48 さようならは言わないよ


 土曜日。


 それは休日を意味していて、私はいつも浮かれて過ごす日なのだけれど。


 今日はそういうわけにもいかなかった。


 雛乃ひなのが、今日実家に戻る。


 平日の忙しい時ではなく、余裕のある休日に、ちゃんとお別れをしたいと雛乃が決めたのだ。


 午後に雛乃はこの家を出ていく。


 現実味が薄かった雛乃との別れも、当日を迎えてようやく現実味が増してくる。


「おはよーしおりさん」


「……うむ、おはよう」


 それでも雛乃はいつものように陽気に私に朝の挨拶を交わす。


 私はその声で瞼を開けた。


「眠そうだね」


「いつものことでしょ」


「そりゃそうだ」


 ケラケラと雛乃は笑う。


 そりゃ眠い。


 だって昨日は一睡も出来なかったから。


 雛乃がいなくなることを考えると、眠気が一向に訪れなかった。


 興奮しているのか、悲しんでいるのか。


 そのどちらともとれず、自分でも訳が分からないまま朝を迎えてしまった。


「まあ、いつもならもっと寝かせてあげるんだけど。今日はね」


「分かってるよ」


 最後の日くらい、それなりに早い時間から一緒に過ごそう。


 私もいつものように寝ているわけでもないから、それには何の問題もない。


 朝ごはんを食べて、他愛のない話をして、いつものように時間を過ごす。


 そんな雛乃との日常を最後まで大事にしたかった。


 しばらくして、私はぼーっとテレビを見ていると居間から雛乃の姿が消えていることに気付く。


「あれ、雛乃ーっ」


「なにー?」


 声は居室の方から返ってきた。


 いつもならその声を聴いて満足するのだけど、今日はその部屋まで足を運んだ。


 ちょっとした所で普段と行動を変えてしまうのは、やっぱり私なりに思う所があるのかもしれない。


 部屋では雛乃が床に座っていた。


「なにしてんの?」


「アイロン掛けてんだけど?」


 確かによく雛乃の手元を見てみると、アイロン台と私のスーツがあった。


「別に最後くらいしなくていいのに」


「最後だからするんじゃん」


 気持ちは嬉しいけど。


「ちゃんと休んだら」


「これが栞さんに家に住ませてもらう条件だからね、ちゃんとやるよ。それに立つ鳥跡を濁さずってね」


「雛乃にしては珍しく難しい言葉を使う」


 なんか言い回しが雛乃っぽくない。


「あたしのことバカにしてるな?」


「……いや、うーん」


 面と向かって言われると、私も反応に困る。


 しかし、雛乃はそんな私を見てすぐに吹き出す。


「あはは、ちがうちがう。前に栞さんがそんなこと言ってたから使ってみただけ。あたしはそんな言葉知らなかったよ」


「あ、そうなの……」


 やっぱり雛乃が使うような言葉じゃないと感じたのは合っていたのか。


「意味わかんないからスマホで調べたし」


「わざわざ?」


「そ、知っときたいじゃん」


「聞いてくれたらいいのに」


「一回聞いたら“時には自分で調べろ若者よ”って言われた」


「なんだそれ」


「栞さんのことだかんね」


 全く覚えがない。


 素直に教えてあげろよ、と思うのだがそれが自分のことなのだから質が悪い。


 そして、ちゃんと調べる雛乃にも関心する。


「こうやって影響受けてくんだね」


「……そうかもね」


「あたしも栞さん色に染まったわけだ」


「雛乃を染めるとは、私もなかなかだな」


 個性の塊みたいなギャルを相手に、私の色が入るだなんて不思議な話だ。


「そういう栞さんは、あたし色に染まっている部分はあるのかな?」


「……どうなんだろうね」


 そう言われるとあんまり意識はしてなくて、よくわからない。


「こういうのって無意識だしね。後になって気付くもんだよ、多分」


 そう言うと雛乃も納得したように頷く。


「確かにそうかも」


 話は一段落して、雛乃は再びアイロンを動かし始める。


 それももうすぐ終わるとのことで、私は居間に戻ることにした。


「――でも、少しくらい染まってくれてるといいな」


 去り際、そんな独り言が聞こえたような気がした。



        ◇◇◇



 時間はあっという間に過ぎてしまう。


 お昼も雛乃のご飯は美味しいけれど、喉に通りづらくて、会話はいつもより少なかった。


 それでも努めていつもの日常を送る。


 食事を終えると、台所では雛乃が食器を洗う水の音が流れる。


 もう、この後ろ姿を見るのも最後なんだなと思うと何となく見続けてしまった。


「よし、じゃあ着替えるかな」


「うん」


 時刻は昼過ぎ。


 雛乃が居室に行って着替えると言う事は、そういうことだ。


 別れの時間がもうすぐそこに訪れようとしている。


 テレビの音すら邪魔で、私は無音のまま雛乃を待った。


 数分後に足音が近づいてくる。


「栞さん、見納めだよ」


 居間に現れたのはギャル系の女子高生。


 その姿を見たのは三度目か。


 もっと長い時間を様々な格好で見てきたから、結局制服姿が一番新鮮だった。


「こう見るとやっぱり雛乃ってJKなんだね」


「当たり前じゃん」


 でも、赤の他人の女子高生が私の家にいたことは当たり前じゃなくて。


 でも、そんな日常が当たり前になって、今はその別れに違和感を感じている。


 本当に、当たり前とは何なのかよく分からなくなってしまう。


「まだまだ子供だね」


「うっさいよ」


 お互いに笑う。


 最後くらいは、明るくお別れをしたい。


 しんみりとして、雛乃に良くないものを残したくないから。


「じゃあ、行くね」


「うん」


 雛乃を玄関まで見送る。


 その先は送らなくていいからと雛乃に言われていた。


 だから、私が雛乃を見るのはここが最後になる。


 雛乃はローファーを履くと、こちらを振り返った。


「栞さん、あたしがいなくても朝ちゃんと起きて、ご飯もちゃんと作って食べるんだよ」


「大丈夫だって。朝は起きれるし、ご飯を作るのは怪しいけど、買えば何とかなるから」


「心配だなぁ。栄養とかちゃんと管理してよ」


「善処するよ」


「約束だよ」


「うん」


 そして、約束と言うのなら。


「雛乃の方こそ、ちゃんと家に帰っても頑張るんだよ。家族の言うことはウザいかもしれないけど、それを跳ね返す力はあるんだから」


「そうだね、栞さんのおかげで自信ついたし」


「約束ね」


「うん」


 そう言ってくれるのなら、私も不安はないかな。


「それとさ、もう一ついい?」


「なに?」


 雛乃が改まって、神妙な面持ちになる。


「あたし、栞さんに言われた通り家に戻って、ちゃんと大人になるよ。だからさ、それを待ってて欲しいの」


「……えっと、それは」


「絶対に戻ってくるから、あたし以外の人のこと見たらダメだよ」


 雛乃の言っていることは、きっと多感な10代の熱がそうさせている。


 それを否定する気はないけれど、それをバカ正直に信じてあげられるほど私はもう子供じゃない。


 でも、案外それに答えるのは簡単だったりする。


「こじらせのアラサーだからね。誰も相手にしてくれないから安心しな」


「……あたし、本気だからね」


「その本気を、雛乃が大人になっても持ってくれていたらね」


「絶対だよ」


 これから雛乃の送る膨大な時間の中で、私との生活はたったの一ヶ月。


 きっとその時間の中で私の存在はすり減っていくだろう。


 だから、どうせ私のことなんて薄れていくだろうけど。


 でもまあ、期待しないで待ってるよ。


「気をつけて行くんだよ」


「うん」


 思えば、こうしてちゃんと雛乃を見送るのは初めてかもしれない。


 いつも雛乃に仕事に行くのを見送られてばかりだったから。


 それが最初で最後になるのも不思議な感じだ。


 雛乃はドアノブを握って、ガチャリと回す。


「……」


 けれど、ドアは開かない。


「雛乃?」


 雛乃は背を向けたまま、その動きを止めてしまった。


 沈黙を貫いて、しばらくそのまま立ちすくんでいた。


 私もどうしていいか分からず、その背中を見つめ続けた。


「……っ」


 ようやく聞こえたのは、息を押し殺すような声だった。


 雛乃のドアノブを持つ手は震えている。


「……んっ、ひぐっ」


 次第に、声にならない声は嗚咽に変わる。


 ぽたぽたと雛乃の足元に数粒の雫が落ちていく。


 手の震えは、肩にまで及んでいた。


「雛乃、大丈夫?」


 ようやく私が発せたのは、そんなありきたりな言葉だった。


「だいっじょうぶ、じゃないっ……」


 声は途切れ途切れ、不安定な強弱で紡がれる。


「離れたくない、あたし、栞さんと、離れたくないよぉ……!!」


 張り裂けそうだった。


 今にも崩れ落ちそうな、いや、もう崩れているのかもしれない雛乃の後ろ姿。


 そんなものを見て、どうにか平静を保っていた私の心もバランスを崩してしまう。


 あっさりと心は破られ、痛みを覚えた。


 でも、それ以上の痛みをきっと雛乃は感じている。


「栞さんの言う事もっ、分かる、分かるけどっ、でもやっぱり、一緒にいたいと思う気持ちは誤魔化せないよぉ……っ!」


 でも、その姿を前にしても私はこの選択を変えることはできない。


 変えては、きっといけないと思う。


 そんなことしたら私たちはまた振り出しに戻ってしまうから。


 だから――


「ありがとう、雛乃」


 そっと、私は雛乃を背中を抱きしめる。


 出来るだけ優しく、私の温度が伝わるように。


「……っ」


 びくりと雛乃は体を震わすけれど、次第に私だと理解して落ち着きを取り戻す。


「そんなに思ってくれて嬉しいよ」


「……栞、さん」


「でも本当に私のことを思ってくれるなら、やっぱり私は雛乃には実家に戻って欲しい。本当に雛乃と一緒になる日が来るのなら、何の後ろめたさもなく前を向いて歩いて行きたいからね」


「……っ」


 それは、これから取るべき雛乃の行動は変わらないことを意味するけれど。


 未来に、これは最良な選択であると雛乃にもそう思って欲しかった。


「それにさ、たかが数年のことだよ?本当に私のことを思ってくれるのなら、それくらい我慢してよ」


「……たかが数年?」


「そう、そんなの雛乃が一生懸命に生きてたらきっとすぐだよ。逆にそれくらい我慢できない人なんて私信用できないよ?」


「……そうなのかな」


「そうだよ」


 しばらくの間、そうして雛乃が泣き止むのを待った。


 悲しい現実に変わりはないけれど、その先が明るいと信じることが出来たら人は進んで行ける。


「落ち着いた?」


「……うん」


「ほらほら、可愛い顔が台無しだよ」


 私は涙でぐちゃぐちゃになった雛乃の顔を拭う。


「やだ、汚いよ」


「雛乃だから、汚くないよ」


「いや、マジ、拭きすぎだって」


「やっぱり雛乃は子供だね」


「子供じゃないし」


「別れるのが寂しくて泣いちゃうなんて、子供だよ」


「……そう言う意味では、栞さんは大人だけど。ちょっと冷たいよね」


 そうだね、そうかもしれない。


 でも、だからこそ。


「そんな雛乃が可愛いよ」


「わけわかんないって」


 それが分かる頃には、きっと雛乃も大人だね。


 ちょっとだけ笑顔を取り戻した雛乃に安堵して、私は再び離れる。


「じゃあ、雛乃。今度こそ行ってくるんだよ」


「……わかったよ。寂しいけど、栞さんが待ってくれるから、あたし頑張るから」


 その頃には雛乃はもっと美人で、私はオバサンに近づいて行くんだろうな。


「うん、行ってらっしゃい雛乃」


 初めて、私が雛乃を見送る。


「絶対戻ってくるから……だから今は行ってきます、栞さん」


 雛乃の背中が消え、扉が閉じられる。


 私達はこうしてまた本来あるべき日常へと帰って行った。







 一人になった部屋は物寂しい。


 何となく落ち着かなくて、居室へと足を運ぶ。


「あれ、スーツ掛けっぱなしじゃん」


 雛乃がアイロンを掛けてくれたスーツが、ハンガーで壁に吊るされている。


 いつもはクローゼットに戻してくれているのに。


 最後の最後で忘れてしまったのだろうか?


「やっぱり何だかんだ、いつも通りじゃなかったってことか」


 それはそれでいいかと思って、スーツをクローゼットにしまおうと手を掛ける。


 すると、その足元に何か置かれていることに気付く。


「……これ、雛乃の服じゃん」


 制服しかない雛乃に、私がプレゼントしてあげた服だ。


 なんだ、これも置いて行ったのか。


 スクールバックで持っていくには荷物になるからか?


「……ん?」


 一番上になっているスウェットの上には、封筒と小さな箱があることに気付く。


 封筒から二つ折りされた便箋を開くと、可愛い文字で文章が綴られていた。







 “栞さんへ


 あたしは絶対にこの家に戻ってくるから、買ってくれた服はこのままにしておきます。


 邪魔かもしれないけど、これは捨てずに取っておいてください。


 これはあたしが栞さんと一緒にいた証明であり、未来に一緒になる約束でもあります。


 あと、それだけじゃ荷物増やしただけみたいに思われるのも嫌なのでプレゼントも用意しました。


 ていうか誕生日プレゼントです。


 正直、大人の人に何をあげたらいいかよくわからなくて。


 無難にアクセサリー、ピアスにしておきました。


 趣味に合わなかったらごめんなさい。


 たまにでいいから着けてくれると、嬉しいです。

 

 それじゃ、また会おうね栞さん。


 大好きだよ。

                            寧音より“







「ああ……もう……」


 これって反則じゃない?


 反則だよね?


 不意打ちはずるいってマジで。


「私も雛乃のこと、子供扱いもう出来ないなぁ……」


 いつの間にか雛乃の思い出だらけになってしまった部屋。


 私はその思い出と共に、泣き崩れた。



 

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