真実の中の事実

森本 晃次

第1話 中途半端な都会

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年4月時点のものです。


 中途半端な田舎の県にある県庁所在地というと、玄関駅の前くらいは賑やかだが、少し入り込むと、ほぼ何もないところである。新幹線すら通っていないその場所は、駅前もそこまで賑やかではない。

 何しろ国鉄時代は、駅舎も、3階建てくらいの別に奇抜さも何もない駅であった。駅前には百貨店やスーパーはあったが、東京や大阪にあるような百貨店ではなく、地元の百貨店だけだった。

 ただ、系列として成り立っているようで、東京、大阪にある百貨店グループのようなものに加入はしているようだった。

 どうしてそれが分かるのかというと、百貨店では、最上階に近いあたりに、催物会場があって、1週間から10日ほど定期的に開催されている。

 その内容が、東京を皮切りに、地方に広がっていくという感じで、有名画家や写真家の作品の展示はもとより、地方の物産展、たとえば、

「北海道物産展」

 などという形で開催されていることで分かるからだ。

 もっと言えば、電車などに乗っていると、中吊り広告に、主催ということで、協賛などのところに、東京の百貨店の名前が載っていたりすると、

「ああ、ここの百貨店は、○○系の百貨店か」

 ということで納得するものである。

 国鉄時代というと、それこそ昭和の時代であり、まだ、バブルの時代でもあった。

 郊外型の百貨店などもなく、百貨店や大きなスーパーというと、駅前に集中しているというイメージがあった。

 さらに駅前には、バスやタクシー乗り場を伴うロータリーがあり、ちょっとした公園になっていて、噴水や、街のシンボルになっている戦国武将や、歴史上の人物の銅像が建っているというのが、当然のようになっている。

 だが、時代が進むにつれて、駅はきれいになったりするにも関わらず、改装が行われれば、寂しくなってくるのはどういうことであろうか?

「昭和の頃がよかった」

 と思ってる人もたくさんいるだろう。

 実際に、駅ビルの立派なものは建っていたり、駅前には、イベント会場などができて、定期的にイベントをやっているところもあるが、それは、本当にその地方の玄関ともいえるような、大都市に分類されるところである。

 基本的に大都市というと、イメージとして、

「政令指定都市であることや、最低でも新幹線が止まる駅というところであろうか? ただ、県庁所在地である必要はない。県庁所在地が、その県で一番栄えているとは限らないからだ」

 というところであろうか?

 県庁所在地よりも、名前が通っているところは全国でもいくつかあるかも知れない。これは人口という意味ではないので、あしからずであるが、

「山口県などは、山口市よりも、下関であったり、周南市であったりが有名ではないだろうか?」

 他には、

「三重県なども、そうかも知れない。県庁所在地の、津市よりも、伊勢や松阪、四日市、桑名など、名前が知られている土地はたくさんある」

 といえるのではないだろうか?

 ただ、その問題は、昭和、平成における市町村合併によるところが大きい。

 山口県の周南市などは、徳山市と、新南陽市や、その他が合併したことで、かなり大きな市になった。本当は、下松も一緒になっていれば、山口最大の都市になったのだろうが、それでも、山口、防府地区だけで、かなりの人口なわけなので、やはり山口市というのも、侮れない。ただ、それでも1つの市として一番の人口は、下関であろう。

 下関というと、山陽地方と山陰地方への分岐点にもなっているし、さらに本州の一番端で、接しているのが、福岡県の政令指定都市となる北九州市である。

「そりゃあ、下関の方が大きいだろう」

 と言われるのも当然である。

 そもそも、下関も市町村合併で増えていることに変わりないからである。

 そういう意味でいけば、下関あたりが、

「中途半端な都会」

 といってもいいかも知れない。

 下関の人口など、北九州の7分の1くらいしかない。

 もちろん、広さも違うので、一概には言えないが、そもそも、北九州市は、今の区がそのまま市だったのだ。

「小倉市、門司市、戸畑市、八幡市、若松市」

 この5つが合併したことで、一つの市になったのだから、それはとんでもなく大きな市であることに違いない。

 令和に入って、180万の人口である。何しろ、1970年代までは、県庁所在地の福岡市よりも、人口は多かったのだ。

 その理由は分からなくもない。八幡製鉄所があり、鉄の街としての歴史がずっと続いてきたからだ。だが、時代が変わることで、次第に福岡市の方が大きくなるのは仕方のないことかも知れない。

 読者の中には、アメリカ軍による原爆投下の最終目標の4つの中に、小倉があったことをご存じであろうか?

 原爆投下目標にはいくつかの条件があった。

「その効果が分かるほどの大都市であること」

「本土無差別爆撃にて、それほど被害に遭っていないところ」

 などと言った意見から、いくつかが選出された。

「新潟、名古屋、京都、広島、小倉、長崎」

 などが、中間候補に残り、最終的には

「京都、広島、小倉、長崎」

 に落ち着いたのだ。

 最初から2発を落とすのは、想定していたはずだ。

 何と言っても原爆の種類は2種類、ウラン型とプルトニウム型である。

 ウラン型とプルトニウム型には、一長一短があった。

「ウラン型原爆は、爆発までの過程はそんなに難しくはないが、そのためには濃縮ウランの精密なものが必要である」

 ということであった。

 遠心分離機などの高価な機械を使って、手間のかかる手法で精製する。そのために、時間と費用が莫大にかかるのだ。

 アメリカ政府の要望は、

「戦場でも組み立てられるほどの操作の簡易さと、大量生産ができる兵器」

 というものだった。

 とてもではないが、できない相談だったのだ。

 そうなった時に方法としては、ウラン235から、プルトニウム239を製造することで、かなり安価にしかも簡単に爆発させることができる。

 だが、ウラン爆弾が、ガンバレル型という一種の、

「引き金型」

 で単純だったのだが、プルトニウムは、このやり方では、核分裂を起こさない。

 そのために、

「爆縮」

 という形の、インプロージョン型の爆弾だった。

 これは、まわりから均等に圧力を加えるというもので、誤差が、百万分の二秒という、信じられないほどしか許されないという。

 これが原爆開発の最大の難しさだったという。

 ウラン型は、広島に投下されたが、3日後、今度は長崎にプルトニウム型が落とされた。ただし、この時の当初の爆撃目標は、小倉市だったという。天候が悪く、長崎に行ったのだが、これには逸話が残っている。

「前日に、製鉄所を目標とした都市爆撃を、八幡市に行ったが、その煙が小倉に流れたから、視界が悪かったのが原因だ」

 と言われる。

 ということは、アメリカ側の勝手な都合で、小倉を断念するしかなく、仕方なく、長崎に行ったというのが、真実のようだ。

 小倉市というところは、それほど高い山があるわけでもないので、長崎のように、山に囲まれた場所ではないので、もし、小倉に堕ちていれば、被害はかなりのものであっただろう?

 何しろ、ヒロシマ型よりも、ナガサキ型の爆弾の方が、かなりの破壊力だったからであある。

 たぶん、数十万単位の死者が出ていたことだろう。それこそ、下関もただでは済まなかったことだろう。

 話が逸れてしまったが、それぞれの地域には、県庁所在地であっても、そうではなくても、結構な都会は存在するものだ。

 今では准教授として、近くの大学で教鞭をとっているが、昭和の終わりの頃、就職した会社の転勤で、この土地にやってきた時は、

「どこまで田舎に行けばいいんだ?」

 と思ったほどだった。

 名前を佐伯と言った。

 佐伯が通っていた大学は、大都会にあった。日本三大都市と呼ばれるところに隣接していたといってもいいくらいのところで、ここだけでも、十分に大都市であり、当然のごとく、政令指定都市でもあった。

 そんなところから就職して最初に、

「研修のため」

 ということで、半年の予定で赴任したところが、また中途半端な都会だったのだ。

 何にショックを受けたかというと、

「私鉄がない」

 ということであった。

 大学時代に住んでいたところは、狭い範囲に、平行して、国鉄と一緒に2本の私鉄が走っていた。どれに乗っても、目的地に着くことができる。そんな線が、3本もあったのだ。

 それを当たり前だと思っていたのだから、私鉄がないということに対して、カルチャーショックに陥るというのも、当然のことではないだろうか?

 それでも、国鉄とバスがあることで、移動に困ることはなかった。免許は取得していたので、営業車での移動には困ることはなかった。そういう意味で、

「やっぱり、車は絶対に必要だ」

 ということで、次の赴任地では、車を買うことを考えていた。

 半年経つと、約束通り転勤があった。

 新入社員が10人ほどいたので、シャッフルでもしたのか、ほとんど皆、別の支店に転勤になっていたのだ。

 佐伯は、転勤前に車を買った。転勤先までは、車で行ける距離だった。距離としては、約200kmほどで、時間にすれば、6時間くらいあればというところであろうか?

 研修期間だったので、荷物らしい荷物はほどんどなく、引っ越し用のトラックを雇う必要もなく、軽トラに積めるくらいの荷物だったので、荷造りもすぐにできた。

 引っ越し当日、車で6時間掛けてやってくると、そこには、支店の人が数名待っていてくれた。引っ越しの手伝いをしてくれるというのだが、そこまで荷物がないことは分かっていたのか、すぐに終わって、支店長を始め、営業の人は帰っていった。

「普通、ここまでしてくれるものだろうか?」

 と思ったが、さすが昭和だったということだろう?

 マンションなどであれば、普通だったら、隣に誰が住んでいるのか。そもそも、空き部屋になっても気づくかどうか分からないということであろう。

 その日は、あっという間に時間が過ぎてしまい、運転もここまでの長距離は初めてだったので、会社の人が帰ったタイミングで、布団も敷かずに、そのまま眠り込んでしまったのだった。

 気が付けば、日が暮れていた。さっきまで、当たっていただろう西日のせいなのか、身体にはじんわりと汗を掻いていた。

 アパートには風呂もついていたが、その日はさすがに沸かしてまで入る気がしなかったので、とりあえず、お腹も減ったので、車で近くを走ってみることにした。

 まだ、二十歳そこそこなので、今からは想像できないほどの食欲であろう。

 それが分かっているので、メイン道路を走ることにした。

 当時は、焼き肉食べ放題の店が、ドライブイン形式の店として結構たくさんできていた。令和のように、注文しないと出てこないわけではなく、セルフサービスで、ショーケースの中から、自分で皿の上に、トングを使って、好きなだけ取っていくというやり方の店だった。

 今のように、人見知りする人が多いと、

「昔の方がよかったかも知れないな」

 と思うことだろう。

 いつものように窓際に座って、(というのは、この店に限らずということであるが)、真っ暗な窓の外を見ながら、鉄板が熱くなってくるのを待って、肉を焼いていく。

 すでに匂いで食欲は最高潮になっていて、皿に盛ってきたのが、果たして何人前なのか、想像もつかずにいたが、実際に焼いてしまうと、次第に小さくなってくるのが分かった。特にホルモン系は、あっという間にコメ粒ほどになってくるから恐ろしい。そのせいか、まるでゴムを噛みちぎっているかのような感触に、違和感があったが、噛めば噛むほどに沁みてくる味に、

「これは病みつきになってしまいそうだ」

 と感じてしまったほどだ。

 今でも、時々焼き肉のいい匂いがしてくると、この時の食欲がよみがえってくるようだった。

 正直、あの頃の食い放題というと、

「学生のような、味よりも量を欲する連中が、がっついて食べるものだ」

 という感覚でいた。

 だから、その頃の食い放題の焼き肉屋というと、学生連中か、家族連れが多かった。子供たちの食欲もハンパなく、にぎやかに食していたものだ。

 90分だったか、時間が決まっているのだが、正直、最初にどんどん食べてしまわなければ、ゆっくり食していると、食べられるものも食べられなくなってしまう。これは、

「わんこそば」

 の理論だ・

 と感じた。

 盛岡で有名なわんこそば、あれは、魔術のようなものだと思っていた。

 例えば最初大人数で食べ始めると、最初は皆まだお腹が空いているので、いくらでも食べられるのだが、食べる人間に対して、お椀におかわりを入れていく人間がまだ少ないので、おかわりまでに少し時間がある。

 だが、次第に少しずつ、皆ギブアップしたり、自分で蓋を閉めて、そこでゲームオーバーにする人が増えてくると、今度は、食する人間よりも、お椀に入れる人の方が多くなる。

 その頃になると、食べる方も、最初の勢いが鈍ってくる。鈍ってくるのに、入れる方が早いと、油断できなくなる。

 わんこそばは、椀に入っているものは食べてしまわないといけないルールなので、危ないと思えば、蓋を閉めるしかない。

 しかし、入れる方は虎視眈々と入れるのを狙っているのだ。しかも、最初は1対1くらいだったものが、今では5対1くらいになっている。そうなると、蓋を閉めるタイミングが完全に競争になってしまう。

 最初の食べれる頃にはゆっくりなので、思ったよりも、最初の方は、食べていないわりに、お腹が張っているのだ。これが、

「わんこそばの魔力」

 であり、

「人間の胃袋や体質をうまく利用したゲーム」

 といってもいいのではないだろうか?

 相手が逃げようとするところを、必死に捉えて頭を叩く、

「モグラ叩き」

 のようではないか。

 食い放題には、そのような魔力はないが、いつの間にか。最初に考えていたほど食べれないことに気づく。焼くまでに時間が掛かるからなのか。それとも、人間の特性として、匂いだけで、腹が満たされるという魔力なのだろうか?

 そういえば。昔マンガなどで、お腹が空いている貧乏少年が、一膳のごはんだけを持って、うなぎ屋の前で、その匂いを嗅ぎながら、ご飯を食べて、

「うなぎを食べたような気分になった」

 と言っているものがあったが、まさにそんな感じだった。

 うなぎだけでなく、サンマなどのおいしい匂いにつられるというのは、ある意味、健康な証拠なのだろうが、そのマンガの本当の面白さが分かるのは、今の令和の人間ではなく、ひもじいという言葉に一番敏感な、昭和を生きてきた人間であろう。

 といっても、昭和後半の人間にも、そこまでの食事に困るような経験をした人は少ないだろう。

 それが分かる、かろうじての年代というと、今でいう、高齢者の人たちよりもさらに年齢を重ねた人たちである。戦争を知っている人ともなると、正直、化石と言ってもいいくらいの人たちになるかも知れない。

「なるほど、日本人が平和ボケするはずだ」

 といえるだろう。

 焼肉に舌鼓を打っていると、時間というのはあっという間に過ぎてしまうものだ。

「やはり、わんこそばの呪縛があるからなのだろうか?」

 と感じた。

 最初の頃こそ、

「90分なんてあっという間ではないか?」

 と思っていたが、実際に、腹いっぱいになるまでに、30分もかからない。

 皿に盛ってから、焼きあがるまでの時間を考えるから、かなりの時間が掛かるように思うのだろうが、焼き始めるタイミングすらずらずと、食べるのが追いつかないくらいに、焼きあがってくる。

 しかも、わんこそばと違って、自分で調整ができるところが強みだ。

「何を食い放題で競っているんだ」

 と、思わず吹き出してしまいそうになるのだが、実際に時間が余ったのは事実なので、笑い飛ばすには、滑稽ではあったが、実に自分らしいとも思うのだった。

 腹が太ってくると、少し時間が余ったので、海の近くまで車を走らせてみることにした。この街は、海の近くに行くと、作が張ってあり、中が森のようになっているので、

「まるで自衛隊の基地でもあるのか?」

 と思わせたが、実際に行ってみると、大きな煙突がいくつもあり、何かの工場のようにも見えた、

 すると、1,2キロ走ったであろうか。正門が見えてきた。暗くて最初は見えなかったが、正門よりも、交差点の信号に掛かっている交差点名の看板を見ると、ここがどこなのか分かったのだ。

「そういうことか、ここは、製鉄所なんだ」

 と思った。

 就職活動の時、

「こんなでかい会社になんか入れるわけないよな」

 と思ったのを思い出した。

 そもそも、佐伯は、大学時代は、教育学部だったのだ。研究室に残るかどうするかを考えていたのだが、親から、

「大学に残るよりは、安定した会社に就職する方がいいのではないか?」

 と言われたこともあって、就職に舵を切った。

 それがよかったのか悪かったのかは、悪かったのであろう。それに関しては。今後の話になるわけだが、最終的な結論が見えているわけではない。世の中なんて、人生が終わってみなければ分からないのではないか。

 以前、見た映画の中で、確かあれば、クーデターの話であったが、最期には、武装解除をやむなくすることになったその時、兵士から、

「我々の行動は正しかったのでありましょうか?」

 と聞かれ、青年将校は、

「それは、歴史が答えを出してくれる。ただ、諸君は、堂々と胸を張って、原隊に復帰してくれ」

 と言って、最期は拳銃自殺を図るというシーンがあった。

 要するに、

「何が答えなのか、歴史しか分からない」

 ということであり、自分が生きている間には、その答えを見ることができないかも知れないということである。

 それを考えると、この日の夜から始まった、この街でのこれから送る日々が正しかったのか間違っていたのか?

 もし間違っていたとすれば、どこが間違いだったのか、自分で理解できることがあるのかどうか分からないだろう。

 そんなことを考えていると、令和になっての自分の送っている毎日は、あの頃に比べれば、そこまで不確定なものではないということであろう。

 それはきっと、

「先が見えてきた」

 という発想から、逆算している自分がいるからである。

 かといって、いつ死ぬかなどということが分かるわけはない。それなのに、逆算できるというのは、あくまでも、例えば、

「80歳まで生きるとしたら、何ができるのか?」

 と考えるからである。

 それは、先が見えてきたと感じるから、見えないものが見えてきたからではないだろうか?

 それを考えると、生きてきた経験と、残りの人生を比較して、先が見えなくて不安いっぱいだったが、それだけ先がまだ長かったのだということに気づかなかったことを、後悔するのか、それとも、それを踏まえて、今後の人生をいかに生きるかということを考えるかということで、どれほど生きるということが気楽になれるかということになるだろう。

 もちろん、自分が年を取るのと同じで、世間も発展していっているのだ。どんどん新しいものができてくる。それが時代というものではないか?

 昔は音楽を聴くのは、レコードとカセットくらいしかなかった。それがそのうちに、CDに変わり、MDというものがあった。

 今の時代は、媒体を使うことなく、音楽をダウンロードする時代になったのだ。

 何しろ、昭和の頃に、パソコンというのがあっても、ほとんど家庭向けではなかった。小さな事務所が事務に使うことがある程度だろうか? ただ、昭和の終わり頃から、かなり変わってきたのも事実である。佐伯が感じたのは、スーパーのことであった。

 今でこそ、当たり前となっている、バーコードリーダーであるが、昔はあんなものはなく、レジスターの機械に、値札を見て、昔の英文タイプライターのようなものに打ち込んで、計算していたのだ。よく昔の刑事ドラマなどで、強盗がスーパーに入った時、レジの横の機械から、引き出しのようなものが飛び出して、そこに札や硬貨が入っていたのを、わしづかみにして、逃走しているのを見たことがある火とは分かるかも知れない。

 そんなレジに、バーコードリーダーが入った時は衝撃だった。レジの台の上に、×印のようなガラスが入っていて、そこに商品を当てると、

「ピッ」

 という音がして、機械に値段は自動で表示されるのである。

 さすがに子供心にビックリさせられた。

 そう、まだパソコンなどもほとんどない時代で、ビデオでさえ、家庭にあれば、

「金持ちだ」

 と言われていた時代である。

 そうやって、時代は発展してくる。今では、スマホで決済ができる時代で、カードすら古い時代になってきているではないか。

 昔は、いろいろなカードがあったものだ。

 携帯電話などのなかった頃、昔は、10円に両替して公衆電話に並んだものだ。100円が遣える緑の公衆電話ができた時は、すごいと思ったが、そのうちに、テレフォンカードというものができた。それが普及し始めたのが、ちょうど昭和の終わり頃だっただろうか?

 いわゆる、電電公社が民営化されて、NTTに変わった頃のことである。

 さらには、同じく民営化された国鉄。JRに変わった頃は、オレンジカードなるものがあり、

「小銭がなくとも、切符が買える」

 というものである。

 これがいわゆる総称して、

「プリペイドカード」

 と呼ばれるものだった。

 実は、いろいろな産業でプリペイドカードが普及していったが、問題がある業界もあった。

 それが、パチンコ業界であった。

 ここは、昔は、

「みかじめ金」

 などという問題があり、パチンコ屋は個人経営が多かったことで、プリペイド制にすると、商売あがったりのところがあった。

 実は、その問題を含めてのプリペイド化だったのかも知れないが、何か改革をしようとすると、すべてがうまくいくということはなかなかないだろう。

 それを思うと、今まで発展してきた文化の裏で、人知れずすたれていった産業も多いだろう。

 元々、一世を風靡した産業だったのだろうが、元々自分たちが出てきた時も、それまで活躍していたものを、人知れず潰していったのかも知れない。

「それが歴史であり、文明だ」

 というのであれば、それはそれで仕方のないことなのかも知れないが、一抹の寂しさは免れられないだろう。

 そう思うと、

「答えを出してくれる」

 というはずの歴史は、どれほどむごい答えを出すのか分からないといってもいいのではないだろうか?

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