26 疑惑は調査すべし
退勤時間に私はダッシュで職場のオフィスを後にする。
つまりは定時上がり。
最近はすっかり当たり前になってきてしまった。
いや、これこそ本来あるべき働き方なのだから、それでいいはずだ。
私は家へと急いで帰る。
「ただいまー!」
バンッと勢いよく玄関の扉を開ける。
奥から“おかえりー”との声が聞こえてきて、
「すぐにバイト採用されたんだって?」
居間には、座椅子で体育座りになりながらテレビを見ているスウェット姿の雛乃。
私の剣幕に驚いたのか弾かれたように顔を上げる。
「え?うん、いえい」
なんかピースしてきた。
なんだこの能天気さ。可愛いけど。
「どういうこと、面接なしだったんでしょ?」
「うん、人手も足りないし、あたしもいい感じだから採用だってさ」
ふふん、と雛乃は自慢げにしている。
いやいや、そんな怪しい採用があってたまるものか。
「大丈夫なの、そこ。雛乃騙されてない?」
「騙すも何も、働くのに騙しようないでしょ」
「働きに行ったら風俗営業だったとか」
それで顔パス採用なら大いに納得できる。
「ないない、外観通りの古っぽい喫茶店だったし」
落ち着け私。
そもそも、こんな人生経験の浅い子に何かを疑えという方が無理があるのだ。
ここは大人である私がしっかりしないと。
「……そこの店長さん、どんな人だったの?」
「うんとね。茶髪でショートヘアのちょっと怖い見た目してる若い人だった」
ほら、見た事か。
そんな昔ながらのお店でどうして茶髪の若者が店長をやっているのか。
怖い印象をうけたということは、接客業としても半人前ということだ。
きっと雛乃を性的な目で見ているに違いない。
「やっぱりそんな危ない所では働かせられないっ」
「どこに危ない要素あった?」
「きっと雛乃を自分のモノにしようとエロイ目で見てるのよ、そいつ」
「……あー……あはは。ないない、それはないよ」
雛乃は笑いながら手を振って否定してくる。
「なんでそんなことを言いきれるのよ」
「だって店長、女の人だよ?」
「……女?」
「うん。だから、そんな目で見ないって」
……雛乃よ。
君の目の前にいるのは、どういう女だったか忘れているのか?
酔った勢いとは言え、其方を性的な目で見て、あまつさえ抱いてしまった女だぞ。
このご時世、女であるから性的な心配はないなんて言い切れるものじゃない。
それはそれで、私は言い知れぬ不安に襲われるのだった。
「とにかく、そこはよくない。バイト先なら他にいくらでもあるじゃない」
「でももう契約書にサインして、明日から働くことになってるし」
しかし、雛乃は何の心配もする様子がない。
へらへらとお気楽な笑顔を浮かべるばかりだった。
……こうなったら、私がやるしかない。
◇◇◇
翌日。
私はいつも通りに出社した。
『いい、雛乃。何か危ないことがあったらすぐに逃げるのよ。そして私に連絡しなさい』
『はいはい、分かりましたー』
とまあ、朝の雛乃との会話も相変わらずだったのだけれど。
しかし、私としてはそんなのは想定内。
雛乃に人生経験が足りないのは仕方のないこと。
大人である私がその差を埋めてあげるしかないのだ。
「おーい、
「あ、はい」
とか考えていると、上司に声を掛けられる。
私より少し年上だが、もう係長のポストについているやり手の女性社員だ。
「この前頼んでおいたデータ、まとめといてくれた?」
「……あ」
「え、うそ。忘れてた?」
そう言えば、そんなこと頼まれてた。
普段の業務とは別の案件だったから、すっかり失念していた。
「す、すいませんっ。今すぐにやりますっ」
「あー、いいっていいって。期限まだあるし。でもいつものお前なら仕上げてる頃だったから声掛けただけ、期限までに出来ていればいいから」
「あ、そうですか……」
ほっと胸をなでおろす。
デスクに置いてある卓上カレンダーを見てみると、確かに期限は一週間先だった。
“頼んだぞー”
と念を押されて、上司が去っていく。
「せんぱーい、なーにしてんですかぁ?」
すると隣から面白おかしそうに声を掛けられる。
後輩の
「なにって、見ての通りだけど」
「先輩がそんなミスするなんて、わたし初めて見ましたけど?」
「……まあ、返す言葉はないわね」
確かに今までの私にはないミスだ。
致命的なものではないけど、会社で慌てたのは久しぶりだった。
「どうしちゃったんですか?悩み事ですか?」
「悩み事……」
そう言われるとそうなるのだろうか。
確かに、ここ最近の私はここ数年の中では最も安定していない。
そこに悩みがないと言えば、嘘になるのかもしれない。
だけど、これは他人に打ち明けられるものでもない。
「なんでもない」
それよりも、私には解決すべき問題があるのだ。
お昼休みに入り、私はオフィスを後にする。
そのままビル群を抜け、ちょっとした住宅街に入っていく。
古びた街並みに変わっていくと、目的の場所が現れた。
――喫茶店
間違いない。
雛乃が今日から働く店だ。
「雛乃は大丈夫だって言ってたけど、信用できないからね……」
実際にどういう環境かこの目で確かめてやろうと言う算段だ。
バレないように、髪をまとめ帽子をかぶり、サングラスを装着する。
よし、このまま入店して――
「せんぱーい、こんな所でなにやってんですかぁ?」
「ひいいいっ!?」
突然、私の背後から声が聞こえた。
ていうか七瀬だった。
「な、七瀬、こんな所でなにしてんのっ」
「それはわたしの台詞ですよ。先輩がお昼を抜け出す所なんて初めて見たので、思わずついて来ちゃいました」
「普通にストーカーじゃんっ」
「まあまあ、後輩は先輩の背中を見ている生き物ですよ?」
「もっともらしい事言ってる風だけど、正当化できてないからなっ」
くそっ、どうしてこんなタイミングで七瀬がっ……
「先輩、こういう喫茶店が趣味なんですか?」
「いや、別にそういうわけじゃ……」
「でも、今入ろうとしてましたよね?」
そうだけど。
七瀬には関係のないことじゃないか。
「そうですか、そうですか。では、行ってみましょうかっ」
「あ、ちょっと……っ」
七瀬に不意を突かれる。
突然、腕を握られそのまま扉を開けていた。
「いらっしゃいまー……せ?」
明るくハキハキとした声。
聞き馴染みのある声の中にも、どこかフレッシュな初々しさがあった。
しかし、語尾は妙に揺れていた。
「あれ、
そこには昔ながらの喫茶店にエプロン姿の雛乃。
首を傾げる七瀬。
変装済みの私。
なんだ、この異空間。
「あ、七瀬さんだ」
「わおっ、覚えててくれたんだぁ」
なんか嬉しそうに和気あいあいとしだす二人。
まあ、いい。
私は変装しているからバレてはいない。
七瀬の同僚だとでも思っていることだろう。
このまま座って遠くから観察を……。
「それで、上坂さんは何してるの?」
「……ど、どなたのことを言っているのかな?」
「そんな変な格好して、どしたの?」
「……」
な、なぜバレた……っ。
「さっきね、先輩珍しく仕事でミスしそうになったの。そのショックでおかしくなったんじゃないかな?」
「え、上坂さんが?……大丈夫?」
会社と人生的な意味で後輩の二人に心配される私。
なんだこの構図……。
ていうか、七瀬は余計なことを言うなぁあああ……。
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