レンタル彼氏未満

紙月

レンタル彼氏未満



 「僕が時給五千円でレンタル彼氏のアルバイトをすることにしたのは、大学二年の夏頃からだった。家賃が払えない、という重大な問題を孕みながらも一年と数ヶ月をやり過ごしてきたのだが、そういうわけにもいかない。大家さんの娘が法的措置をちらつかせてきたためだ。そういうわけで、今に至ります」


 そんな設定をメモ帳に書き残して、私は家を出た。普段大学へ僅か二分ほどで到着することができる神がかり的な立地。向かいの一軒家のソーラーパネルから、中古の太陽光が皮肉げに自室を照らす。そんなアパートの一室から、大学とは反対の方向にある歓楽街へと足を運ぶ。ラフな私服の主婦や泥だらけのズボンと、泥以外わからないような肌着で走り回る幼子を横目に歩いていたはずが、煌びやかであることにアイデンティティーを委ねた青年が多くたむろする薄汚い街にたどり着いていた。

 今日、私はレンタル彼氏デビューを果たす。私宛の郵便受けに入っていたチラシから応募したところ、簡単に書類審査は通過した。面接では、喉風邪で通し、中性的な彼氏、ということをアピールした。一応小説やドラマ、友人などからそういう立ち回りは勉強しているので大丈夫だろう。そんなことを自身に言い聞かせるうちに、待ち合わせ場所についた。駅構内の、ポスターの掲示がない、無愛想な柱だった。


『本日は、カラオケ→ショッピング→ディナー→解散の流れでお願いします。』


 これだけの文章では、どんな人が来るかなど、到底判断がつかない。ただ、二十代半ばの女性がメインの客層、という話を聞いているので、十中八九私よりも人生経験のある人が来るのだろう。やたらとざわめく心臓に、一周回って気分が高揚しているのを感じていると、自信なさげな小さい声が、私の耳に届いた。

「あの、ハルカくん、で間違いないですか?」

私あての言葉で間違いない。普段は遥「さん」なので、聞き慣れない。それに、どこかで見たことがあるような既視感が、目の前の女性にはある。

「そうですね。あなたは?」

「あ、えっと、ハルカくん。うちはマオっていいます」

こういう時。友人は、「彼氏と待ち合わせしたら会ってすぐに壁ドンされたいな〜」と話していた。そういうことを思い出しながら、無駄に厚底にしたせいでようやく見下ろせるマオさんの顔の横に手をつく。

「今日は来てくれてありがとね。マオ」

「……はい、ありがとうございます」

口数は少ないが、すぐ顔を逸らしているのに決して私の肩を押さないことがうまく行っていることの証拠だとすぐにわかった。



 カラオケへ行く、という儀式は、純粋な「歌う」という行動を求めているのではなく、個室でイチャイチャできるのがいい。そんなことを昨晩読んだネット小説のヒロインは語っていた。そして、友人に確認を取ったところ、彼女自身、恋人とカラオケに行くという行動は朝帰り前の儀式的な文脈を持つと語る。これらの根拠から、マオさんも私を相手に「そういう」ことを求めているのだと推理するのは容易だった。

「ハルカくんは、彼女とかいるの?」

これは、「好きな人いる?」の亜種だろう。徹底的なサービスが時給五千円に結びつくことを考えると、この場での答えは一つしかない。

「マオが、彼女だよ。それ以外考えられない」

マオさんは、私の腕に自身の腕を二本絡める。お客様満足度が高い、ということだろう。完璧だ。完璧すぎる。

「ハルカくん、チャラいね」

駄目でした。理想の彼氏とは、チャラくないかつ、自分には特別な人間である、と哲学の先生がおすすめしてくれた小説に書いてあったのだが、それには程遠いらしい。

「そんなことないよ」

絡められた腕の一つを引き剥がすと、その先にある私よりも幾分か長い指に、指を絡めた。

「手慣れてるじゃん」

「そういうフリしないと面接突破できないからね。本当に、こういう経験はないよ」

「顔がいいと嘘でもすっかり許せちゃうね」

「マオは冷たいね。他人行儀で、僕は寂しいよ」

人差し指と中指の間の絶妙なスペースをくすぐりながら、マオさんの表情を見た。薄暗い部屋で、細かいところはわからないが、口角が上がっていることだけはわかった。上々だ。



 カラオケを出て、ショッピング、と書いてあるが本当の需要は違うのだろう。マオさんは、ホテルに連れ込んで欲しいのだ。と、先ほどまで考えていたが、そのようなことはないのではないかと、今では思う。というより、カラオケの個室で過ごした二時間そこいらの時間で、正直マオさんに嘘をつくことに罪悪感のようなものが芽生え始めていた。隣を見ると、嬉しそうに私の指を弄ぶマオさん。逆側に視線をやると、反政府団体が隣国の言語と混ざり合った独特の言葉遣いで構成されたデモのビラが打ち棄てられていた。私も、レンタル彼氏の仕事を今からボイコットして、家賃の減額を求める道を探そうか、なんて考えすら脳裏をよぎった。

「足疲れちゃったから、昼呑みしたいなあ」

マオさんは、私の肩から胸にかけての部分にもたれかかるフリをして、強引に私の足を止めた。

「いいよ。そうしよっか。今お店探すね」

できる男は店選びを外さない、らしい。こんなこともあろうかとネットで事前調査は完璧に済ませてある。

「大丈夫。うち、いい店知ってるよ」

マオさんの甘ったるい声は、獲物を絡める「いと」を感じずにはいられなかった。



 私の指や腕で遊んでいた時と同じ人間とは思えないほど強引に、マオさんは私を薄暗い個室の居酒屋へと連れ込んだ。私が、お金をもらって、彼氏をする。そのはずがこの体たらくだ。

「ハルカくんは、何飲む? 今年二十一だって言ってたよね」

私は、十九だ。登録情報は、女性経験やらデート経験など、ひたすら上方修正した。年齢だって当たり前に逆サバだ。

「僕はお酒強くなくて……」

「え? 趣味はお酒って書いてあったよ?」

ありえない。何かがおかしい。そもそも趣味なんて聞かれていない。

「えーと、じゃあ、カシスオレンジ呑みます」

「ハルカくん? 敬語なんて、もう酔ってるんじゃない?」

マオさんは、満面の笑みだ。完全に図られた。人の純情を弄ぶ罪深い仕事をしていたはずが、私の純情の方が弄ばれていたんだろう。とりあえず、帰らないと。家賃を払っていない我が家に帰らないと。

「ごめん、終電なんだ」

「歩きで数分でしょう?」

「二つ隣の県なんですよ」

「違うよね」

「違いません」

「いいや、だってハルカくんはさ」

最初は小さくてか細かったはずのマオさんの声が、まっすぐ、心の奥に突き刺すような声色になっているのは、いつからだろう。

『あなたには絶対に家賃を払ってもらいますよ』と言われた日のことを思い出した。同じような気温の日だ。

「ハルカくんはさ、女の子だもんね」

「中性的ってだけでそれはひどいな、マオでも冗談のライン間違えることあるんだね」

心臓がうるさい。いっそ消えてしまえば楽になれるのに、と思う。なんでこうなった? 目の前の人物は、もしかして、あの人なのか? 既視感の正体は、それだったのか?

「まあいいよ、それでさ、いつになったら家賃を払うの?宮野遥さんは」

私は、一日中弄ばれていたのだろうか。



 マオさん、いいや、マオは私の家に上がり込んだ。レンタル彼氏は即日やめて、まっとうにアルバイトをするかどうか監視をする、という名目で私の家に住むらしい。

「今日は何のバイト?」

「今日も、レジ打ちです。時給は千百円です」

「バイト仲間と飲みとかは?」

「家賃払うまではいきません」

「それでいい。いってらっしゃい。ハルカくん」

マオは、くすくすと笑って私を外に追い出した。


彼女は、祖母からアパートを譲り受けて、不労所得で生活をするのでここにいてもいいのだ、といって住み着いている。一人暮らしで暇な時に話し相手になってくれるし、家賃を払う、というのも本来は行うべき行動なので、なんだかお得な気すらしている。




 宮野遥。家賃を滞納しているのに、祖母が追い出していない唯一の人間。そう聞いた時点で、何が祖母を魅了するのかが気になっていたのは、認める。

 レンタル彼氏に男友達を送り込んで私が作った店舗に、私が知らない人が応募できたのならば、それは私の身内が意図的に行ったことである。しかしそれは渡りに船であったことを否定できない。そして、私は彼女が男装してよく知らないなりに「いい彼氏」像を作り上げて待ち合わせ場所に現れるように仕事のセッティングをした。

 結果、彼女は祖母が追い出さないほどの魅力がある人間だとは思えなかった。だが、それならばそれでいい。私は彼女を見守って、光るところがあったら、「ドジっ子中性彼氏」として店で雇おう。そう考えて彼女の家に住み込みを決めた。



 やたらと暑い夏が終わろうとしている。この汗が冷や汗になるくらい、彼女には働いてもらおう。そんな風に考えるのも何度目かもわからない。わからなかった。

「マオ、今日から都内で営業やるよ」

「はいはい、いってらっしゃい」

遥が家を出るのを確認すると、私は目の前の家事にとりかかった。彼女の魅力は、時にあらわれるんだな、と思った。

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