47 忘れないように刻む
7月が終わり、8月を迎えた。
雛乃との時間も一週間を切った。
「
「あ、
雛乃との別れが決まってからも、平坦な日々は続いて行く。
日常は変わらず続いて行くのだから当然だ。
私達もそれに倣うように変わり映えのない時間を過ごしていく。
まるで別れの時など来ないかのように、努めていつも通りに一緒に過ごした。
「今日もお仕事お疲れさまだね」
そう言って雛乃は台所から顔を出す。
「そういう雛乃こそ、アルバイトに家事もやってるんだから私と仕事量そんなに変わってないでしょ」
「いやいや、栞さんに比べたらこんなの楽だって」
意外だったのは、実家に戻ることが決まっても雛乃がアルバイトを辞めなかったことだ。
家出を続ける為の軍資金を稼いでるものかと思っていたから、実家に戻るならすぐに辞めるのかと思っていたのだけど。
ちゃんと最後までやり続けるらしい。
「家事できない私からすると、仕事より家事の方がツラい」
「逆にあたしはバイトの方がツラいかな?」
「なるほど、それは助かる」
「うん、栞さんに合ってるよね」
合っている。
私と雛乃の相性はとてもいい。
それは性格のことだけじゃなくて、生活を送る上でもだ。
お互いの欠けている部分を補完し合える関係。
自然とそうなっていた。
「……そう、だね」
「……うん」
だから、それをお互いに認識するのと同時に、別れも意識してしまう。
その瞬間だけ、いつもと違う空気が流れてしまうのだ。
そんな気まずい空気が、何度かあった。
「あ、ほらほら。お腹空いたでしょ、早く着替えてきなよ」
「そうする」
そう返すと、雛乃はバタバタと台所へと戻っていく。
しんみりとしてしまった空気を打ち消すように、彼女なりに気を遣ってくれていた。
私は居室へと移動し、スーツを脱ぐ。
ハンガーに掛けようと腕を伸ばそうとして、肩が妙に重たいことに気付く。
気分が落ち込んでいて、全身が気だるくなっていた。
「……バカみたいだな、私」
自分で決めて、雛乃のためだと説得して。
それが正しいと思っていたのに、その日が近づくとこんなにも気持ちが沈んでいる。
矛盾している。
結局あれだけもっともらしいことを言っても、それは結局私なりの“正しい大人”を演じようとしただけなのかもしれない。
どこまで行っても、私は格好だけの大人というこだろうか。
「でも後悔はないから」
ようやっとハンガーにスーツを掛ける。
私の心は弱音を上げていても、やっていることは間違っているとは思えない。
未熟な私がまだいるだけで、きっとこれが雛乃にとっての最善だということは信じて疑わない。
だから、私は格好つけの大人を最後まで演じきる。
雛乃の為だと思えば、ちっぽけな私の弱さなんて簡単に無視できた。
その後、雛乃といつ通りに晩御飯を食べて、お風呂に入って、テレビやスマホを見て、雛乃と少し話しをして。
そうして夜は更けていく。
23時を過ぎると、自然と瞼は重たくなってきた。
「栞さん、眠たいの?」
「そうみたい」
こくこくと意識が何度か飛んで行ってる。
多分、寝てた。
「そろそろ寝る?」
「そうだね、そうしよ」
寝る準備は出来ていたから、私はベッドに潜る。
雛乃はそんな私の様子を見て、照明のリモコンを持つ。
「電気、消すよ?」
「え、あ、うん」
いつもより雛乃の電気を消すタイミングが早くて、それに少し驚く。
まあ、そんなこともあるかと瞼を閉じる。
眠気はすぐに――
「えいっ」
「!?」
――訪れなかった、むしろ覚醒した。
モゾモゾと、布団をめくって背中にくっついて来る存在がいたからだ。
このタイミングでそんなことを出来るのは一人しかいない。
「おおいっ!」
「どうしたの?」
「どうしたの、は私の台詞だっ」
雛乃が私のベッドに潜り込んで来ていた。
やけに照明を消すのが早かったのは、いつも敷くはずの布団を敷いていなかったからだ。
「いいじゃん、もうちょっとで栞さんともお別れなんだから」
「それは理由になってるか!?」
「ならないの?」
「ならないっ」
全く考えの読めない子だ。
私を相手にそういうことをするのはどういうことか、本当の意味で分かっていないんじゃなかろうか。
「初めて会った最初の夜も、こういう感じだったでしょ?」
ちょっと私も後ろめたい時の話をしてくるから、思い切り拒否することも出来なくなってしまった。
「……私は記憶ないけどな」
目覚めた朝、雛乃の胸を揉んでいた時の記憶しかない。
「だからさ、今さらいいじゃん」
「やっぱり理由になってない気がするんだけど……」
「いやなの?」
「……嫌では、ないけど」
ずるい言い方をする。
「じゃあ、いいじゃん」
むぎゅっ、と背中が何か柔らかいものに包まれる。
「ななっ、なにしてる!?」
「抱き着いたんだけど?」
「それに関してはマジでなぜっ!?」
「栞さんを忘れないように?」
なぜ疑問形?
そして、それは抱き着く理由になるのか?
分からない。
私には何も分からないっ。
「栞さんって、いい匂いするよね」
「嗅ぐなよっ、ていうかどこ嗅いでるっ」
「髪」
「やめろっ、そんなことする必要性はないっ」
「栞さんの匂い忘れないようにって」
「そう言えば許されると思ってないか!?」
ひいいっ。
この子、急にどうしてそんなにアグレッシブに攻めてくるの?
今まで普通通りにしてたのにっ。
最後までいつもの日常を送ろうとしてたんじゃないの?
突然の雛乃の暴走に、私の理性は崩壊寸前だ。
「いいじゃん。もうしばらく栞さんと会えないんだから、少しくらいワガママ言っても」
「……それは」
もう別れてしまう人間とそんなに距離を縮めたら、もっと別れが辛くなるだけじゃないか。
「あたしは栞さんのこと忘れたくない。だからずっと覚えていられるように、声も体も匂いも、全部一緒にあたしの中に刻んでおきたいの」
「……変な子」
別れることが決まっているのに、雛乃にとってその行為に意味はあるんだろうか。
「栞さんもあたしのこと抱いたりしない?」
「……しないよ」
そんなことしても、雛乃に要らない物を背負わせるだけだ。
私は雛乃には少しでも軽い体で、元の生活に戻してあげたい。
「ほんと、やせ我慢だけはいっちょ前だなぁ」
「や、やせ我慢!?」
なんか急に上から目線で来られたんだけどっ。
「ほんとはしたいくせに。なんか色々考えて止めてるんでしょ?」
「そ、そそんなことなくってよ!?」
「分かりやすすぎるって」
「うぐっ……」
もう、雛乃に隠し通すのも無理なのか。
それくらいの仲にはなってしまった。
「まあ、だからさ。素直になれとは言えないけど……」
ぐっ、とまたさらに体が密着する。
背中越しに伝わる雛乃の温度が暖かい。
「あたしのこと忘れないでよね」
もしかしたら、この答えすらも雛乃のためを思うなら突き放すべきなのかもしれない。
だけど。
「忘れないよ」
これくらいは、本心のままに伝えたかった。
「……うん」
そうして、私は雛乃に抱き着かれたまま時間が過ぎる。
どれくらいそうしていたかは、よく分からなかった。
「栞さん、今何時?」
察してくれたのか、時間を聞かれる。
「えっと……あ、日付変わった」
スマホを見ると、ちょうど24時を過ぎた頃だった。
「お誕生日おめでとう、栞さん」
「……あ、え」
それはちょうど8月3日、私の誕生日を迎えた瞬間でもあった。
雛乃が覚えているとは思わなかったけど。
「あたしにとっては初めての栞さんの誕生日だから、特別だよ」
もう、何と言ったらいいのか。
「ほら、これならあたしのこと忘れないだろうし。30歳のことなんか気にする暇なんてなかったでしょ?」
でも言えることがあるとするなら。
上手く言葉にはならないから、シンプルに一つだけ。
「……ありがとう。嬉しいよ」
それ以外に言葉は見つからなかった。
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