、楽しい…、あばぶばぶばぶ…。あぁいかん、いかんいかんいかん、情報収集だよ、情報収集。やはり、ゴロゴロして母にお乳をもらい(無心になるのは得意だ)お姉さんに遊んでもらっているだけの日々を過ごしていると、どうも色々鈍っていけない。まあ別に、元の世界でもそんなにシャキシャキした人生を歩んでいたわけではないが、ここまで甘やかされるとなんだか抜本的にダメになっていく感覚がある。なんとかせねばと思っても、こちとらまだハイハイの真似事くらいしかできないのだ。誰かなんとかしてくれ。おねーちゃーん。
「〜〜〜〜〜」
「〜〜〜〜〜〜〜」
「〜〜〜ヨカ〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
「〜〜〜〜〜〜〜〜」
母が帰ってきた。お姉さんと二言三言交わして笑いあう。ヨカという音は僕が呼びかけられているときや、母と他の人との会話でも良く聞こえてくるので僕の名前だと思っている。母の左手には獲物の鳥類らしきもの二羽(全体的に茶色で、首は長く、二本の足には鱗があり、上の嘴がドリル状になっている)の首が握られている。狩りの首尾は良好だったようだ。
「〜〜〜〜〜〜〜〜」
母が僕に顔を寄せて微笑んでいる。なんだか楽しそうで僕もうれしくなって、笑ってしまう。僕が大きくなったあとも、この世界の母とは気さくに笑いあうことができるのだろうか。前の世界で、特別両親と仲が悪かったわけではない。しかし、反抗期以降なんとなくそれ以前の関係は失われてしまって、結局死ぬまでこんな風にお互い楽しく笑いあう、なんてことは一度もなかった。さあ、今世はどうなることやら。
生まれてから三年ほど経ち(この世界では一つの季節が元の世界でいう一年に相当する程の期間続くようだ。まぁこちらの一年は一季節で数えるから、この世界で「一年」と言っても前の世界での一年とそんなに変わらない。今年は日本の夏をマイルドにしたような季節だ。生れたときはもっと気温が低く、少し肌寒いくらいだった)、自分である程度歩けるようになって、言葉もそれなりに分かるようになった頃のある日、目覚めると里全体がざわついていた。母もとっくに目を覚ましていて、なにか土間で料理をしている。それもかなり大がかりな様子だ。祝い事でもあるのだろうか。
「あらー、もう起きたの?早いわねぇ。起こしちゃったかしら」
母はゆったりと、落ち着いた声で話しかけてくる。僕のお母さんは、この里の人々の例に漏れず引き締まった肉体の持ち主だが、本人はのんびりとした性格らしい。我々が使う言語はテグル語と呼ばれている。
「だいじょーぶ」
対する私は少々舌足らずに答える。生後一年ほどの時期には、完全な日本語は発音できないが、かといってきれいなテグル語を話せるわけでもない、中途半端な状態だったが、現在では日本語訛りはほぼ完全に消え、舌足らずながらも他の同年代の子供と同程度にはテグル語を話せているはずである。
「今日はね、お父さんたちが久々に帰ってくるから、里のみんなで宴をするのよ。楽しみねぇ」
ほう、父親が帰ってくるのか。里に成人の男性が少なかったから予想していたが、やはり皆集団でどこかへ遠征しているようだ。では気になっていたことを聞いてみよう。
「おとーさんたちはどこへいってたの?」
「お父さんたちはね、里から遠いところでお仕事してたの。いろんな人からお仕事をもらったり、山でとれた動物たちや薬草を加工して売ったりしてるのよ」
ふーん。でも、この里に商人なんかが来たのを見たことがない。貨幣自体を持って帰るんじゃなくて、生活必需品かなんかに変えてくるんだろう。しかし、いろんな人から仕事をもらうってなんだ?
「いろんなひとって?」
「いろんな人がいるのよ。モノを売るためにたくさん荷物を運ばなきゃいけない人とか、大切な人を守ってもらいたい人とか。お父さんたちは強いから、いろんな人に頼ってもらえるのよ」
「へー」
用心棒みたいなことか。しかしお父さんたちは強い、って、うちの里の成人男性はみんな強いのか?確かに今里にいる人達でさえかなりいかつい見た目をしているが、本当にそんなことあるんだろうか。
「なんにんくらいでさとをでるの?」
「そうねえ、毎回だいたい二百人くらいかしら」
「にひゃく!?」
「そうよ。里に残ってる人たちはみんなの住むところやヨカみたいな小さな子を守って、里の外にお仕事に行った人たちは里の近くでは手に入らないものを里に持って帰るの。そうして里の皆が安心して豊かに暮らせるようにしてるのよ」
二百!?いや、帰ってきたら里の人数が倍になるじゃないか。どんだけ出稼ぎに出てるんだ。山の資源って意外とそんなに豊かじゃないのか…?見渡す限りの森で、豊かな自然って感じだけどな。まぁ確かに、塩なんかは手に入りにくそうだが…。
「カェシ姉さんおはよー!ヨカも元気してる?元気そうだなー!いいことだ!」
近所のお姉さんことキジメお姉ちゃんがお見えになった。カェシ、というのは母の名前だ。キジメお姉ちゃん、僕がまだ言葉を解さない頃からなんとなく活発なことは分かっていた。そして言葉が分かるようになった今、キジメお姉ちゃんのパワーを真っ向から食らっている。お母さんとは違って、見た目通りパワフルな人、って感じのお姉さんだった。ちなみに我が家との血縁関係はないらしい。
「姉さん、宴の準備終りそう?あたしんちの方は余裕そうだったから姉さんの方手伝いに来たんだけど」
「あらぁ、ありがとうねえ。でもお料理の方は大丈夫よ。あ、もし手が空いてるならヨカのこと見ててくれないかしら。私は今からレギンのところに調味料いくつか借りてこなくちゃいけないの」
「わかった!任せて!ヨカの面倒を見るプロとはあたしのことだからね!」
「ええ、頼もしいわね」
「いってらっしゃいおかあさん」
「はーい」
お母さんは出ていく。ちなみに、日本語に「母」、「母さん」、「ママ」など複数の「母親」を指す単語があるのに対し、テグル語に母親を指す単語は基本的に一つしかない。ゆえに日本語にする時にはその時々のニュアンスによって訳し分けることになる。さて、この元気いっぱい娘と二人っきりにされてしまった。
「二人っきりだね…ヨカ」
三歳児相手に何がしたいのだろう。なんかちょっとしおらしくしている雰囲気を出したそうにしている。普段の行動が頭にこびりついているのでそんなこと叶うはずもない。あーあ、言葉が分からないときは明るくて優しいお姉さんだったのに。もしかして僕が0歳児のころからこんな訳の分からない情緒で接されていたのだろうか。
「そ、そうだね、まちがいはないとおもうよ、おねえちゃんのいったことに。いまここにいるのはまちがいなくふたりだけだね」
肯定してみたが、どうなるのだろうか。
「 キャーーーーー!!!そうだね、ヨカはお姉ちゃんの膝の上がいいもんねぇ!」
返答を聞いてもどうなったのか分からない。この人の脳内が。もしかしたら僕がテグル語に未習熟であるがゆえに、何かニュアンスが不正確に伝わってしまったんだろうか。なんだかそういうレベルの話でもない気もする…。両腕で抱きかかえられて強制的に膝の上に抱かれる。満更でもないなぁ。前世では年の近いこういう存在が身の回りにいなかったので新鮮な気持ちだ。いや、そういえば年が近いも何も、僕はキジメお姉ちゃんの年齢は知らないんだった。ここにも女性の年は聞いちゃダメ、みたいな文化はあるんだろうか。まあいいや、聞いてみよ。
「ねー、おねえちゃんはなんさいなの?」
「あたしは今年十歳」
へー。意外と若いな。もう日本の成人女性とそんなに身長が変わらないぞ。今年十歳ってことは、僕が生まれた時には七歳ぐらいで、その時にはもう背丈が女子中学生くらいあったから、僕も相当な速度で成長するのかな。しかし僕のお母さんは2メートルくらいあるから、お姉ちゃんもまだまだこれからなのか。空恐ろしい。
「十歳だからなー、狩りに出なくちゃいけないんだよ。まだ大人ほどいかなくてもいいんだけどな。今までのようにはヨカと会えなくなっちゃうんだぞ?悲しいだろ!」
「かなしー」
「えへへへ!そうか!ヨカはお姉ちゃんと会えなくて悲しいかー!」
うれしそうだな、年下の三歳に言わせて。あと子供が悲しんでるのを見て手放しに喜ぶな。まあほんとはそこまで、ほんの、ちょっとしか、悲しくないからいいんだけど。
「あたしのこともカェシ姉さんみたいにママって呼んでいいんだぞ?ほら呼んでみ?キジメママって」
「まま?でもおねえちゃんはままじゃなくておねえちゃんでしょ?」
「細かいことはいいんだよ。なんだ、ノリ悪いぞ?おねえちゃんとヨカの仲じゃん。ほら、あたしのおっぱい飲むか?」
とっくにそんな時期終わってるわ。この世界の人間はやはり成長が速いのか、前の世界の赤ちゃんよりも大分早くに母乳は卒業した。てか出ないだろ。え、ここの女性は出るのか?十歳だぞ?おっぱいを飲まされそうになったりしながらじゃれついていると、お母さんが帰ってきた。
「あらあら、ヨカはお姉ちゃんが大好きねえ」
「そうなんです、あたしたちは夫婦になったほうがいいみたいなんです」
「あらあら」
怖い冗談だ。もし本当にそうなれば尻に敷かれるどころの話じゃないぞ。尻に敷かれたうえにおっぱいを飲まされる。
「あぁ、そうそう、旅の皆が帰ってきたわよ。キジメちゃん、お出迎えに行ってあげて」
「りょーかーい」
キジメお姉ちゃんはそう言って出て行った。出稼ぎの集団が帰ってきたみたいだ。確か僕のお父さんもいるんだったか。
「あぁ、そういえばヨカ、お父さんは死んだって」
えー…?
「お父さんは昔からちょっとのろいところがあったのよね。それにしても、お父さん今回で三回目の外のお仕事だったんだけど、珍しいくらい早死にだったわね。ヨカはお父さんみたいになっちゃだめだからねー?場合によってはみんなに迷惑がかかっちゃうのよ」
「はあい」
何だ、死者に冷たい文化なのか?悲しんでいる様子も、こちらに悲しむことを期待している様子も全くない。まあ確かに、前の世界でも文化によって人の死をどれくらい悲しむかは違ったりすることもあったが、急にこういう場面に触れるとびっくりするな。いやまあ、顔も知らない父親が死んだとて悲しいとも思わないが。今となっては僕の精神の年齢は大学生くらいなのだから。まあ郷に入っては郷に従え、という言葉もある。ここでは僕が異端なのだから、皆の様子を見て態度を考えないとな。
夕飯時を少し過ぎたころ、里の皆は里のはずれにある広場に集まっていた。各々椅子に座って談笑していたり、子供たちは走り回って遊んだりとそれぞれだ。そして、そこには今まで里にいなかった人々もいる。その集団は皆暗めの色をした生地の服で頭まですっぽり体を覆っていて、肌は目元と手くらいしか見えないようになっている。まるで忍者、とはいかないが、雰囲気はそれっぽい。遠征していた集団の規模はお母さんが言っていた通り二百人ほど。そして用心棒という仕事内容からして男性ばかりが行っていたのかと思ったら、驚いたことに女性も集団の三割ほどを占めている。そして今気づいたことがあった。里にほとんど成人男性が残っていなかったから分からなかったが、成人男性と成人女性の間にあまり身長の差がみられない。平均身長はほぼ同じくらいになるだろう。少々女性の方がしなやかな体つきをしているが、力強さは皆、男性に勝るとも劣らない。やはり男女ともに平均身長は二メートルを超えているようで、二メートルほどのうちのお母さんはともすると平均身長よりやや低めのようだ。成人男性のほとんどは遠征に行って、おそらくそこで戦いもあるのだろう。前の世界の僕だったら、こんな人達や巨大な野生動物を相手にしていては、即死まっしぐらだろう。他の人に迷惑が掛かってしまう。この世界の人間は皆こんな体格をしているのだろうか。恐ろしい世界だ。しかも、里の皆が一堂に会して初めて分かったが、最高年齢が三十ほどのように見える。というか、三十ほどの見た目の者が三分の二ほどを占めている。普通では考えられない年齢のばらつきの無さだ。老人は一人もいない。そういえば、祖父や祖母などの単語が僕のボキャブラリーにない。どういうことなのだろう。
「皆の者、喜べ!今回も遠征は大成功を収めた!稼ぎは十分!死者五名、行方不明者二名、大きなけがをした者は零名と、損害も軽微だ!今宵は皆で成功を祝おう!」
集団の中の一人の女性が声高に宣言し、里の皆は歓声を上げる。
「まま、あのひとはえらいひとなの?」
「ええ、今回の遠征団の団長をしてくれてたサイミさんね。ママもやったことあるのよ」
へえ、僕のお母さんは意外と里での地位とか高いのだろうか。っていうか、二百人中五人の死者の一人はうちの父親か。かなり運が悪かったのか、実力が足りていなかったのか、あるいはその両方か。残酷な世界だ。しっかりと平和ボケしている僕にはきつい話である。しばらくして、里の皆での食事が始まる。普段食卓を共にしない者同士で集まって楽しそうに談笑している。僕はというと、お母さんが里の人たちと会話しているのを横で聞きながら質素な味付けの鳥肉(のようなもの)やなにかしらの卵料理を食べている。この里に家畜はいないので、全くもって謎の卵だ。おいしい。
「あんたのとこのカキツ、もう死んじまったんだって?」
例によって齢三十ほどの女性がお母さんに話しかける。カキツというのは父親の名前らしい。元日本人の感覚から言えば、ついこの間身近な者が死んだのが発覚した人間にかける言葉としては少々直接的すぎる。が、お母さんは気にする様子もない。
「そうそう、まったく、こんなに早くにスイジュサマに連れて行かれちゃって。もうちょっとこっちで働かせてくれてもよかったんだけど。」
スイジュサマ。テグル語のこの単語は、初めて聞くわけではないが、あまり聞いたことがない。宗教的な単語だろうか。そういえばここの人間の宗教観はどうなっているんだろう。普段の生活では、宗教に関係しそうな人々の行動は見られなかった。現代の日本人みたいなものなんだろうか。
「まま、すいじゅさまってだあれ?」
「スイジュサマはね、私たちの魂をどこかに連れて行っちゃう人のことよ。私たちには見えないけどね」
「どこかって、どこ?」
「さあ、それはママにも分からないわ。一回行って帰って来れた人はいないから。でも、きっと先に行った他の皆もいて、里と同じで楽しいところよ。」
分からない、か。やはり、死に対してかなりドライなんだな。いや、楽観的というべきか。
「つれていかれるひとは、どうやってきまるの?」
「スイジュサマも結構適当に決めてるみたいだけど、生き物の命をたくさんもらっていればもらっているほど、連れて行かれにくくなるわ。まだ先だけど、ヨカも狩り、頑張るのよ」
「ヨカ、あんたのお母さんはすっごく狩りが上手いんだよ。才能も努力量も桁違いなんだ。あんたも大きくなったら教えてもらいな」
「ふうん」
そうなのか。普段見てる分にはおっとりしてて、そんなやり手の狩人って感じはしないけどな。いやしかし、やはり不思議な宗教観だな。宗教なのかどうかも分からないが。命をもらえばもらうほど連れていかれにくくなるって、いっぱい飯を食えば長生きできるってことか?それとも不思議な異世界パワーで寿命吸収とかでもするんだろうか。寿命と言えば、さっきも言ったがこの里には高齢者がいないようである。これも聞いてみよう。
「さとのたくさんとしをとってるひとってどこにいるの?」
「ん?そうねぇ、あそこで集まってご飯を食べてるみんなはもう結構年かしら。」
そう言って、少し離れたところの集団を指さす。やはり皆三十ほどにしか見えない。どういうことだ?
「え、あのたちがおとしよりなの?」
「そうよ。見た目は私たちとあまり変わらないけど、そこのチリキさんなんかは少なくとも三百歳は超えてるのよ。里で一番年上だったかしら」
三百…!?なんだ、やはりこの世界、根本的に前の世界とルールが違う。というかちょっと待て、じゃあお母さんは何歳なんだ?見た目では二十歳ほどの若々しい(そしてタッパがでかくて引き締まった筋肉を持つ)女性、という雰囲気だが…?
「ま、ままはなんさいなの?」
「ママはまだ二十三歳よ。あなたを産んだ時ちょうど二十歳だったから。」
そうなんだ…なんだか知らないけどほっとした…しかし疑問が尽きないな。そうなってくると、僕の祖父母とか、曾祖父母とか、それ以上もいるよな。でもそんな存在、聞いたことないぞ。
「おかあさんのおかあさんとか、おかあさんのおとうさんとかはどこにいるの?」
「お母さんのお母さんとお母さんのお父さんは遠征で死んだのよ」
「じゃあ、おかあさんのおかあさんのおかあさんは?」
「お母さんのお母さんのお母さんも死んでるわよ。なぜかは聞いていないけれどね」
ふうん、長生きではあっても生存率はそんなに高くないんだ、とか思っているとキジメお姉ちゃんが通りかかった。
「おう、ヨカ、食ってるか?育ち盛りだもんな、しっかり食えよ!」
「あら、キジメちゃん。ちょうどよかった。私たちはもう少し話してるから、ヨカを家まで送ってあげてくれない?もうこの子は寝る時間だから」
「わかった!ヨカを家に送ることに関してあたしの右に出る者はいないからね!ヨカ、行くよ」
「はーい」
「はい、よいしょっと」
席を立つと、キジメお姉ちゃんに正面から抱きかかえられた。まだ十歳なのに、やはり体がめちゃくちゃがっしりしている。怖いくらいに。確かに、この様子だと狩りもこなせそうだ。そうして、僕は抱きかかえられたまま、耳元で愛をささやかれながら、家路についた。もう辺りは真っ暗で、この世界の三個の月の光が明るいのみである。
我が家は山の斜面の上側、広場から最も遠い里の端にあって、森にも近い。家に着くと、お姉ちゃんは僕を寝床まで連れて行って、僕を寝かせ、お姉ちゃんもそのまま僕の隣に横たわった。
「よーしよしヨカ、寝れるまでお姉ちゃんがお腹ポンポンしてやるからなー」
キジメお姉ちゃんは、たまに何かの用事で夜にお母さんがいないとき、こうして僕が寝付くまで一緒にいてくれるのだ。しかし、僕もまだ三歳とは言え、前の世界の人間の三歳児より発育もいいし、何より中身は前世の分を合わせればもう二十歳になる。もう言葉もある程度しゃべれるようになったし、ここらが潮時ではなかろうか。
「だいじょうぶだよおねえちゃん。ぼく、もうひとりでねれるよ」
「な、なんだとヨカ、いつからヨカはお姉ちゃんのお腹ポンポンを断るような冷たい子になったんだ!お姉ちゃんはヨカをそんなこと言う子に育てた覚えはないぞ!よし、お姉ちゃんが一から育てなおしてやるからな。待ってろ、お姉ちゃんがおしめ持ってきてやる!」
「お、おねえちゃん、」
僕もうおしめは卒業したんだよ、と立ち上がったお姉ちゃんに言いかけたその瞬間。彼女の目つきが変わった。声が出ない。内蔵が急激に冷え、上に引っ張られる感触がして、僕の体は震え始めた。殺気で吐きそうだ。お姉ちゃんが懐からナイフを取り出した。勇気を振り絞って、声を出す。
「ど――」
「しっ」
どうしたのお姉ちゃん、と最後まで言えないまま、制止される。お姉ちゃんは鞘からナイフを抜き、刃先を舐めた。え、何してるの?
「家の外に知らない奴の音が複数。ヨカは動くな。これ手に隠して持ってろ」
そう言って、また懐から取り出した細い針のようなものを手渡してくる。そしてすぐに履物を履き、音を立てず外に駆けて行った。知らない奴って、里の人間じゃないってことか?しかし、なぜあんなに警戒している?里の子供は誰かに狙われているのか?しばらくして、静寂の中から
「ぐはっ、クソッ!」
男のうめき声が聞こえた。直後、
「敵襲!敵襲ーーー!」
というお姉ちゃんの叫び声が聞こえる。
「ダクイがやられたぞ!さっさとガキ見つけて攫え!」
という、知らない男の野太い声がした。そして一つ、また一つと男達のうめき声と、グシャァ、という人間が崩れ落ちる音が聞こえてくる。敵襲?この里には敵対勢力みたいなものが存在するのか?などと考えながらも混乱していると、
「おいガキ!見つけたぞ!大人しくしてろよ!動いたら殺すからな!」
とこちらを威嚇しながら男が家の中に駆けこんできた。言葉には独特の強い訛りがある。暗くて風貌は確認できない。え、な、僕は誘拐されるのか?集団で襲撃を仕掛けて、子供を攫う?この世界の治安はどうなってる!?
「よし、いいぞガキ。そのまま大人しくしてろよ」
そう言って男は乱暴に僕を肩に担ぎ上げる。大男で、抵抗はできない。男は家を出て、森の方向へ走っている。相当大きな背格好だ。元の世界の者より遥かに大きな里の人間の平均身長さえも超えているだろう。
「や、やめてよ!なんでこんなことするの!おねえちゃん!たすけてーー!」
叫びながら、さっきお姉ちゃんに渡された細い針を男の背中に刺した。
「おいガキ!黙れ!殺されてえか!」
刺されたことには気づいていないようだ。そして、刺してから数秒後―
「ん?なんだ?視界が…」
そう言うと、男は走る勢いそのままに、姿勢を崩してドシャァ!、と地面に倒れ込んだ。もちろん、大男に担がれていた僕は二メートルほどの高さから地面に叩きつけられる。
「ガハッ!」
背中が地面に叩きつけられた衝撃で声が出た。
「おいヨカ!大丈夫か!今お姉ちゃんが行くからな!」
家の方向からお姉ちゃんがこちらへ駆けて来た。
「おい!しっかりしろ!ヨカ!何かされてないか!?大丈夫か!?」
「だ、だいじょうぶだよおねえちゃん。ちょっとせなかうっただけだよ」
落ちた時の体勢が良かったのか、幸い深刻なダメージはなさそうだ。
「よかった…。おいヨカ、皆のとこに行くぞ。今広場の皆が向かってきてる。いくらか仕留め損なったけど、あとは皆がやってくれる。安心しろ、ヨカ。里の皆は私なんかよりもっと強いからな。ほらヨカ、大丈夫ならお姉ちゃんの背中に乗れ」
そう言ってお姉ちゃんは僕を背負い、凄い速さで広場の方へ走り出す。元の世界で言えば人間の五十メートルダッシュ、とも更に比較にならない、とてつもないスピードだ。斜面を下っているとはいえ、足場はほぼただの森と言っていいほどに整備されていないし、速めに歩いても一時間はかかる距離だ。しかも緊急だからか、いつもと違う道を通っており、木も生えている開かれてない森に差し掛かった。そこをお姉ちゃんは、僕が背中に乗った状態で斜面を前傾姿勢で下っている。元の世界の常識が全く通用しない。いや、というかこけたり木にぶつかったりしたら今度こそ死ぬんじゃ…?命の危険を感じながらお姉ちゃんに負ぶさっていると、ものの一分もしないうちにお母さんと出会った。
「キジメちゃん!ヨカは無事!?」
「うん、姉さん。担がれてたとこから落ちて、背中打っただけだって。あ、聞いて姉さん!ヨカはもうこの年で一人殺したんだよ!ヨカはきっとすくすく育つよ!」
「あら!それは良かったわねぇ、ヨカ。じゃあ明日はごちそうにしましょうね。それでキジメちゃん、敵は?」
「姿を消したの三人、動けないの五人、死んだのはヨカが殺した一人。逃した三人は山に入った。全員聴力と嗅覚が良いタイプの獣人だったから、山で逃げ回られると厄介かも」
「分かったわ。大人は半分が里全体の警戒に当たって、半分が今こっちに向かってるから、その人達にも伝えて。よーし、今夜は山狩りね!じゃあヨカ、お母さん頑張って来るからいい子にしてるのよ?」
「はぁい」
「いい子ね。じゃあキジメちゃん、ヨカをよろしくね」
「任せて!ヨカのことはあたしが守る!姉さんも頑張って!」
はーい、と言うや否や、お母さんは家の方へ走って行ってしまった。上り斜面だが、さっきのキジメお姉ちゃんの走りよりも速い。完全にわけがわからない。そして、またすぐに後続の大人達に出会い、キジメお姉ちゃんが状況を説明する。その後、僕とお姉ちゃんは里の大人たちのところに行き、また状況を報告した。すると、普段から村にいる数少ない大人の男性であるミギィおじさんが反応した。
「そうか。まぁ連中に任せれば大丈夫だろう。キジメとヨカは今夜はうちに泊ってけ。こういう日は子供達は皆村の真ん中辺りの家で寝かせるんだ。いやーしかし、カェシのとこの息子は初めての殺しが三歳で、しかも獣人か!ということはやはり父親に似ず、母親に似たな。カェシも相当早かったんだ。俺の息子も初めて狩りで獲物を仕留めたのが六歳だったから皆に自慢して回ったもんだが、こりゃ大きく抜かれちまったな。喜べ、ヨカ。お前はきっと立派な大人になるぞ!」
「やっぱりミギィおじさんもそう思う?そうなんだ、ヨカは自慢の子だよ!」
「お前の子みたいに言うなよ…」
「あたしもヨカが小さいころから面倒見てたんだから私の子でもあるんだもーん」
とのことらしい。この里のルールなのか、それともキジメお姉ちゃんが勝手に言ってるだけなのか分からない。それは置いておくにしても、皆に人を殺したことをやたら喜ばれるのは、ついさっき広場でお母さんから聞いたこの里の人間の死生観とか宗教観的に(あれが宗教と呼べる代物なのかどうかは分からない)、まぁなんとなく理解できるが、それにしてもお姉ちゃんから渡された毒?付きの針を無警戒の奴に刺しただけだしな…なんか、過剰な期待を寄せられている気がする。初めての殺しって、そんな赤ちゃんが初めて立ったみたいなめでたいこと扱いなのか…しかも、さっきミギィおじさんはこういう日とか言っていたが、この里では、こういう日ってのが普通にあるのか?誰かが子供を誘拐しに来る日が?そしてそれよりも何よりも、獣人とは。この世界、そういうのもアリな感じなのか?いやいや、獣人って、もっとこうソフトな出会いをするものなんじゃないのか?この世界では、不遇な扱いを受けてる超絶美少女な女の子の獣人を助けてキャッキャウフフざんまいできないのか?俺の初めての獣人は大男で、誘拐犯で、おいガキ!とか殺すぞ!とか言ってて、しかも逆に僕が自分の手で殺してしまったぞ。散々じゃないか。おじさんの口ぶりからして、獣人は獲物の中でもランクが上なんだろうか。どんな基準なんだろう。そういえば耳がどうなってるのかとかも気になるけど見そびれたな。そんなことを思いながら、キジメお姉ちゃんと一緒にミギィおじさんの家に行って、結局はお腹ポンポンされながら一緒に寝ることになった。
そして翌日、朝目覚めると、まず視界いっぱいのキジメお姉ちゃんの寝顔が見え、次に家の外が少しにぎやかなことに気が付いた。ミギィおじさんの家の近くには人が集まれるちょっとしたスペースがある。そこにそれなりの人数が集まっているようだ。
「おねえちゃん、あさだよー!おきてー!」
と言って、寝ているキジメお姉ちゃんの肩をゆする。昨日あんなこともあったし、お姉ちゃんがいないと外に出るのが怖い。
「おねえちゃーん!きのうのよるいつまでおなかぽんぽんしてたのー!おーきーてー!」
「んぅ…ああ、ヨカ、おはよー…。なんだぁヨカ、お姉ちゃんと早く遊びたくて頑張って起こしてくれたのかー?」
「え…まぁそうともいえる…?かもしれないけど、ちがうんだよ、おねえちゃん、そとにひとがいっぱいいるんだよ。いっしょにみにいこ?」
「あはは、ヨカはお姉ちゃんがいないと何にもできないんだから。分かった分かった、お姉ちゃんはヨカのお姉ちゃんだから、一緒に見に行ってやるよ。ほれ、手ぇつないでやるからな」
と言って、手をつないでもらい、外に出向く。やはり、例のスペースに人が集まっているようだ。大人も子供もいる。三十人より少し多いくらいだろうか。皆で何かを囲っているので、僕の身長からは何をしているのか分からない。
「あー、昨日のヨカを誘拐しようとした獣人か。残りの三人も捕まったのかな」
「おう、起きたか二人とも。あの後割とすぐに山狩りに行った連中が戻ってきて、キジメが報告で言ってた三人も捕まえて帰ったんだ」
「おはよー、ミギィおじさん。そっか、良かった。じゃあ、今は炊き出し中?」
炊き出し?ああ、皆で頑張ったから、集まって一緒に料理でも作るんだろうか。
「そうだ。今回はカゴーンの獣人だったからな」
カゴーンの獣人だったから?カゴーンというのは、たまに聞くこの世界の地名だ。カゴーンの獣人は特に強くて苦労したから、皆でご飯を食べて労おうってことか?
「あぁ、そういえばヨカはこういうの初めてだったな。ほれキジメ、一緒に前に行って見せてやりな」
「うん。ほら行くぞ、ヨカ」
キジメお姉ちゃんに手を引かれて前に出る。そこにいたのは、八人の獣人だった。昨日と違って今は明るいから、気になっていた耳も確認できた。なんだか、元の世界で言えばイノシシの耳みたいだ。でも、この世界には多分元の世界と同じようなイノシシという生き物はいないだろうからな。この世界の動物名を使うと、何て呼ぶんだろう。でかいイノシシっぽい何かなら見かけたことがあるような気がするが。まぁしかし、この世界ではどうやら猫の獣人、とか犬の獣人、みたいな動物の種で呼ぶんじゃなくて、カゴーンの獣人、という風に地名で呼ぶらしい。ふーん、そうかそうか、カゴーンの獣人はこういう耳をしているんだな。顔つきは、何かに例えろと言われればイノシシ、のような雰囲気ではあるが、しかしイノシシともどこか違う。顔含め全身に茶色の体毛が生えており、そしてその体格は、八人ともこの里の男性を軒並み上回る巨体だ。…ああそうそう、先ほどの「八人の獣人」という言葉を訂正、正確には八人の獣人というより、八人分の獣人、といった方が正しかったか。あるいは、もっと正確を期するならば、泣き叫んで許しを請う、裸に剥かれ手足を拘束されたたむくつけき獣人が七人と、首から上を胴体から切り離され、今まさに血抜きを終え、腹を裂かれている最中の、獣人だったもの、が一つと言ってもいいのかもしれない。まだ生きている七人の獣人の周りには幼い子供達が群がり、周囲の大人たちからナイフを借りて獣人達を各々思い思いに切りつけている。
「どうだ、うまそうだろう、ヨカ。カーゴンの獣人は肉はなかなか食えないからな。うちに悪さしに来たカーゴンとかその他の所のうまい獣人は、拷問がてらこうして一人ずつ解体して食うんだ。」
まぁそういうこともあるか。異世界だしな。僕は、これに対して「あーあ、まったく、これだから異世界は…」なんて言うつもりはない。これもれっきとした文化だ。大好きなお母さんとキジメお姉ちゃんの文化だ。僕の勝手な価値観と道徳で上から評価して、しょうもない倫理を当てはめたり、下に見たり、馬鹿にしたりはしたくない。最近は差別がなんたらみたいなコンプライアンスとか、厳しいらしいし。僕、そういうのちゃんと分かります。そういえば、元の世界にも食人族なる人々がいたらしいな。いわゆる先進国の文化圏の人達は彼らの文化をどういう風に扱ったんだろう。
「ま、今回のやつらは誰の差し金だったとかでもないみたいだから、情報を吐き出してもらうために拷問してるってわけでもないんだが、なんとなくな。はっはっは、これじゃあ拷問じゃなくて拷だな、拷。ガッハッハッハ」
「ミギィおじさん、また言ってる…」
ミギィおじさんのよくわからない冗談はこの文化圏でも冷たい目で見ていいらしい。
「ねーねーおねえちゃん、おねえちゃんは、いきものをころしてたべるとき、いのちにかんしゃしたりしたことある?」
「なんだ、ヨカ。ヨカは変なことを言うなぁ。殺して食べてるってことは、死んでるってことだろ?死んでるってことは、命が無くなってるってことだろ?無いものには感謝できないんだぞ」
「じゃあ、いまあるいのちにかんしゃすることは?」
「え?そもそも命に感謝するってどういうことだ?感謝ってのは人にするもんだぞ」
「ふーん」
「はっはっは、他の子と比べると大人びてる方かもしれないが、ヨカもまだ三歳の子供だからな。命とか感謝とか、最近知った言葉を使いたがる年なんだろう。初めての殺しを終えたとはいえ、やっぱり子供らしいところもあるんだな」
世界が違えばこんなものか。
「あ、そうだ。この獣人達もうまそうだけど、ヨカにはもっといいものがあるぞ。お姉ちゃんと一緒に姉さんのとこに行こう、ヨカ」
「ああ、そうだな。じゃあな、キジメ、ヨカ」
「うん、またね、ミギィおじさん!」
「またねー!」
そう挨拶を交わして、大好きなお母さんの待つ我が家へと、大好きなお姉ちゃんと一緒に、帰っていった。
家に着くと、やはりお母さんは獣人の、即ちごちそうの準備をしていた。
「あら、お帰りなさい、二人とも。ほんと、初めて殺した獲物がおいしいカーゴンの獣人だなんて、ヨカは運良いわねえ。うちのヨカはいい子だからかしら。昨日、倒れてるカーゴンの獣人を見たとき、こんなこともあるのねーって、お母さんびっくりしたのよ?ちょうどごちそうにしましょうねってヨカに言った後だったから。ほら、昨日あの後すぐ皆に解体処理をしてもらって、おいしいお肉ができてるわよ。ヨカのお祝いもあるし、お母さん張り切って作りすぎちゃった。キジメちゃんの分もたっぷりあるから、遠慮なく食べてね」
「やったー!ありがとう、姉さん!」
「おいしそー!」
この里にはいただきます、ともごちそうさま、とも言う習慣はない。そもそも、一日の食事の回数も、タイミングも決まっていないし、一緒にご飯を食べないことも多い。僕のご飯はお母さんや、お母さんがいないときにはお姉ちゃんが作ってくれるが、料理が済んだそばから他の者が食べ、料理をした者は他のものが残しておいたのを食べる、というのがこの里では一般的だ。元日本人からすれば、なんだか生き急いだ食の習慣だなあ、とか思ったりする。生き急いだ、とか言ってもこの里の人達は超が付く長生きなのだが。
そうして、獣人のフルコースを堪能した後。ちなみに、肉は牛とも豚とも鹿とも違う、独特の風味があったが臭みというほどでもなく、そして脂は少ないがやわらかくて旨味豊かで、大変美味だった。
「ああそうそう、ヨカ、ヨカには教えといてあげないといけないことがあったわ。まだ早いと思ってたんだけど、もう初めての殺しも終えちゃったし、話しておいたほうがいいかしら、って思い直したの」
「ああ、あのことだな、姉さん」
「なあに、おかあさん?」
「あのね、ヨカ。私たちは魔法が使えるのよ」
「まほう?」
魔法!なんだ、この三年間、それらしきものは見たことが無かったが、そんなものまであるのか!?よしよし、いよいよ異世界じみてきたぞ!
「まほうって、どんなの?」
「魔法っていうのはね、不思議な力っていう意味よ。私達の里の人の魔法は、体液で、他の動物を弱らせたり、殺したりするの。ほら、昨日キジメお姉ちゃんが戦ってた時に使ってなかった?」
「そーいえばそんなきがする」
なんか、ナイフの刃先を舐めてたな。たしかに、中二病のナイフペロペロとか、そういう雰囲気でもなかった。…それにしても、なんだかあんまり心躍る感じじゃないな…まぁなんとなく分かってたけどさ…
「ヨカに渡した針は私の血を塗ってるやつだったんだぞ。十歳になったら皆色々武器を作って持っとくんだ」
「そう、私達の魔法は珍しくて、色んな人が狙って来るから、皆自分で自分を守れるようにしとかなきゃいけないの。一人生け捕りにすれば、死なないように生かしてずっと体液を採り続けることができるから、とっても高値で取引されるのよ。ほら、私達って長生きでしょう?わざわざ里まで来る人はあんまり多くないけど、やっぱりたまに昨日みたいなこともあるから、遅くても十歳からは皆狩りを始めて殺しの練習をするのよ」
「じゅうじんさんがねらってくるの?」
「獣人だけじゃなくって、一攫千金を狙った人達とか、争いに利用しようとしてる人達とか、他にも色々いるのよ。でも確かに、里に来るのは山向きの獣人が多いかしら。」
「え、あらそいにりようって、ぐんたいがつかまえにくるってこと?」
「ええ、そうね。軍隊の人達が来たこともあったみたいよ。でも、三百歳を超えてるチリキさんも知らないくらいの大昔に、里の人達がこの帝国の皇帝と交渉して、私達の力を貸す代わりに、帝国とは争いにならないように決めてあるの」
「ていこく?」
そういえば、この里が属する国の存在は初めて聞くな。この世界にも帝国とかあったんだ。
「そう、私達の里があるのはテグル帝国って言うのよ。地図は他の人が持っててうちには無いんだけど、すっごく広い国なの。だから、昨日みたいなただのお金目当てで狙ってくる人達ならまだいいんだけど、帝国の支配がしっかり行き届いてない領地なんかにはまだ私達を戦いに利用しようとしてくる人達がいて、そういう人達は大人数で誘拐しようとしてくるから、今回みたいにしっかり拷問して、所属とか雇い主を教えてもらって、根っこにやり返さないといけないの」
「へー。あ、もしかして、そとにおしごとしにいってたひとたちは、こうていさんにたのまれてたたかってたってこと?」
「ええ、それもあるわ。里の特産物を売ったり、他の人に雇われて戦ったりもするんだけどね」
な…傭兵稼業で今回の遠征の死者五名、行方不明者二名か。すごいな…ああ、行方不明者は今回の誘拐みたいな目に遭ったんだろうか。今回の誘拐が失敗した原因は、僕がまだ小さな子供だから油断してたっていうのもあるだろうし、遠征に行くのは大人ばかりだから、誘拐犯も本気なんだろう。
「ふーん。あ、わたしたちのまほう、ってことは、さとのそとのひとたちもまほうがつかえるの?」
「そうよ。私たちと違って、里の外の人達は色々な魔法を持った人同士で子供が作れるから、使える魔法はもっとばらばらよ。今回の獣人達の魔法は、二人が嗅覚の強化、一人が聴覚の強化、あとの五人が瞬間的な身体能力の強化だったわ。ヨカが殺した獣人の魔法は分からなかったのだけど、戦いの傷が多かったし多分この人も身体能力の強化とか治癒速度の向上とか、そんなところでしょうね」
「そーなんだ。しんたいのうりょくのきょうかができるひとっていっぱいいるの?」
「んーと、そうねえ、獣人だったら九割くらいは身体能力強化かしら。獣人は元々身体能力が高いことも多いし、単純にそれが強いんでしょうね。強化したあの人たちのパンチをまともに頭にもらったら、頭蓋骨が粉々になるのよ。まぁ、骨の強度まで上がるわけじゃないから、そんなことしたら殴った方の拳もただじゃ済まないんだけれどね」
そ、そうなのか…さらっと怖いことを言うなぁ…まるでその光景を見たことあるみたいに…
「こ、こわーい…」
「うふふ。でも、もっとすごい魔法を持ってる人達もいるのよ。この里と仲がいいとこだと、触れた動物が一瞬で動かなくなったり死んだりしちゃうミシキミ族とか、少し未来を見れるエヒ族とか、常に身体能力が強化されてて寝返りで人を殺せるゴウキ族とかかしら。皆私たちと同じであまり外と関わりを持たない人達だけど、たまに遠征先で一緒にお仕事したりするのよ。ヨカもきっと将来出会うことになるわ」
「い、いやだよおかあさん…あんまりそのひとたちとかかわりたくないよ…」
「あら、でも面白い人達よ。ヨカもきっと気に入るわ」
「そ、そうかな…」
絶対嫌だけどな…。うちの魔法、聞いたときは結構すごいんじゃないかと思ったんだけど、みんな余裕でもっとやばいじゃないか。触ったら即死、未来予知、寝返り殺人って…ていうか、うちの里って他のとこと交流あったんだ。今まで里の外からきた人なんてそれこそ今回の獣人しか見たことないな。ん…?ああ、そういえば。
「おかあさん、ぼくたちのさとはなんていうの?」
初歩的なように思えるが、意外と知らなかった。
「私達はアヤ族っていうのよ。だからここは、アヤの里」
こんな風に、魔法という言葉に心を躍らせたのも束の間(過ぎた)、あまり聞きたくなかった情報をお母さんから聞いて、晴れて自分の里の名前も知ることができ。
それから十年ほどが経ち、僕は十三歳になった。今年は冬の年で、山には雪も積もっている。ちょうど今、遠征と遠征の間の期間で、皆が里に揃っているタイミングだ。僕は七歳の時に自分の武器を作り、狩りに参加するようになり、この里で言う「殺しの練習」を始めてから六年ほどが経つ。背もすくすく伸び、今は身長が百八十センチメートルを超えたくらいかもしれない。とはいえやはり、里の大人達に比べるとまだまだ小さいし、この世界の大きな野生動物に相対すると圧倒されてしまう。前の世界と比べると、人間のサイズも大きくなったが、野生の動物たちはそれ以上に大きくなっている。僕の体格は、確かに前の世界のときより格段にがっしりしているが、しかしこの世界の基準で言えばどちらかというと女性に近いくらいだ。そんなに体格に恵まれているとは言えない。この年齢の他の男の子と比べると一回り細く見えてしまう。しかし、お母さんがほぼ毎回狩りに参加し、僕もそれに付いていくから、七歳に狩りをするようになってからはかなりの頻度で狩りに出かけている。ついでに狩りの時もずっとキジメお姉ちゃんと一緒だ。そしてそんな僕は今現在、サイミさんの家に呼ばれている。サイミさんの家は里の中央辺りにあって、我が家からは少々遠い。ちなみに、サイミさんの年齢は分からず、どうやら独身らしいことは知っている。一人暮らしみたいだ。
「よく来てくれた、ヨカ。今日は遠征の件で呼んだ。今回の遠征団の団長は私がすることになったんだが、なぁヨカ、そろそろ遠征に付いて来てはどうだ?遠征に行くにはお前はまだ少し若いんだが、今回はお前と仲がいいキジメが行くんだ。お前の狩りの調子も悪くないとカェシから聞いているしな。どうする、ヨカ?まあ出発は三日後だから、カェシともよく相談して決めろ。あと…まぁ一応、キジメともな」
遠征は、一回につき四、五年ほどかかり、里に遠征団が帰って来てから一か月ほどでまた団を編成して遠征に出る。メンバーは固定されているわけではないが、男性はある程度以上の体格ならほぼ全員、女性は、高齢の者ならほとんど、若い者はまちまち参加する、といった感じで、遠征団は基本的に男性が女性より多少多い、くらいの男女のバランスになる。あぁ、高齢の女性と言っても、この里の人間は見た目が三十を過ぎた辺りから変化しなくなり、肉体はむしろ高齢の者の方がよく発達していて、技術も伴っているから、強さはむしろ年を重ねるごとに上がっていく。文字通り生涯現役で、皆寿命ではなく戦いで死んでいく。死ぬ時まで戦っている。一番長く生きているチリキさんに聞いても、寿命で死んだ者は見たことがないと言っていた。長寿、というか、不老なのだろうか。そしてキジメお姉ちゃんは現在二十歳である。女性にしては、遠征に参加するのが少々めずらしいかもしれない、くらいの年齢だ。そして僕は十三歳だが、男性は大体十六、七歳で参加することが多いから、確かに早めの参加になる。
「分かったよ、サイミさん。帰ってからお母さんと話してみる。…でもサイミさん、僕みたいな若いのが遠征団に入って、足手まといにならない?大丈夫なの?」
「足手まとい?ああ、大丈夫だ。若い者には若い者なりの仕事がある。その点に関しては私に任せてくれ」
「ふーん、了解。じゃ、失礼しまーす」
と言ってサイミさんの家を出る。我が家に帰ると、お母さんとキジメお姉ちゃんがいた。
「あら、おかえりなさい、ヨカ。やっぱり、遠征のお話?」
「うん、なんか、遠征に参加しないか、だって。さすがにまだ早くない?お母さん、どう思う?」
「お姉ちゃんは来た方がいいんじゃないかと思うけどな!遠征に来ればお姉ちゃんとずっと一緒だぞ!どうだヨカ。ヨカが遠征に来れば、お姉ちゃんとずっと一緒だし、ヨカが遠征に来ればお姉ちゃんとずっと一緒なんだぞ!多分きっと初参加同士ペアも組ませてもらえるし、ヨカが遠征に来ればお姉ちゃんとずっと一緒なんだろうなあ!」
いや、お母さんに聞いたんだけど…っていうか、もしかしてお姉ちゃん、そのためだけに遠征に志願した?ははあ、なぜかキジメお姉ちゃんとも相談するように言われたなと思ったら、こりゃサイミさんとキジメお姉ちゃん、繋がってるな。
「そうね、お母さんも賛成だわ。遠征先でしかできない殺しはいっぱいあるもの。ヨカはもう狩りにも慣れてきたし、そろそろいいんじゃないかしら。ヨカは魔法も結構強いし」
「え…そ、そうなんだ。あ、お母さんは行かないの?お母さんは団長やったことがあるぐらい強いんでしょ?」
「うーん、そうねえ…私が行ったらついついヨカのことばっかり見ちゃいそうだし、今はまだヨカと一緒に遠征に行くのはやめておこうかしら。でも、いつかヨカが、私の助けが全く必要なくなって、お母さんが心配しなくてよくなったときには一緒に行きましょうね」
「はあい…」
ちなみに、なんとなく小さいころから分かっていたし、周りの人からも度々聞いていたことだけど、お母さんの狩りの腕はやばい。お母さんは二十歳の時に僕を産んで、それ以前に団長を務めたことがあるということだから、一回の遠征に四、五年かかることを考えると、下手をすれば十五歳とかそれより若い時に団長を務めたことになる。が、それも頷けるぐらい、獲物を仕留める力が圧倒的だ。普段狩りをするとき、ずっと一緒にいるというわけではないが(ずっと一緒にいるのはキジメお姉ちゃん)、お母さんは獲物の痕跡を辿るのも、獲物を発見するのも、身を潜めるのも、発見してから仕留めるのも、(ついでに解体処理も、そしてお料理も)全てにおいて尋常じゃなく熟達している。というか、技術とかだけではなくて肉体の基本スペックすらこの里の人間を大きく上回っている。前にも言った通り、この里の人間は年を重ねるごとに強くなっていくのだが、その年上の人達と比較してもお母さんは卓越している。そもそもこの世界の人間は(といってもまだこの里の人間とカーゴンの獣人しか見たことがないが)元の世界の人間と比べると圧倒的に強いが、そんなこの世界の人間たちと比べても、人間とは思えないような能力を見せつけている。我々は狩りの時、自分たちの体液を利用し、武器を用いて獲物を仕留めるが、お母さんに関しては素手でも狩りができそうなくらいだ。確かに、お母さんと一緒に遠征に行ってしまうと助けられっぱなしになってしまいそうな気もする。いやまあ、僕は別に中身的には生粋の里の人間というわけではないから、殺しの経験をたくさん積みたいなどとは考えていないのだが。助けてもらって全然構わないのだが。というか、なんだかもう僕が遠征に行く流れだ。なんとなく「いややっぱり無理ですやめときます」とも言いづらい…
「じゃあ決まりだな!遠征中はよろしく、ヨカ!」
「う、うん、よろしくね、お姉ちゃん」
「うふふ、キジメちゃんがいてくれるならお母さんも安心だわ。じゃあ、サイミさんには私からヨカは参加します、って言っておくわね。頑張るのよ、ヨカ」
「うん、ありがとう、お母さん…」
と、こんな顛末で、遠征に参加することに決まり。今日はその三日後、遠征出発の当日である。遠征団の皆は、以前見た色の暗い装束に身を包み、里の広場に集まっている。今回の遠征団は全体で150人程だろうか。皆大きな体に更に不釣り合いな程の大きな背嚢を手元に置き、それぞれ武器や荷物の点検に勤しんだり、腹ごしらえしたりしている。この世界で一般的なことなのか、それともこの里特有なのか知らないが、小動物の血液を、切った首から直飲みしている者もちらほらいて、広場の地面にはそこかしこ血が飛び散っている。僕もやったことがあるが、この体には生暖かいスポーツドリンクみたいな味がするのだ。
「ヨカ、緊張してないか?大丈夫だぞ、ヨカのことは何があっても私が守ってやるからな。遠征中は私から離れるなよ。ヨカ、武器は大丈夫か?血は足りてるか?お前はズボラなところがあるから、昨日慌てて用意したんじゃないか?普段からコツコツ作っとかないと、一気にやるのは大変だからな。何だったらお姉ちゃんの血、今余裕あるから貸してやろうか?まったく、世話のかかる奴だな、ヨカは。ほら、鞘貸してみろ」
「だ、大丈夫だよお姉ちゃん…緊張してるのは多分お姉ちゃんだよ…」
魔法は、個人差もあるが、少量の乾いた体液でも効き目があるため、皆右腿に装備してあるナイフの鞘の内側やナイフの刃自体に、体液の中でも最も強い効果を持つ血液を塗って、乾かしておく。基本的に即死の刃である。ナイフの形状はそれぞれ異なり、鞘の材質もまちまちだが、皆そこまで大きくはない。僕のナイフは刃渡りが手のひらサイズで、薄くて諸刃になっている。このナイフは僕が狩りを始めたときにお母さんが作ってくれたものだ。柄と鞘は木製で、鞘の内側にはお母さんと僕の血が塗り込まれている。お姉ちゃんはこうして何かにつけて勝手に血を付けようとしてくる。というか、さっきからお姉ちゃんが色々オカンみたいなことを言ってきてはいるが、お姉ちゃんだって初めての遠征だ。自分の心配をしたほうがいいんじゃなかろうか。
「皆の者、聞いてくれ。今回の遠征の予定だ。我々はまずいつも通りルルーに向かい、売り物を捌き、皇帝の指示を受ける。そして戦場に赴き、契約分の仕事をしたら、エヒ族の里に取引しに行く。そのあとは各自仕事を見つけて自由に動け。以上だ」
以上か。四、五年の遠征の予定が以上か。団長のサイミさんからは以上だそうだ。なんか随分と大雑把だな。しかも自由行動まであるのか。右も左も分からない若造は、適当に誰かに付いていくとしよう。ルルーというのは帝都、いわゆる皇帝のお膝元ってやつだ。一度地図を見せてもらったことがあるが、あの地図を見ただけでは距離までは分からなかった。帝都ルルーは帝国の中央辺りに位置しており、里はその北東にある。この里は、中央というよりはどちらかというと帝国の外側寄りの山岳地帯にあり、帝国がどれくらいの広さか分からないから確かなことは言えないが、かなり遠いようだ。ちなみに、この世界では地図は珍しいもののようで、しかも世界地図のようなものは無いらしい。以前見た地図も、この里の人が昔作って、なんとかこの国と周辺諸国を収めた、というようなものだった。そしてそれを見るに、この帝国は海と接していない…という言い方が正しいのかも分からないか。塩が採れる大量の水がある所、と言えば接しているというよりテグル帝国内にいくつかあるようで、それらは塩湖、くらいの呼び名が付いている。前の世界の現代におけるような、世界全体の島や大陸を浮かべる「海」という概念が生まれる前の段階では、海というのは「果ての知れない水のある場所、いくら進んでも終わりのない水のある場所」とか、「世界の果てに繋がっている水のある場所」などと人間に認識されるだろうが、そういったものを表す単語がそもそもテグル語には存在しない。少なくともこの辺りのテグル語圏の人々は、既知の陸地に囲まれていない水がある場所、というものに触れたことが無いのである。せいぜい湖とか、塩湖とかいう単語で限られた大量の水がある所を指すのみだ。
「お姉ちゃん、里からルルーまで、どれくらいかかるの?」
「体力ある奴が荷物無しで休まず走って八日だってさ。皆で動くときは休憩入れたりするだろうし荷物もあるから、十日ぐらいだと思うぞ。あ、荷物持ってほしくなったらお姉ちゃんに言えよ!」
「う、うん、ありがとう、お姉ちゃん」
ちなみに、女性に荷物を持ってもらうのはちょっと…とは思わない。なぜなら、そもそもこの里の人間の肉体は、多少筋肉の付き方に違いはあれ男女共に十分頑強だし、何ならお姉ちゃんは里の人間の中でもかなり発育のいい方で、体は僕よりずっと大きいからだ。からだは僕よりずっと大きいからだ!この感じだと、下手をすれば二百五十センチくらいあるかもしれない。お姉ちゃんの父親と母親はほとんどの遠征に参加していてあまり接点は無かったが、二人とも身長が高かったし遺伝だろう。それで言うと僕は父親の身長を知らないので、自分がどれくらいまで育つのかは未知数である。そして、「休まず走って」というのは、不眠不休で食事もとらず、という意味だ。この里の人達の体力は、根本的に前の世界の人達とは別種の何かだ。この世界の野生動物も基本的に前の世界の動物たちより高い身体能力を持っているが、里の人間のトップ層は本当に生物の枠を超えているように思える。長距離走であれば、里の人間が生物界でトップかもしれない。ってあれ、そういえば。
「そういえば、お姉ちゃんのお父さんとお母さんは来てないの?」
「ああ、来てるぞ。でも遠征中はあんまり接触しないようにしたいらしい。ヨカのお母さんと同じ理由でな。はーあ、あの人達は心配性過ぎるんだよ。ほんと困った奴らだよ、子供がいると心配で自分の殺しに専念できないなんてな。その点私は自分の子供を一切心配しない自信があるから、私は安心していつでも子供を持てるんだぞ、ヨカ」
「そっか…」
持てるんだぞ、とか言われてもな…いや、というか自分の子供の心配ぐらいはしてくれ。あと、そんなこと言うんだったら絶対に戦いの最中僕のことを気にかけてミスしたりするなよ。さっきから聞いてれば、お姉ちゃんが一番自分の仕事に集中できなさそうだぞ。
「皆、準備は良いか!出発!」
サイミさんの掛け声とともに、皆一斉に走り出し、次々と雪山の中へ入っていく。各々、前の世界で言えば車をも遥かに凌ぐ速度で。僕とお姉ちゃんも集団の後ろの方で、並んで出発する。前や後ろの人達とは五十メートルほどの距離を開けて、皆黙々と走っていく。一滴にも満たない体液で生物を死に至らしめる一族約百五十名による、人をも対象にした集団での狩りの始まりである。
一日ほど山を走り抜けると平地に出、さらにそこから二回ほど野宿で休憩を挟み、当初お姉ちゃんが言っていた通り通算十日ほどかけて走り続けた。途中、いくつも大きな町や小さな村を見かけることがあったが、全て迂回して来た。帝都から遠い場所は、我々一族にあまり好意的でないようだ。そして今現在、遠征団は帝都ルルーの周縁部に到着した。天気は晴れており、里の山と違って雪は積もっていない。ここから帝都の中心部まで、やはりあのスピードで走るわけにはいかないので歩くらしい。二日ほど。二日ほど!?いや、歩きになるので相当速度が落ちるのは分かるが、それにしたってどんな広さなんだ…?例によって、休みは無しだ。さすがに慣れない長距離移動もあって、結構休みたい気分ではあるのだが。帝都周縁部の更にその周囲には、広大な農地が広がっている。来る途中、その農地に差し掛かったところでもう帝都は見えていたのだが、しかし帝都が見えてきたところで既にその全貌は確認できなかった。それほど巨大な都市であるということだ。都市というか、この広さはもはや国とかの規模ではないだろうか。そしてそれよりも特筆すべきはその街並みだ。まだ周縁部だから中心部はもう少し変わるだろうが、既に石畳の街道がある。その辺の家は石やレンガでできており、少し遠くには石造りやレンガ造りの巨大建造物まで見えている。街の人々は色とりどりの服を着ており、周縁部だというのに活気にあふれている。そして、なんというか…なんだか触れづらいが、獣人も含めた様々な装いの人々が往来している。
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