第17話 172日目②/173日目
話が、終わった。思い出したくなかった過去を、最近よく掘り返される。でも、今回はいつもみたいに拒否反応が出なかった。苦しくなかった。それがなぜなのか。私は深く深く考えていた。
いや、深く考えるまでもないのかもしれない。これは、私の最悪な中学校生活の話ではないからだ。これは、あの学校での出来事をまた別の角度から切り取った話。私の知らない、話。
だけど、胸に引っかかる何かが、私に言葉を紡がせる。
「……私さ、中学で酷い目に遭って……決めたの。過去の私から、新しい私に変わろうって。だから、のえりーと一緒に中学、高校とたっくさん勉強した。メイクのこと、体型づくりのこと、スキンケアのこと、ファッションのこと、立ち振る舞いのこと、あと……髪のこと」
私は色々な美容室で縮毛矯正を試し続け、やっとの思い通り綺麗になった髪を触りながら、溢れ出る言葉の数々を、止めどなく流し続ける。
「最初は、見た目のことを、髪のことをいじってくる男子共とか、本気でそれを止めようとしなかった女子たちを見返してやろうっていう思いでやってた。でもね」
フッと息を吐く。そうだ。きっかけはそれ。あの忌まわしい日。陰毛ちゃんと罵られた日。
「いつの間にか、過去の自分が大っ嫌いになってた。見た目も、中身も、思い出すだけで、あの頃の自分が憎くて憎くて仕方なかった。おかしいよね。あのころは……あの日までは、自分のことが好きだったはずなのに。友達もいたし、授業も結構楽しかったし、音楽祭実行委員だってやりがいがあって……なのに、今は……」
目元に涙が湛えられていたのが、零れ落ちる。
ああ、最近泣いてばかりだなとなぜか冷静に考えている自分と、何か言わなきゃと思っている自分がいる。その二人が乖離して、今にもおかしくなりそうだった。
「真希ちゃん」
涙で歪む視界に、雅人の大きな影が揺れ動く。そして、全身が温かさに包まれた。雅人の細いのにがっしりとした体は、私のよく知っている安心感で、自然と体の力が抜けるのを感じる。
「真希ちゃんが嫌いでも、俺はずっと、ずーっと真希ちゃんのことが好きだ。見た目が変わっても、中身が変わったって思ってても、俺にとってはずっと大好きな真希ちゃんだよ」
「……そ、そんなのお……分かんないよ……」
涙声でまともに返事ができない。
「俺は知ってるよ。真希ちゃんが中学の頃から、学校の勉強を一生懸命していて、友達と仲良くしようと考えてて、真面目で努力家なところ。今でもそう。メイクとかの勉強一生懸命していて、俺やのえりーとのことも考えてくれてて、やっぱり真面目で努力家。朝、二時間も早く起きて出かける準備してるの知ったとき、びっくりしたよ」
……ああ、あああ。
お泊りした翌日のデートのとき、起こさないように早起きしてたのバレてたんだ。見てくれてたんだ。そっか、私、すごく変わって自信がついたって思ってたけど、変わってないところもあって、それもひっくるめて今の私を作ってたんだ。
「真希ちゃんは、変えちゃいけないところを変えなかったから、変えたかったところを変えられたんだよ。今も昔も全部地続きなんだよ。だから、昔の自分を否定しないで。消し去ろうとなんてしないで。真希ちゃんが忘れようとしてる真希ちゃんも、俺の大好きな真希ちゃんなんだから」
私は、雅人の胸の中でその言葉を聞いた。涙できっと顔がぐちゃぐちゃで、見られてなくてよかったって思った。ただ、それ以上に雅人の顔が見たくて、目を見てそれが言いたくて、雅人の肩から顔を遠ざける。雅人の顔を見る。眼帯や耳のことはあれど、優しいいつもの雅人。不意に、中学の頃、まだ海原雅人ではなく、入江雅人だった頃の幼い顔が重なって見えた。私は今と昔、両方の雅人に言うつもりで、口を開く。
「ありがとう雅人。大好き」
私はきっと笑っていた。泣いていたけど、笑っていた。
改めて、力いっぱい雅人に抱きつく。
「……ちょ、力強い! 痛い痛い!」
雅人がなんか言ってるけど、知らない。
いつ雅人の体がまた変わってしまうか分からない。雅人の熱を感じられるうちに、雅人の鼓動を聞いていられるうちに、雅人の形をちゃんと覚えられるように、今はずっと、こうしていたい。
*
夜。私と雅人は同じベッドで眠っていた。それは珍しいことではないけど、今の私にとってはとっても幸せなことだった。雅人の寝顔が横に見えるだけで、穏やかな気持ちになる。
時計を見ると、深夜一時を回っていた。雅人は寝息を立てている。私もそろそろ眠りに就こうと思って目を閉じた、そのときだった。
「う、ううん……」
雅人が、呻き声のようなものを上げた。私は驚いて、雅人の方を見る。眠気に閉じたばかりの目が冴えるの感じながら、視界に雅人の顔を捉えた。
「……まッ」
名前を呼ぼうとしたとき、私は目を疑うようなことに気づいた。
「ま、さと……? これって――!?」
雅人の胸元が、赤く光を放っていた。それは、明らかに自然の光ではない何か。急いでTシャツを脱がせると、心臓あたりが真っ赤に光っているのが分かった。雅人はみるみるうちに汗だくになり、呻き続ける。
「――雅人! 雅人!?」
私は両手で雅人の肩を揺さぶり、叫ぶ。何が起きているのか、分からない。
怖い。
さっきまであんなにも幸福感に溢れていたはずなのに、なんでこんな……。
「雅人! 起きて!」
胸はどうやら内側から光っているようで、光が強いせいかあばら骨や血管が透けて見えた。そして、そのお陰で何が光っているのかがわかった。
「雅人! 心臓が……心臓が……ッ!」
雅人の呻き声が徐々に叫び声に近いものになっていく。
「うううううぐあああ……ッ! や、めて……! 痛い……! 痛い!!」
体がバタバタと暴れ出し、自らの胸を掴むように引っ掻く雅人。私は何をすればいいのか分からなくて、ただただ泣きながら名前を叫んでいるしかなかった。隣の部屋から壁を殴られた音がしたが、それ以上に目の前の光景が恐ろしくて、悲しくて、辛かった。
「痛い……! やめ…………ろォ……、やめて……ください」
徐々に雅人の声は弱々しくなっていく。
「……ごめんなさい……ごめんなさい…………」
その声はいつの間にか子供が泣きじゃくるような声に変わり、私はいても立ってもいられなくなって、雅人を抱き寄せた。
「大丈夫、大丈夫……私はここにいるから。大丈夫だよ、雅人……」
赤く光っていた雅人の心臓が、光を失う。きっと、心臓を替えられてしまったんだと私は悟った。雅人が夢の中で心臓を抉り取られたと思うと、痛々しくて、どうしようもなくなって、私は雅人を抱きしめ続けた。そして、そのまま眠りに落ちたのだった。
*
翌朝。私は雅人に昨晩の出来事を話した。
どうやら雅人に夢の記憶はなく、ただただ寝た気がしなかっただけだという。そう考えると、心臓なんて後から気づけなかっただろうし、もしかしたらこれまでも内臓が入れ替わっていた可能性は高い。体が震えあがるようだった。私が、そして本人が知らないうちにも、雅人の体は誰かと入れ替わっていたのかもしれないのだから。
だが、私たちはこの超常現象に成す術がなかった。大人に話しても信じてもらえるわけがないし、かと言って自分たちで解決法など見つけられない。
そんな日が何日か続き、雅人の体はその間も替わっていった。
ある日手を繋ぐと、指の長さが違っていた。
ある日腕を組むと、肘の高さが違っていた。
ある日頭を撫でると、手触りが違っていた。
ある日キスをすると、舌の長さが違っていた。
ある日服を脱いだら、へその形が違っていた。
雅人の変化は加速していた。そのたびに私は泣きそうになり、雅人は覚悟を決めたような顔をする。いつか、心が雅人だけの別人の姿に変わってしまうのか。はたまたいつか……いつか心まで、雅人じゃない誰かになってしまうのか。そのとき、目の前にいるこの人は、雅人なのだろうか。
私はいつか雅人とのえりーに話した、テセウスの船を思い出していた。船はパーツを徐々に取り替えられ、いつしかすべてのパーツが元の船のものではなくなったとき、果たしてそれは元の船と同じと言えるのか。
そして。
私は怖い想像をしてしまった。
取り換えられた元の船のパーツを、改めて組みなおしたとき、その船は一体何なのか。
雅人の体を持った別人が、この世のどこかに存在しているかもしれない。その人間は、雅人になりたいのか。なったとして、一体何がしたいのか……。
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