うつろぶね

結城綾

死人に口無し

 今にも沈みそうな矮小で真っ黒い虚舟うつろぶねに、私と老婆が座っていた。

老婆は腰を曲げしわという重力に引っ張られながら船を漕ぐ……要はあのか弱さで船頭を務めていた。

紫煙舞う春風と共に、風のゆくままに流されていく。

どこへ辿り着くかは、私にさえ分かりそうもない。






「あの、すいません」


”……”

老婆は声一つ、瞬き一つせずにこちらに振り向いてきた。

思わずギョッとして体が凍りつく。

鴉がバカだバカだと罵って鳴き始める。


「ここって、どこですか」

実の所、私はここ数時間前の記憶が全て消え去っている。

忘却した人間には、この状況を受け入れられるだけの余力を持ち合わせていない。

この私の声も、かなりか細くどこかに行ってしまうぐらいの音量であった。


”……”

老婆は聞こえなかったのか、それとも聞こえた上で無視しているのか、ただ虚な瞳で黄河を見つめていた。


「あの!ここってどこです!」

心の底をこじ開けた爆音で叫んでやったら、ようやく反応を示してくれた。

にしても肉声自体は聞き取れなかったが、今でもポッキリ折れそうな指を彼岸花へと向ける。

意味が理解できずに同じ質問を繰り返すと、今度は老婆の着ている服を指差していた。

……死装束であった。

雪景色をそのまま表現した美しさと皺のなさ。

そこが黄泉であり、私自身の死を意味していた。

鴉の薄暗い寒色が、さらに鮮明となる。

暗澹あんたんとした濃霧は、呼吸の度にそれが当たり前であると塗り替えられていく。




「し、死んじゃったの」

私には到底理解できなかった。

さらに凍えていく精神と、目を逸らしていた事実と向き合うことになる。

全身が朱殷しゅあんで一杯で、凝視すると左腕が消失していた。

空白の穴を塞げるものはないし、不思議と痛覚も感じなかった。

ここは黄泉の国に向かう道中の三途の川であろうか。

そう推測してもおかしくないぐらい、妙に落ち着きを保てていた。


”…………”

老婆は何かを訝しむかのようにじっとただひたすらに漕ぎ続ける。

私のことが物珍しいのか、動物達が続々とやってきた。

ネズミやリス、狸や熊、狐に狼といった多種多様な生物がこちらを覗いてくる。

そんな衆目から目を逸らすためにポケットに手を突っ込むと、あるキーワードが出てきた。

キーワード、鍵言葉、文字通りの車のキー。

ガシャガシャと金属音が音楽を奏でると同時に、私の封じられた数時間の記憶が呼び覚まされた。

ごちゃごちゃとしていた記憶の霧が、パッと立ち去り晴天となる。

保持された情報が、ファイルとなり想起されていく……。

何気ないが美しく素晴らしい日常と、それを突如破壊した鉄の塊が雲となり脳に伝達されていった。

どうしようもない絶望は、今ここにいる沈みかけの虚舟と絶妙にふさわしかった。






 道路の白線で楽しそうにはしゃいでいた娘理子と、スケジュールを確認する妻のぞみの記銘。

ショッピングモールに向かっている途中のことであった。

突然視界の横に大きな自動車がやってきたかと思えば、私は空を沿って体が吹っ飛んだ。

咄嗟に身を挺して娘を庇った。

妻が幸いにもぶつかる直前に停止したのも不幸中の幸いであった。

……それが私に出来る最大限の行動だった。

左手をタイヤに持っていかれ、混沌とした空気が立ち込めていたと思う。

カメラを持ちただこちらを向けている若者や、救急車を必死に呼んでくれた小学生もいた。

でも私の視界に入っていたのは、どうすればいいかわからなくなって放心状態となっている妻と血だらけの娘だけだった。




「そっか、そっかそっか」

これまた不思議と安堵している自分がいた。

あの二人が死ななかった?現実?だけが純粋に嬉しかったのだ。

心残りは山ほどある、後悔もエベレストとなり降り積もる。

人生でやりたいリストも未完に終わってしまったのも億劫だ。

なら、この息苦しさはなんなのだろう。

この嗚咽はどこにぶつければいいのだろう。


──お……きこ……てん……


鳥のさえずりがよく聞こえる。

うつつな天の足り夜、鳥夜うやを掬う網。

死に足らずは……


「聞こえてんのかって言ってんだよ鳥頭!」

どこかから声が聞こえるかと思えば、ツバメがこちらを突いていた。







「どうしたんだ、今考え事……しゃ、喋ってるぞこいつ」

頭から尾にかけて光沢のある紺色、ふっくらろした白い腹。

喋るツバメなんか世界一周したって探せやしない。

そんな空想じみた生き物がそこにはいた。


「散々無視しやがって、さっきから合図送ってただろうが」

飛燕ひえんと名乗る自称イケメンツバメは、どうやら合図を送っていたようだ。

……くちばしで。


「お前」


「飛燕だ、そして二度は言わんぞ。お前は死んじゃいない」


「飛燕、どういうことだ」

なんと私が死んでないというのだ。

このまま独白で締めたかったのだが、そうは問屋がおろさない。


”手違いでこっちに連れてきたんだあの無能神”


「な、なんだって!?」

大声で叫びそうになったが、咄嗟にくちばしで口封じしてきた。


「しっ、静かにしろ。あいつらは死者と生者の見分けがついていない。餌にされるぞ」

あいつらとは動物達や物怪、怪異といった異端な存在らしい。

私の視界には何も表示されないだけで、そこらじゅうに幽霊がまとわりついている。



「……で、どうすればいい」


「あの老婆に行き先を言え、死人の居場所じゃねえ、生きた人間のだ」


「あの老婆何にも喋っちゃくれないぞ」

老婆の方を見るとやはり意志はなさそうで、焦点の合わない双眸で舟漕ぎをしていた。

しかしどうやらそこの解釈から間違っていた。


「お前は馬鹿か、だから鴉に鳴かれるんだ」

性根から叩き直したくなるほどのほくそ笑む顔。

というか鴉に馬鹿にされた事実にちょっと精神にくる。


「あいつは喋らないんじゃない、。石頭だが意志は持ち合わせる。お前に会話する気がなかっただけだ」


「なるほど、確かにごもっとも」

途中から投げやりになっていた自分がいたことは確かだ。


”そうか、分かったんなら早く言え。そして死人には触れるなよ、決してな”


”そして忘れるな、言葉という最大の魔法を”

怪訝とした表情が、緊迫感を演出してくる。

エンターテイナーとしての才能も持ち合わせていそうなツバメは、漆黒の翼で指示を向ける。

生きる道が空を晴らしてくれる気がした途端、今までのマイナスの感情とは別の何かを感じた。


「すいません」

最初からこうすれば良かったのだ。

周りくどく細々とせず、自分の意思をはっきり伝えればよかったなのだ。

老婆は今度こそ一発で聞き取れたのか、こちらに視線を合わせる。

この老婆はいわば鏡合わせ。

どこか見切りをつけていた時の反応とは違い、生きる執着を持った人物には生きた双眸で応答する。


「妻と娘の場所まで案内していただけますでしょうか」

温厚な声質ではっきりとお願いをする。

現世でもあの世でも不変の事項は存在する。



どちらかが上で、どちらかが下。

限りなく平等に近づけたのが丁寧でありそれが人間関係。

言葉は人類最古の魔法でそれは友人にも家族にもしてくれる。

しかし初対面ではそうはさせてくれない。

だからこそ、私は言葉を選んだ。

それにこれは賭けでもある。

理子か望、二人生きてこその世界だ。

どちらかが欠けた世界は、あの世と大して変わらない。




”…………”

私の言葉が発せられてしばらくの間、船内では静寂な空気が漂う。

老婆は思考を途切らせず、ツバメはニヤリと口を尖らせたまま待機していた。

病気は気から、事故も諦めなくば奇跡も誇示する。

……途方のない時間が経過した気がする。

ここには時間という概念が存在しないので、やはり気の迷いでしか判断しかねない。

それでもこの表現は的確であった気がした。

同時にある確信もそこにはあった。

──決心がついたのか、私の方にむかってくる老婆。

表面には、

この瞬間初めて目を合わせた、その容貌はどこかで見覚えがあった。

虚げで儚さがあれど、昔どこかの媒体で……。

その刹那、私は老婆とツバメに背中を押されて川の奥底に沈んでいった。


「なっ」


「お帰りはあちらだ、じゃあな!またで会おうぜ!ビリリリリ」

ツバメの鳴き声だけじゃない、鴉や周囲にいた全ての動物が合奏を始めた。

カ〜カッカ、コッココ、ミ〜ンミンミン。

さえずりは異種混同の歌声となり一つの作品となる。

全身がどんどん重くなり、タバコの紫煙が身を包んでいく。

コーヒーの湯煙が走馬灯のように現実に引き戻していく。

胡蝶の泡沫うたかたが私の視界を遮る。

そして自らも胡蝶となってから、ゆっくりと、あぶくとなり夢となり消えていった。











迷いはもう振り切れた。

酔いはまだ覚めそうにない。

──しかし今宵もまた、目覚めそうだ。












 意識が回復するとそこにいたのは、口紅の良く似合う妻と大きく口を開け泣きじゃくっている娘であった。

どうやら私は半年も眠りについていたらしく、このまま昏睡状態でもおかしくなかったそうだ。

理子はショック状態に陥っていたらしく、ここ最近は引きこもり気味になっていたそうだ。

望の精神状態も怪しく、知人曰くいつ後を追うかも怪しかったらしい。

ともあれ、終わり良ければ全てよし。

まあ左手は欠損してしまったので、義手を使いながらリハビリをしている最中。

……ついでに霊も見えるようになったが。

休職扱いとなっているので、目処が立ち次第復帰する予定だ。







 玉兎ぎょくとが射す秋の夕暮れ。

心地良い風を浴び病室のベットで寝転んでいると、どこか見覚えのあるツバメがこちらにやってきた。

一枚の写真を運搬してきた、そこに映るはかの老婆。

老婆は私の高祖母で、先祖代々守護霊として家族を守ってくれていたのだ。

今回の出来事の詳細を霊媒師に語れば、


「その老婆に口はなかったかい?」

とおうむ返しをしてきた。


「ええ、ありませんでしたね」

と返答すると笑ってこう言った。


「死人に「」無し」

それが例え虚舟きょしゅうであれど、全てが嘘ではない。

そこにいるツバメのくちばしが、今を生きている何よりの証拠だ。







うつろぶね/死人に「」無し       了



















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うつろぶね 結城綾 @yukiaya5249

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