第5話 151日目/30日目

 二日後、講義の終わる時間が三人で同じだったので、一緒に帰路に着いた。普段は雅人と私の二人きりで歩く道も、のえりーがいるだけで一気に煩く――賑やかになる。


「それでね、そのときの先生の顔がめっちゃ面白くて!」


 中学時代の先生の話。正直私は中学時代なんて思い出したくもないけれど、のえりーは時々こうやって面白おかしく話してくれるから、聞いていられる。もしかしたら、私の嫌な思い出を塗り替えてくれようとしてくれているのかもしれない。

 話のオチで、雅人は大笑いした。のえりーも満足そうに笑う。私も、このひと時だけは中学時代の話でも笑うことができた。


「はあ~笑い疲れた」


 雅人が目に涙を浮かべて言う。そんなに面白かっただろうか。それなりには面白かったけど。相変わらずツボが浅い。

 息を整えた雅人は、続けて口を開く。


「それって山口先生の話でしょ?」


 ……?


「うんそう! 知ってるんだ」


 私、雅人に山口先生の話ってしたっけ。雅人とは大学からの付き合いだから、知らないと思ってたけど……。

 山口一郎先生。私とのえりーの出身中学の先生で、たしか体育教師だった。保健の授業ではユーモラスな語り口で、たぶんそこそこ人気の先生だったと思う。体育は厳しかったけど。

 うーん、私から中学時代の話なんてすることないから、のえりーが前にも話してたのかな。


「ねえ雅人、山口先生の話ってさ――」


 その瞬間だった。

 喉元まで出かかったその質問が、一気に押し戻される。ひやりと背筋が凍り、刹那、時間が止まる。

 視線。

 あの、視線だ。

 羨望、共感、ちょっとした嫉妬、そして性的な目。そのどれとも違う、目。

 これは……。


「真希ちゃん?」


「真希っち?」


 二人の声が、時間を動かす。


「どうしたの?」


 のえりーが私の目の前に自分の顔を持ってきて、まじまじとこちらを見てきた。

 金髪ショートに、幼さが残るその顔。落ち着く。けど。


「……そ、その、例の視線が」


 言ったそのときだった。


「ヒぃッ……悲劇のヒロイン、ぶってさあああ、被害者面ぁ……しししてんじゃねえよ……」


 女性の声。低く、震えた、力任せに張り上げた感じの声が、のえりーの背後から聞こえてきた。

 顔を青くしたのえりーは体がビクッとしたその勢いで振り向いた。そのとき、のえりーの体が私の真正面からズレたので、声の正体の姿が露わになる。


「フゥ……フゥ……」


 息を荒くした彼女は、ゴシックロリータファッションで体は可愛く決まっているのに、顔はほとんどノーメイクのちぐはぐな姿をしていた。体格は小柄なのえりーより大きそうだが、酷い猫背でほとんどのえりーと変わらない身長である。


「え、えっと、何か……?」


 雅人が私の斜め前に立ち、右腕で私を守りながら言う。


「……あああ、あっくん……なんで、そんな女守るの……?」


 あっくん?


「ねッんえええ! あっくんんん! ……なんでしょ?」


 突然の金切り声に私たちは耳を塞いだ。

 私は混乱しているのが自分だけではないかと思い、雅人とのえりーを見る。幸い、二人もこの状況を理解できていないようだ。いや幸いじゃない。マズい。なんなんだこの状況。


「あ、あの、人違いでは……」


「ない!!!!! っそそ、そんなわけない! 顔は違うけど、そっそそその、耳の形ぃ……あっくんのだもん!!!!!!」


 は? 耳の形……?


「せ、整形してッ……逃げるつもりだったんでしょ! でもねえ……桃の、その、えっと……あ、ああ、あっああん……愛!! フヒヒ……の前には……むむむ無意味な、んだから」


 整形? 愛?

 自分を桃と呼んだこの女の子、何か勘違いしてる……。


「あ、あの……俺はその、あっくん? じゃないし、整形もしてないよ……」


 雅人が困惑極まったような表情で答える。


「そうそう! 雅人くんは雅人くんだもんね!」


 のえりーが言う。名前言ったらマズいんじゃ……。

 それを聞いた桃は目を見開き、再び興奮して叫び出した。


「ままま雅人!? かかっかわいそうに……そんな、かかかっこわるい……名前ぇ……で、生きていかなきゃいけない……なんッッッて!!!」


 言葉の抑揚がさっきからずっとおかしい。話し慣れていないのか、気が動転しているのか、それとも何かマズいクスリでもやっているのか……。


 私たち三人は、目の前の異常な女の子に、成す術がなかった。


「ヒヒ……桃があああ、救ってあげるから、まっまま守ってあげるから……ねえ……」


 昼間の駅前は人通りがちらほらとしかおらず、その全てが関わり合いになるまいと、私たちを見て見ぬふりをしていた。


「あっくん! あっくうううううん」


 桃はついに雅人の手首を掴み、力強く引っ張り始めた。雅人は身長のせいで細身に見えるが、実際は体格がいいので、ビクとも動かなかった。むしろ桃が無理に引っ張ろうとのけ反るので、逆に雅人に支えられているようにも見える。

 私はとにかく二人を引き離さなければと策を講じるも、目の前の予測不能な不安分子である桃がどうしても恐ろしく思えて、手を出せずにいた。


「お巡りさん! あの人です!」


 ふと気が付くと、いつのまにかのえりーが近くの交番から警官を連れて来ていた。警官は私たちの光景を見ると、露骨に面倒臭そうな顔をしたあと、仕事モードに切り替わったように桃に声を掛けた。


「ちょっと、どうしたのお姉さん」


 お姉さん、という見た目でもないが……。まあ一番刺激のなさそうな呼び方かもしれない。


「あっぐううあああん! うぇぇええん! うぐぐぐ」


 もう言葉になっていない声を上げながら、桃は雅人から引き剥がされる。警官の迅速な処置により、私たちは少し距離を置くことになった。警官に連れられる際、桃は私に向かって、「どどどうせ私のッ……ことブスだって! キモいってぇ! 思っでるんでじょおお!」と怒声を発した。

私たちから五メートルくらい離れた場所で、警官が桃に事情を訊いている。

 ……桃の最後の怒号、それは私の心に鋭く突き刺さっていた。思ってもいないことを言われたからではない。名誉を傷つけられたからではない。事実を、言われてしまったからだ。

 私は、彼女を、桃をブスだと思ってしまった。

 ……いや、なぜこんなに胸に突き刺さる。彼女はすっぴんで、何も顔のメンテナンスをしていないようだった。それなら、ブスと思われたって仕方ないじゃないか。だって、努力してないのが悪いんだから。努力すれば、変われるのに。見た目さえ変われば、人生が変わるのに。


   *


 一時間くらい経っただろうか。優秀な警官のお陰で、桃は落ち着き、厳重注意を受けて帰っていった。どうやらここ数日の不審な視線は彼女の仕業だったらしく、原因が分かった私たちはすっかり安心した。多分ダイレクトメッセージのいたずらも桃が原因だったのだろう。

 改めて三人で駅構内に入ろうとしたとき、ふと思い出した。


「――顔は違うけど、そっそそその、耳の形ぃ……あっくんのだもん!」


 桃のノイズが乗ったような声が脳裏に再生される。


「……ねえ雅人、耳、見せてくれない?」


 一歩後ろを歩いていた私を、二人は振り向く。


「もしかしてあの桃とかいう女の言ってたこと~? 気にすんなよあんなののことなんて~」


 のえりーがジト目で頭に手を組み言う。


「……いいから」


 なんとなく、一抹の不安が頭を過る。まさか。そんなはずはない。


「わかった」


 雅人は何も意見せず、私の目線まで頭を落とす。

 私は、雅人の耳を覗き込むとき、この間の足のことを思い出していた。サイズの変わった足。単純に大きさが変わっただけならまだ、いい。だけど。

 ……だけど、もし、もしもっと恐ろしいことが起こっていたとしたら。


「……ホクロがない」


 私は、驚きで動けなくなった。

 ほんの、ほんの数日前までくっきりとあったはずの、雅人の右耳のホクロが、綺麗さっぱりなくなっていたのだ。



 三十日目


 男の部屋に日光が射しこむことはない。それはさながら映画館や現像室のようで、パソコンモニターの青白い光が唯一、狭い視界を確保していた。

 男は激しく貧乏ゆすりをしていた。モニターには、真希のインスタグラムとmi@愚痴垢のツイッターが表示されている。そして、どの投稿にも、真希と雅人がカップルらしく映っている写真が載せられていた。


「……んんんんんこのぉぉぉぉ」


 男の左手の親指は血に濡れている。爪を噛み、指先の皮膚を噛み、自分の苛立ちを噛み砕こうとしている。


「こっこここの男さええええ……!」


 血走る目に涙を湛え、前髪は汗で額に貼り付いている。途端、男は血の付いた指などお構いなしにキーボードとマウスを動かし、何かを始める。


「しししい身長も、体格もおお、髪型だって……そんなにおおおおおおレと変わらないじゃないかあああああああ!!!!」


 モニターに次々と雅人の写真が映し出される。


「じょ、情報だ……情報、情報……ネット民舐めるな……俺がっがっ……この男みたいになれれば……このおと、男ッ……


 男の部屋に一瞬、モニター以外の光が瞬いた。

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