第18話 33日目②/184日目

 続・三十三日目


 一潟神社。木々が茂り薄暗いそこは、湿度が高く、嫌な空気を漂わせていた。

 男は神社にしてはこじんまりとした本殿の扉を、周りに人がいないことを確認してから開いた。薄暗いそこは、埃まみれで汚れている。もう何十年も人が立ち入っていないようだった。男は何度か咳込み、鼻と口を袖で塞ぎながら奥へ進む。

 ほんの二メートルほど進むと、一番奥に簡素な祭壇のようなものが置かれていた。途中で使うのをやめられたであろう太い蝋燭や、花瓶。その他神社で見たことのあるような飾りが並ぶ。そして、肝心の中央は空いていた。

 長らく空席だったそこは、恐らく男が持っているぬいぐるみ――すみれを置く場所だろう。バックパックからすみれと木の板を取り出した男は、裂けたすみれの腹に板を押し込み、歪な形のままゆっくりと祭壇へ近づける。それはまるで、そこに戻るべくして戻るのだと言わんばかりで、男は何のためらいもなくその場所へすみれを置いた。

 空気が男の肌にまとわりつくようで、蒸している。

長いような短いような沈黙が、古い木造建築の中で流れた。


「……ぁんだ。何も起こらな――」


 乾いた喉で零した言葉は、言い終わる前に途切れた。

 赤い光が、すみれの腹から煌々と放たれる。それはやはり見ようによっては内臓のようで、改めて見ると趣味が悪い。


「おお。おおお……!」


 男は祭壇からすみれを取り上げ、そして、祈るように口を開いた。


「……海原雅人の……そうだ、まずは試しに――奥歯をください」


 男は一度口に指を入れ、自分の奥歯の形を確認した。未治療の虫歯が痛む。そして、すみれの口元を親指で摩り、指が唾液で粘つくのも構わず言う。


「海原雅人の、奥歯をください」


 すると、すみれの口の奥が光り、そして男の口からも赤い光が放たれ出した。


「あ、ああああ」


 それは数十秒間光り続け、次第に明るさを失う。


「あが、あがが」


 男はすぐさま口に指を突っ込み、奥歯の形を確認した。

 ……間違いなく、奥歯の形が変わっている。虫歯が、無くなっている。


「ぅわ、やった……やったああああああ!!!!」


 堂内に男の上ずった叫び声が響く。高らかに掲げられた拳は、強く強く握りしめられていた。この日からだ。男の計画が始まったのは。

 海原雅人と自分の体を少しずつ取り換え、いずれ完全に成り代わる。そして、帆波真希を自分のものとする。

 男はすみれをぐしゃりと掴み、本殿を出た。すっかり日が傾き、空は紫がかっている。


「待っててね、真希チャン……」


 そう呟き、男は笑った。



 一八四日目


 もう雅人の肉体の三分の一ほどが別人になってしまった。歩き方も座り方も不自然で、私は雅人が雅人であることを毎日、会話によって確認していた。


「あの日行った遊園地楽しかったね」


「あの日泊まったホテル素敵だったね」


「あの日見た映画酷かったね」


「あの日やったゲーム悔しかったね」


「あの日池袋で食べたご飯、美味しかったね」


 その度に、ああ、中身はちゃんと雅人なんだと実感できる。安心できる。そんな私を見て、雅人は言う。


「大丈夫、俺は俺だよ、真希ちゃん」


 その優しい声は間違いなく雅人で、その柔らかい笑みも絶対に雅人で、それさえもいずれ失われてしまうかもしれないと思うと、私は怖くて怖くて仕方がなかった。

大学への道で、私は雅人と並んで歩く。大学なんてすれ違うほとんどが他人で、徐々に容姿が変わっていく雅人に気づく学生はほぼいなかった。気づくのは、雅人とよく話す学生と、私たちカップルを推してくれている学生くらいだった。それでも、雅人の整形説、まして影武者説なども流れ始め、噂は瞬く間に学内へと広がっていった。


「元々イケメンだったのに、なんで整形なんてしちゃったんだろうね」


 大学の入り口で、すれ違いざまに女子学生のそんな囁き声を聞いた。私は悔しくて何か言ってやりたかったけど、何を言っても無意味に思えて口を噤んだ。


「根も葉もない噂なんか信じちゃってさあ、馬鹿みたいだよね」


 後ろから、素っ頓狂な声がした。


「のえりー」


 金髪ショートの髪が相変わらず明るい印象ののえりーは、私たちの元に小走りで寄ってきた。小動物みたいだ……。


「ありがとう、のえりー。でも、みんな勘違いしちゃうのも仕方ないよね、こんなに変わっちゃったらさ」


 雅人はほっぺをぽりぽりと掻きながら、笑った。

 笑い事じゃないのに。雅人はきっと私たちを不安にさせないように虚勢を張っているんだ。本当は雅人が一番辛いはずなのに。


「……私は、雅人くんがどんな姿でも、ずーっと傍にいるぜっ!」


 のえりーはウインクをして、右手の親指を突き立てた。のえりーもいつもののえりーだ。でも、私たちを元気づけようとしてくれているのが伝わってくる。本当に、この子が親友でよかったと心から思う。


「さ、今日の講義もがんばろーう!」


 高らかに言い、歩き出すのえりーに私たちも続く。その背中は小さいのに頼りになる。のえりーは、本当に……本当に……あれ。

 そういえばどうしてのえりーは、あのときのラブレターが雅人からって教えてくれなかったんだろう。


  *


 今日の講義が終わり、私たちは大学最寄り駅のロータリーを歩いていた。のえりーは別の講義の補講があるとのことで、大学に残った。もうすっかり秋めいた空は、雲が高いところにあって、ついこの間まで夏だったのが嘘みたいにすっきりしている。

 私たちは、手を繋ぐ。手はもう雅人のものではないけど、この手の感触は雅人の心に繋がっているから、それでいい。


「今日はどうする? 私んち? 雅人んち?」


「うーん、真希ちゃんちがいいかな」


 他愛のない会話。もう雅人の体が変わっていくのを、無意識の中で諦めてしまっているんじゃないかと、不意に不安になった。

 そのとき。


「んねえッ……! ばばば、バカップル……!」


 死角から、不安定で抑揚の大きな声が私たちを呼び止めた。見ると、そこにはゴシックロリータファッションで、ノーメイクの女性が立っていた。


「あ、あのときの……」


 忘れるはずもない。衝撃的な出会いをした、癖の強い彼女、名前はたしか――桃。


「や、や、やっとお前の……正体が、わ、判った!」


 桃はビシッと雅人を指さし、不自然などや顔で言う。目が爛々としていて、少し血走っている。


「ああああああっくんの、ことをッ……取り込もうとしてる、あッああああ、あん、あ、悪魔! ……でしょぅ」


 しんと静寂が訪れ、通行人が私たちをチラチラと見ている。

 何を言い出すかと思えば、そんな非科学的なことを……いや、まあ私たちも、雅人から体を奪っている人がいるというオカルト的な結論に辿り着いてるから、人のことは言えないか……。


「あのね、桃さん」


「だだだ黙れ! あ、悪魔の遣い!」


 悪魔の、遣い……?


「も、桃ッやっと……この前あっくんに会えた、けど、あっくんじゃなかったんだ! あああええっと……あっくんが、あっくんのいいいぃぃぃろんなところッがッ! た、たたた多分ッお前のに、替わってたんだッ!」


 唾を吐き散らし、大袈裟な身振り手振りで桃は訴える。

 しかし、言い方はヒステリックではあるものの、彼女の言うことは一理あると思った。この桃という女性が、あっくんという男性の元カノとかストーカーとかだとして、そのあっくんの見た目が徐々に変わっていっている。そして、別の男性が徐々にあっくんの姿になっていく。それだけ見ていれば、今彼女が訴えているような想像をしてしまうのも分かる。

 あれ。


「……待って」


 そうだ。彼女はそのあっくんの姿を見ていると言った。雅人と体が入れ替わっている可能性が高い、あっくんと。


「ねえ、桃さん! そのあっくんって、今どこにいるか分かる? ていうか本名は?」


 私はこの機を逃すまいと、桃に負けないくらい声を張って問うた。雅人は困惑した表情で私たちの顔を交互に見ている。


「なッ……教えるわけ…………ないッ、じゃん……!」


 それもそうだ。

 彼女からすれば、私たちは得体の知れない敵。悪魔。どうにかしてこの誤解を解いて、情報を引き出さないと……。


「あのさ、その、私たち別にあなたの、あっくん? になにかしたわけじゃなくて……その、なんていうか……」


 えっと、どういえばいいんだろう。

 どうすれば彼女を説得できる?


「うるさい! もッももも、桃の言うことなんて信じないって言うんでしょ! でも、見たんだもん! だ、だだッ、大好きなあっくんが、取られちゃうの……誰も信じてくれない……」


 ほとんど泣いている桃を見て、私は心が折れそうだった。ああ、これは説得できない。そもそも考え方も、立場も性格も、見えてる世界も違うんだ……。


「桃さん」


 私が半ば諦めていたそのとき、私の斜め後ろで雅人の声がした。それは、いつもののほほんとした声じゃない。何か思いを込めたような、強い声。


「その、俺たち、桃さんが嘘ついてるって思ってるわけじゃないんだ」


 桃は静かだった雅人が急に喋り出したので、過度に身構える。


「あ、悪魔の言うことッ……なんか……」


「桃さんの気持ち、俺は分かるよ。ただ、訳分かんないことが起きて、自分では『こうに違いない!』っていう答えが出てるのに、みんな信じてくれない。そんなバカげたこと、起きるわけないって」


 それは、きっと今の雅人が感じてることだ。気づかぬうちに、他人と体が少しずつ入れ替わるという怪奇に耳を傾ける人などいない。


「桃さんも被害者なのかもしれないけど、俺たちも同じなんだ。突然体が変わっていって、怖くて仕方ない。みんなに『整形だ』って言われて、肩身も狭い。だからさ、真実を証明したいと思ってる。一体誰がどんな目的で、どんな手段を用いてこんなことをしてるのか」


 こんな雅人は初めて見た。こんな一面もあるのだ。雅人には。私は、まだまだ雅人を知らない。表面的にしか見てこなかった私は、これからきっと雅人に、本当の意味で恋をしていくのだろう。


「そのためには、桃さんの知っている、あっくんって人と会ってみたいんだ。入れ替わっている者同士で話してみれば、何か変わるかもしれないでしょ?」


 桃は、黙って聞いていた。すぐにヒステリックに喚き出すと思っていたけど、どうやら雅人の言葉に説得されそうになっているらしい。


「……じゃ、じゃあ……条件が、ある」


 ぼそりと呟いた桃は、俯き照れ臭そうにもじもじしている。


「お、俺にできることなら。ね、真希ちゃん」


「え、あ、うん」


 なんで私に許可を求める。ってまあ相手は女性だし、彼女の私に一言許可を貰いたくなる気持ちも分からなくはない。


「……あ、あぅ」


 顔を赤らめ、目線が泳ぐ桃。一体何を条件にするつもり――。


「あ! 頭を! なでなでしてください!!!!!」


 ………………………………………………は?


 いやいやなんで? さっきまで雅人のことを悪魔呼ばわりしてたよね?

 雅人も笑顔を顔に貼り付けたまま、固まっていた。頭の上にハテナマークが見える。

 ついさっきまでフル回転していた脳が、機能を停止した。急いで再起動ボタンを探していると、桃はハッとして、補足説明を始めた。


「いやその、えと、桃はあなたになでなでしてもらいたいわけではなくてッ! あ、あっくんの手! になでなで、さ、されたくて」


 なんじゃそりゃ……。

 私は、考えた。だって、彼女としては彼氏が他の女の頭をなでなでするなんて許したくない。けど、その撫でている手は雅人ではなくあっくんのもので……しかもこの条件を呑まないとあっくんの居場所を教えてもらえない。そもそも私は雅人のことをつい最近までちゃんと愛していなかったわけで、そんなんで嫉妬する権利なんてあるのかも怪しいし……。


「真希ちゃん、真希ちゃん?」


 雅人の声で我に返った。


「あ、え、ごめん。そ、そういうことなら、なでなですればいいんじゃない!? 雅人もこんな機会滅多にないし実は嬉しかったりしてね!」


 次から次へと思ってもないことが口から流れる。

「俺が触れて嬉しいのは、真希ちゃんだけだよ。でも、それが条件っていうのなら、わかった」

 顔が熱い。もうその言葉だけで、嫉妬も何もかも吹き飛んだ。撫でろ。撫でまくれ。撫でまわせ。桃の頭が禿げるまで。


「ややや、やったあ! あっくんの、手! 温もり! うへへ……」


 ちょっと変態じみた息遣いで、桃は頭を雅人に突き出す。腰をくねくねと動かし、顔は赤らんでいる。なんなんだこの状況。

 雅人はそっと右手を桃の頭に乗せ、髪をわしゃわしゃと左右に摩った。


「ぁん……」


「変な声出すな」


 嫌に色っぽい桃の声に、すかさずツッコミを入れる。

 雅人が手を離そうとすると、桃はその手をガシッと自分の頭に引き寄せ、「もうちょっと!」と言った。これを十六回繰り返した。終わるのに七分かかった。


  *


 大学から歩いて十五分。そのアパートは、住宅街の外れに位置した古めの鉄筋コンクリート造だった。私たち三人の先頭を歩いていた桃が、アパートの前で立ち止まり、言う。


「こ、ここが……あっくんの家。も、桃と別れてすぐに……ここに越してきた、みたい」


 汚れた階段を上がり、二階の二〇一号室の前に来る。

 私は、緊張していた。ここに、雅人の体を奪っているかもしれない張本人がいること。そして、雅人の体の一部を持っている人が今目の前に現れるかもしれないということ。私の心音が聞こえたのか、雅人は私に「緊張するよね」と小さく声を掛けた。その一言が、私の緊張を幾らか和らげてくれた。

 桃の指が、インターホンに触れる。

 グッと力が込められ、同時に聞き馴染みのある音が鳴る。

 私たちは、扉の前であっくんからの反応を待つ。

 待つ。待つ。待つ。

 しかし、いくら待っても何も反応がなかった。桃は何度かインターホンを鳴らしたが、それでも扉の向こうはうんともすんとも言わない。私たちは一〇分くらい扉の前に突っ立っていたが、流石に諦めて階段を下りた。


「……いなかったねえ」


 雅人が腕を組みながら言う。


「いなかったね」


 私も続ける。


「……ひ、引きこもり気味だから、来客に反応しないのかも、しれない」


 桃は人差し指を胸の前でツンツンさせながら言った。ぶりっ子め。


「ひとまず、そのあっくんの本名、教えてくれない?」


 私は本人に会えなかったやりきれなさを消化させたくて、桃からできるだけ情報を引き出そうとした。桃は少しだけ躊躇って、そして雅人の顔を見て、口を開いた。


「……み、御船……朝哉」


 その名前に、私は聞き覚えがあった。記憶を、遡る。そうだ。御船朝哉。駒早大学四年生。彼は、私が雅人と付き合う前に振った男だった。

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