ショッピングモール奇談
ごもじもじ/呉文子
第1話 本好きの店長さん
お向かいの藤倉さんと目が合った、と思う。その瞬間、藤倉さんは小さく手を振ってくれた。私も小さく会釈する。オーバーアクションではなかったかな、と反省しながら、私はまた平積みの本を直す作業に戻る。藤倉さんに少しでも会いたくて、私は表の本を整列させる業務を率先して引き受けている。
藤倉さんは、向かいにあるペットショップの店長さんだ。眼鏡をかけていて、背が高く、とても痩せている。かっこいいかと言われると、わからない、としか言いようがない。何しろ、私のひいき目が曇っている。おそらく客観的には、かっこいい、ではなく、おとなしそう、と評価されてしまうのかもしれない。でも、笑った顔がすごくいい。とても人が良さそうで、藤倉さんの笑顔が見られると、なんだか私の気分まで明るくなる。この巨大なショッピングモール内で、お向かいに藤倉さんがいてくれたことは、本当に奇跡だ、と思う。
最初は、藤倉さんのことなんて、全く気にも止めていなかった。ある時、休憩時間中に、同じショッピングモール内にあるカフェに行った。その時、たまたま隣に藤倉さんが座った。
「あの……書店員さんですよね……? お向かいの」最初に声をかけてくれたのは、藤倉さんの方だった。
「僕は、向かいでペットショップをやっている藤倉、と言うんですけど、あの、ちょっとお伺いしたいことがあって……最近の小説とか、何が流行っているのか聞けたら、と思いまして……。あ! ご迷惑だったら申し訳ない」しどろもどろにしゃべる姿に、かえって好感がもてた。そして、特に話題が本のことだったので、私にしては珍しく、積極的に話がしてみたい、という気持ちになった。
「小説、お好きなんですか」
「ええ、でも、いつもちょっと古いものばかり読んでしまっていて」
「どのあたりの時代ですか」
「昭和の早いあたりの。ほら無頼派とか」
「あ、私も太宰治とか坂口安吾とか好きです」
私の言葉に、藤倉さんがにっこり笑ってくれた。眼鏡の奥の目がきゅっと細くなって、いかにも人が良さそうな笑顔だった。それを見た時、私の胸が不思議と、ぐぐぅ、と苦しくなった。
「嬉しいな。『桜の森の満開の下』は読まれました?」
「読んでます! あれすごく良かったです! 主人公が美しいものに心奪われる描写が、とてもすごくて……」
そんな風に、藤倉さんとはとても話がはずんだ。休憩時間を目一杯使ってお話をしたため、書店にはギリギリに戻った。危ないところだった。
それ以来、藤倉さんのことがなんとなく気になるようになって、時間があるとお向かいの様子を伺ってしまう。そうやって見ていると、ペットショップには色々な人が来るものだな、と思う。ワンちゃんを連れた家族連れが入って行ったり、子猫ちゃんらしきケージを大事そうに持って、老夫婦が出てきたり……。
ただ、ちょっと気になる点があった。
それは、やたらとこのモールの関係者が訪問することだった。
最初は、華やかな美女が何人も入れ替わり立ち代わり入っていくのを見かけて、なんとなく胸がちりちりしていた。しかし、よく見ると、それは同じモール内に入っている、アパレル系のショップ店員さんたちだった。朝に挨拶してくれて、それぞれのお店に入っていくので、ぼんやりと顔は覚えている。それにしても、こんな忙しい昼間の時間の合間を縫ってまで、そんなに頻繁にペットショップに立ち寄るものだろうか。
そして、よくよく気をつけてペットショップを伺っていると、あれ? あの人、どこかで見かけたことがある? という人が、お店に吸い込まれていく。それは、このショッピングモールに入っている美容院の店主さんだったり、フードコートの店長さんだったりした。
そして、関係者のどの人にも共通しているのが、深刻そうな表情をしているということだった。ペットショップって、そんな顔をして行くところだろうか?
なんだか不思議だなあ、と思いながら、私は毎日を過ごしていた。
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